「自分の外にある、社会の問題ないし関心ごとは、いかにして自分ごとになるのか(そもそも自分ごとにする必要はあるのか)」  セキ編

今回からテーマを絞って、複数人が同じ課題についてnoteを書くという形式をとることになった。
初回である今回、与えられたテーマは「自分の外にある、社会の問題ないし関心ごとは、いかにして自分ごとになるのか(そもそも自分ごとにする必要はあるのか)」である。
難しいテーマである為、与えられた課題そのままをコピーアンドペーストしつつ、セキ編と銘打ってタイトルにした。
これを書いている今、自分の主張、立場は非常にはっきりとしていないが、それは書きながら探っていきたいと思う。

自分の外にある出来事を自分ごとにする。

なかなか難しいことだと思う。そもそも私達はすでに、自分ごとで手がいっぱいいっぱいだ。

都会では自殺する若者が増えている
今朝来た新聞の片隅に書いていた
だけども問題は今日の雨 傘がない

井上陽水/傘がない 歌詞より抜粋

井上陽水の曲に「傘がない」という歌がある。
上に引用したのはその詩の冒頭の部分である。
まさしく、若者の自殺や政治家の発言などの「自分の外にある社会の問題」と、想い人に会いに行くための傘がないという「自分ごと」を対比し歌ったものだ。
現代社会で私達はさまざまな社会問題を目の当たりにし、考えを巡らせることを余儀なくされる。
その手前、私には私で、今日の出勤前に夕食をいつ取るか、さらに美味しい珈琲を淹れるにはどのような試行錯誤が必要かなど、自分ごとであるミクロな問題が山積みである。
単純に比較すると、私にとっては後者が遥かに重要である。いや、重要というより、そちらを優先せざるを得ないのが現状だ。

自分ごとになるとはどのような状態か。

その問題に対して深く関心を寄せている、かつ自主的にそれに対して何かを働きかけようとする意思が見られる状態。
自分のこと(のよう)になった状態。
自分の身に起きたことならば、考えるまでもなく私達はその状態に達する。
それ自体がそのまま自分ごとであるからである。
しかし、外で起こっていることが如何にして自分ごとになり得るだろうか。

自分の外部に存在することを自分ごとにするには?

社会の中にある自分の位置付けを考えてみる。
社会のみを俯瞰する視点においては、自分という存在は社会の一部分”でしか”ないように思われる。が、社会の一員として何かを起こす能力が自分にはあるのだという意識を一旦持とうとしてみると、社会の関心ごとは、自分の行動に対するきっかけとして機能するはずではある。
ぱっと思い浮かんだ方法を書き記してみる。
社会の問題を自分の近くに置き換え、自分に直接関係のある問題として意識するというものだ。
戦争によって侵攻されるのが自国だった場合、と想像をすれば、ウクライナに対する憐れみは一層増すように感じる。
今までに自然と培ってきた道徳観に基づいて同情する。
しかし、これでは「同情」と書いたように、他人事の領域を出ないように感じる。真に”自分ごと”と言えるほど直に迫ってはこない。

自分ごとにする必要性

善と偽善という2つの領域において、自分ごとと他人ごとはどのように関わってくるだろうか。
「やらない善よりやる偽善」などと言ったりするわけだが、自分ごととなっても善を行わない、他人ごとであっても偽善で行うなどが、気まぐれに発生することがある。高校時代、地域のボランティア活動に参加していた友人は、”何かしらの活動”をする目的の為だけに、その団体に所属していたそうだ。そこには、環境に対する問題意識を自分ごととして捉える姿勢は無く、むしろ、自分の怠惰な時間を埋めるための「自分ごと」がその行動の理由になっていた。

責任感、当事者意識、自分ごと化

自分が直面している"自分ごと"には、当然だが当事者意識が含まれる。
他人にはこの気持ちが理解出来ないだろう、そう思うからこそ"自分ごと"足りえているのではないだろうか。
赤の他人がこの気持ちを理解出来てしまう、私の苦しみを"自分ごと"として処理してくれるのだとすれば、私の気持ちはその数だけ分散され、私は自分が感じていた"自分ごと"から少し遠ざかることになるのではないか、とも思う。
それに、自分ごとにしようとする意識が一旦挟まれる時点で、そこには、自分が「◯◯しなければならない」という焦りや責任感が生まれている。
この状態を、自分ごとにしているとは言い難いように思われる。
外部に在る問題に対して、当事者意識が圧倒的に欠如している状態で、自分ごとにすることは、難しいように感じる。
私達は、外部と自分ごとの間で揺れ動き、時には一瞬の行き来をすることで、自分ごとになった状態の仮想体験のうちに、行動するのではないだろうか。

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