友達は"世界"みたいな考え 【エッセイ】

僕がよくお話しをする子に"世界"という子がいます。
その子にはなんだっていえるという信頼している子なんです。
けれど時たまイタズラをされたりもするので困ってたりもします。
でも言い訳をして構えず申し訳ないことをしたかなとも思ったりもします。
一生付き合っていくので大切にしなきゃなと思います。

みたいなことはなくて、そんな子は現実にはいないのですが、
僕は頭の中で最強で最凶な友達"世界"がいるのです。

ということで僕が"世界"という友達のことをお話ししたいと思います。


さて、
当たり前に分られていることだろうが
一応、一応言っておくと
"世界"は世界を擬人化させて表現しているもので
名前のように感じられるようにセカイと呼称したが呼び方は現実だったり、社会だったり、敵だったり嫌いな誰かの名前とか好きな誰かの名前でもいい何にだってなれるのだから"世界"は妄想と想像の住人なので、

さて
一応の話をしたので
世界をなぜ友達というようになったのか。
出会いの話をしたいと思う。

世界と出会ったのがいつの頃なのかは正確には覚えていないが多分中学生の頃だったと思う。
あの頃は出会いが多かった。

世界とのはじめての出会いはいい出会いというわけではなかった。
むしろ純粋な人間としてみたら最悪といっていいだろう。
世界との出会いの理由はやつ当たりの場所、言い訳の場所を探したくなっているときにたまたま偶然に出会った。
とはいってもいつかは出会うことになっただろうと今は思うので必然の出会いだったのかもしれない。
話が少し逸れたが、
やつ当たりの場所、言い訳の場所を探していた。
もっと個人によって具体的なことをいうと自責の念にかられることがあると思うが自責つまりは自分に責任を感じることだが、それに意味がないというふうに思うようになった。出来るなら人のせいにして納得するのだろうが誰に責任を背負わせることができるのかわからなかった。というより具体的誰かを想像してそうすることに疲れていたのかもしれない。
だから僕は"世界"と出会った。
誰かを想像したくないから誰とでもいえるようなものを僕は創造したのだ。
はじまりはそんな感じだった。
無意識にやっていたことを意識的にそして名前をつけてやり出したのだ。
そんなこんなで"世界"に恨みつらみを抱く対象として生きてきた。
言ってしまえば"世界"というのは僕の中で人間全般をさしていたのだろう。
という関係である程度一緒にやってきたものだが
少しその関係が変わったのはいつだっただろう。

二十歳を過ぎた頃だった。
もしくはそれが少し過ぎた頃だった。
アルバイトをしてそれに慣れはじめた頃で大体の人間関係が安定しはじめた。
そんなころある本を読み始め出して、僕の見方が変わった。違うメガネをかけれるようになったとも言えるかもしれない。
ある本とはいわゆるビジネス書とか教養書みたいな本だ。
今まで読んできた本はいわゆる小説で物語を読んで楽しい面白いとだけ思ってきた。
ビジネス書とか教養書とかも楽しい面白いという気持ちは今だとあるのだけれど、それに気づいていなかったので何となく避けてきたものだった。
そんな中でそういう類の本を読み始めたのだがその中で僕が強烈に見方を変えさせられた。
"世界"との付き合い方に変化を生み出した本の話をしよう。
早急にタイトルだけをいうと
「サピエンス全史」
という本だ。
内容をこと細く面白さなどを語ると大変に長くなってしまうので僕読んで変わったところだけを抽出してお話しする。
この本を読んで文化人類学的な視点を身につけた。文化人類学とはなんぞやと説明をすると長くなるし正しいことを言えるのかも分らないので省略するが、
その視点からの歴史を教えてくれる本なのである。
そしてその歴史を知ったことによる面白さとはいうなら今までの人生の一つ一つに伏線が張り巡らされていてその知識によりそれらが回収されるような感覚といえる。
そしてそんなふうになった僕は"世界"との接し方が変わった。
というより情報が増えたのだろう。
名前しか知らなかったのがそいつが何が好きで何が嫌いでどういう考え方をしてるのか分かったから接し方が変わったのだろう。
"世界"のことを全部知れることはないのだろうけれど、それは人も同じで。
だから僕は"世界"のことを友人なんていってこれから生きていくのかもしれない。

"世界"に愛される術を僕は模索している。



ここまで読んで頂きありがとうございます。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?