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『にんじん』ジュール・ルナール 感想

こんにちは。RIYOです。
今回はこちらの作品です。

にんじん色の髪の少年は、根性がひねくれているという。そんなあだ名を自分の子供につけた母親。それが平気で通用している一家。美しい田園生活を舞台に繰りひろげられる、残酷な母と子の憎みあいのうちに、しかし溢れるばかりの人間性と詩情がただよう。


ジュール・ルナール(1864-1910)はフランス西部に位置するマイエンヌで地元役人の父親のもとに生まれました。この父親は一般公共事業の請負業者で、のちに彼の出生地であるブルゴーニュ地方シトリー・レ・ミーヌに移り住んで市長となりました。反聖職者の共和党員であった彼に対し、母親は金物商人の家柄の娘で、敬虔なカトリック信者でした。ルナールが生まれると一家はすぐにシトリーへと向かいます。パリのシャルルマーニュ高等学校で文学の学士号を取得しましたが、高等師範学校の試験は成績が振るわなかったことから断念して、兼ねてより関心を強く持っていた文学サロンやサークル、演劇の劇場などへと通い歩きました。数多くの文学作品を読み耽り、意見を交わし、彼は自身の持つ文芸性を養っていきます。1886年には自費出版で詩集『薔薇』を発表するなど、活動は熱心に行なっていましたが、生活を営むほどの収入を得ることはできませんでした。それでも彼は執筆活動を続け、幅広く読書し、パリの文学カフェに頻繁に通い、そこでコメディ・フランセーズの女優ダニエル・ダヴィルに出会います。彼女によるルナール作品の朗読は大きな効果を生んで、非常な好評で一時の成功を収めます。


1672年に劇評家ジャン・ドノー・ド・ヴィゼが創刊した文芸誌「メルキュール・ガラン」は、ブルジョワの知識人階級に対して、世の学問や哲学、文芸や時事問題を報じることが目的でしたが、ファッションやゴシップなどにも内容は広がり、結果的に商業誌としての大きな成功を収めました。そして古典の芸術研究や宮廷生活など、幅広い記事の内容から多くの支持者が生まれ、民衆へ与える影響が巨大なものになったことで政府からの編集委員が介入し、「メルキュール・ド・フランス」と改称して公的な要素を含む文芸誌と変化しました。寄稿者にはギヨーム・トマ・フランソワ・レナールやヴォルテールなどが参加していましたが、その後、フランス革命による情勢の変化でナポレオンにより廃刊されました。この「メルキュール・ド・フランス」の復刊に尽力したのがルナールでした。象徴主義として括られた詩人たち(ジャン・モレアス、サン=ポル=ルー、アルフレッド・ジャリなど)とともに、1890年に再刊し、大きな成功を見せました。そして1894年に自身の執筆で自伝に脚色した小説『にんじん』(Poil de carotte)を発表します。


「私は自分自身をシトリー・レ・ミーヌ出身としての子供の心を持っていると言える。私の第一印象はそこで生まれたからだ。」という彼の言葉からも窺えるとおり、幼少期を過ごした最も美しい景色と、最も印象的な経験とを、彼は色鮮やかに心に保っていたことが理解できます。本作は、赤い髪とそばかすを備えた「にんじん」と呼ばれる子供の目線で進められます。自分勝手な兄、母に言いつけて憂さ晴らしをしようとする姉、無関心な父、そして常に虐げ続ける母、この4人とともに暮らす少年の短い出来事が次々と繰り広げられます。しかし、完全に迫害されているわけではなく、父や兄と狩りに行き、川へ泳ぎに行き、親戚の家に泊まるといった出来事も含まれています。最も彼に害を与えるのは母親です。兄や姉を愛し、完全に差別化して「にんじん」に接します。家族に愛されないという苦痛は、少年には特に心を傷つけます。母親からの命令は、彼に肉体的な苦痛と精神的な我慢を永続的に与え続けます。なぜ兄や姉は愛されて、自分は迫害されるのか。考えてもわからない問題によって心を閉ざしていき、愛情の欠如を「他への暴虐」として発散します。土竜や猫を嗜虐的に殺め、そこに喜びを感じるという怒りの発散描写は憎悪と悲しみが滲み出しています。


しかし、迫害に対する忍耐はやがて限界を迎え、「にんじん」は遂に母親へ反旗を翻します。母親の指示を拒否して行動を完全に停止します。実に現実的な反抗の描写は読む者へ共感と勇気と緊張を与え、少年の心が最大限に高揚していることが理解できます。それを受けた母親の態度には、戸惑いは見えるものの、反抗の理由や心情を理解しようといった思考には向かわないところに哀れさを感じさせられます。

また、終盤では「にんじん」が父親へ虐待を受けていることを打ち明けます。父親は理解しているような素振りを見せますが、根源的な家族が持つ心情についての関心が無さすぎることから、少年の持つ問題や抱く危険性を理解しません。この点でも同様に哀れさを感じさせ、恵まれない家族への諦めが少年の心に見えてきます。


愛情の乏しい家族に囲まれて生まれる幼少期の挫折と苦悩が、本作には隅々まで敷き詰められています。少年のなかで育まれる屈辱や憎悪は大きく膨らみ、その環境から身を守るための弱者特有の狡猾さが身に付き、それが彼の行動となって周囲へ現れます。このような描写には、ルナールが抱いた家族への感情が懐疑や皮肉となって作中に込められ、胸中を吐露するように「にんじん」の心情へ映し出されています。ルナールの持つ誇張のない客観的な家族への目線と、自らの抱く懐古的な心情を持った思い出とが、シトレーの美しい景色と融合して読む者へ哀愁を共有するような感情を与えます。そして「にんじん」を通して、家族愛を熱心に求めていた心情と、家族愛を一向に与えられなかったことを、ルナールは独白するように描いています。

「誰もが孤児になれるわけではない」という考えが読み進めるほどに強くなり、ルナールの主張が奥から顔を出してきます。子供は家族を選べない、ならば自分で人生の道を切り拓き、自分の人生を見出して歩まなければならない。切ないながらも社会を生きるために必要な、重要な考えです。


他の者は他の者で苦労はあるだろうさ。でも、僕あ、明日、そういう人間に同情してやるよ。今日は、僕自身のために正義を叫ぶんだ。どんな運命でも、僕のよりゃましだよ。僕には、一人の母親がある。この母親が僕を愛してくれないんだ。そして、僕がまたその母親を愛していないんじゃないか。


1897年に父親が病を苦に心臓を撃ち抜いて自殺しました。ルナールは、1904年に父親のあとを継いで、共和党員としてシトレー市長に就任します。自分の求める家族愛を与えてくれなかった家族の死は、それでも愛を求めるルナールをシトレーの地へ縛りつけました。大人の世界では、寛大さも誠実さも報われません。狡猾でなければ切り抜けられない場面もあります。「にんじん」の生きた環境は少年には絶望的なものでした。そこから彼は、明晰な狡猾さを持ってそこから逃れようとしました。ルナールは本作で、彼の深い観察力と緻密な描写から生まれる冷淡さと正確性をもって、皮肉や知性のなかに愛を求める優しさを次代に向けて描いたのだとも言えます。


多くの章で細かく区切られており、非常に読み進めやすいジュール・ルナールの代表作『にんじん』。未読の方はぜひ、読んでみてください。
では。


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