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『堕落論』坂口安吾 感想

こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

単に、人生を描くためなら、地球に表紙をかぶせるのが一番正しい──誰もが無頼派と呼んで怪しまぬ安吾は、誰よりも冷徹に時代をねめつけ、誰よりも自由に歴史を嗤い、そして誰よりも言葉について文学について疑い続けた作家だった。どうしても書かねばならぬことを、ただその必要にのみ応じて書きつくすという強靱な意志の軌跡を、新たな視点と詳細な年譜によって辿る決定版評論集。


第二次世界大戦争後、日本には戦禍が広がり、民衆は衣食住もままならない世界を生きなければなりませんでした。天皇制により与えられた道徳、希望、観念は、敗戦という形で全てを否定され、生きるための心の道標を失い、空白の精神に追いやられました。戦時中の天皇の絶対性から押し付けられた、国のための犠牲としての美徳、それを支える貞節の死守、軍国主義に基づいた道徳の遵守など、我が身の上を二の次にした観念を植え付けられて、民衆は戦地へ繰り出していました。「死=義務」とも言える恐ろしい国の命令は、夥しい人数の犠牲を払います。工業技術の劣勢を人命兵器で対抗した日本でしたが、広島と長崎へ落とされた全てを消し去る凶悪な力に、ついに屈しました。

人間として生きるための道標は一瞬にして消え去り、そこには空虚な無の生活が現れます。見渡す限りの瓦礫の山、生存者たちの虚な表情、抱いていた観念は潰えて心身ともに呆けてしまいます。このような状況を見た、戦前より活動していた文学者たちは、各々に感じて芽生えた思想を基に執筆を始めます。特に活発に動きを見せたのは、太宰治や織田作之助、そして本作の著者である坂口安吾(1906-1955)が括られる「無頼派」(新戯作派)と呼ばれる人々です。彼らは軍国主義に与えられた道徳や観念を否定して、民衆が抱いていた絶望感そのものもを不要なものであると説きました。その熱量は激しく、多くの作品を濫立させ、忽ち民衆が受け入れて流行作家としての立場を確立します。


安吾は小説、エッセイ、論評など、手法を様々に執筆し、通俗的な代表作家となりました。この成功は民衆への支持に反して、それまでの文芸性を劣化させるものとなります。彼は、その主題が原因でもありますが、感情を乗せた情景描写を無くし、心の内を吐露する表現を良しとしたところがあります。社会への目線、国への目線、他者との交流などを通した心象描写を消し去り、自己の内的な感情や意思を尊重します。これにより、それまでの文学に込められていた社会に向けた思想や哲学は薄れ、自己の感情を全面に出した「実質上の不幸」を主題としました。もちろん、端的な不幸語りではなく、読者が如何に戦争によって与えられた虚無から歩き出すことができるのか、ということを考えて込めたため、当時の民衆にとっては大きな支えとなりました。安吾は江戸時代の俗世間で受け入れられていた「洒落の込められた戯作」への回帰を望んでおり、それらを漢文学などを正統としていた日本の文芸思潮へ復古させようと試みていました。


これまでの写実描写は、美しくしようとする試みが見え、加工が芸術性を失わせていると説いています。安吾は言葉を純粋なもの、絶対なものとして捉え、作者が如何にその言葉を代用ではなく真のものとして使用するかということが、芸術に必要な精神であると解釈します。そして、空想と実際との差異は、感情描写ではなく相違である、その相違を受け入れてもなお、人間は肯定的に存在することができる、という考えが広がって彼の思考を深めていきます。

「不要なる物はすべて除かれ、必要のみが要求する独自の形が出来上がっている」

このように述べる追求は、人間精神の生死へと突き進みます。それはまさに戦後直後の社会が民衆に与えた環境であり、「生のために必要なもの」という見つめるべき主題を見出します。そして「生存それ自体が孕んでいる絶対の孤独」という人間の根源的認識が明確に生まれ、孤独による不安こそが生への活力へと繋がるという逆説を提示します。


本作『堕落論』は、安吾を戦後十年間の代表的作家として位置付ける決定的な作品となりました。戦後に空虚を抱かされた民衆が、生きるために何を心に持つべきか、否定されて失われた道標に代わって抱くべきことは何か、を強く書き綴っています。虚無と頽廃に包まれた民衆は、その日を生きるために真当とされていない行動によって心身の糧を得ていました。生き延びた兵士たちは闇屋(闇市などでの不正取引者)に堕ち、戦争で伴侶を失った未亡人は他の男へと堕ち、戦前の道徳が失われていました。しかし安吾は、この失われた道徳を与えたのは軍国主義であり、天皇制であり、人間本来の姿ではないと主張します。こういった「堕落」は、敗戦によるものではなく、人間であるからこそであり、生きることは堕ちることであると説いています。国や社会に与えられる道徳は国や社会を維持するためのものであり、それらを苦しみながら自己を殺して捧げることは人間として不要な行為であるという考えです。社会の犠牲になるのではなく、人間としての自己を守るために、自ら覚悟を持って堕落をすることが真に生きることであると結びます。こうした「堕落」は社会や国家、或いは家族に至るまで影響を及ぼして、時には背徳的な行動を起こします。突き詰めた人間としての存在は「孤独性」へと結び付き、「堕落」が齎す孤独による寂寥からの空虚さ、そして頽廃を見出させます。つまり「堕落」は「根源的な孤独」を突き詰める行為であると言え、安吾の作品にもその思想は多く散りばめられています。


言葉も叫びも呻きもなく、表情もなかった。伊沢の存在すらも意識してはいなかった。人間ならばかほどの孤独が有り得る筈はない。男と女とただ二人押入にいて、その一方の存在を忘れ果てるということが、人の場合に有り得べき筈はない。人は絶対の孤独というが他の存在を自覚してのみ絶対の孤独も有り得るので、かほどまで盲目的な、無自覚な、絶対の孤独が有り得ようか。それは芋虫の孤独であり、その絶対の孤独の相のあさましさ。心の影の片鱗もない苦悶の相の見るに堪えぬ醜悪さ。

『白痴』


安吾は冷たいほどの眼差しで「堕落による孤独」を推し進めますが、それは読者をただ突き放す訳ではなく、その孤独が何を齎すかを提示します。孤独の寂寥を望む者などいない、つまり、だからこそ、孤独を逃れようと、寂寥を払拭しようと踠く熱量こそが生命力となり、生きる活力へと転換されていくとする考えです。それは清濁併せ呑む、社会的道徳に反した生き方や行動であったとしても、自己が真から望む生きたいという欲に準えているのであれば、それこそが正であり生きる価値を確立させると訴えます。


私は野たれ死をするだろうと考える。まぬかれがたい宿命のように考える。私は戦災のあとの国民学校の避難所風景を考え、あんな風な汚ならしい赤鬼青鬼のゴチャゴチャしたなかで野たれ死ぬなら、あれが死に場所というのなら、私はあそこでいつか野たれ死をしてもいい。私がムシロにくるまって死にかけているとき青鬼赤鬼が夜這いにきて鬼にだかれて死ぬかも知れない。私はしかし、人の誰もいないところ、曠野、くらやみの焼跡みたいなところ、人ッ子一人いない深夜に細々と死ぬのだったら、いったいどうしたらいいだろうか、私はとてもその寂寥には堪えられないのだ。私は青鬼赤鬼とでも一緒にいたい、どんな時にでも鬼でも化け物でも男でさえあれば誰でも私は勢いっぱい媚びて、そして私は媚びながら死にたい。

『青鬼の褌を洗う女』


戦後直後の社会は空虚と頽廃に包まれていました。しかし、その空虚と頽廃を与えたものは戦争ではなく、既存の植え付けられた道徳や観念であり、それらを取り払われた社会で「堕落」することは正であり善である、と説かれた民衆は、大変に心を救われたことと考えられます。虚無の中から希望を生み出すことは困難ですが、虚無を受け入れて自己の真の欲を見出すことは、当時の民衆にとっては救いであったのではないでしょうか。現在でも心に訴えるのことの多い本作『堕落論』。未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。


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