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改めて「ばちがあたる」を考える

「ばち」との出会い

僕が「ばち」の存在を認識したのは小学2年生の時だった。
ご飯つぶをお茶碗に着けたままごちそうさまをするとばちがあたるよ
と祖母が言った。
お米はお百姓さんが汗水たらして作っており、それを残すのは失礼だ、というのが祖母の教えだった。お百姓さんに会ったことはなかったが、作ったものを残すのは失礼だというのは、子供ながらにも理解できた。

これ以外にも「ばち」に関する多くの事を祖母は教えてくれた。

ご飯を食べる時に膝を立てるとばちが当たる
ご飯を食べる時に肘をついて食べるとばちが当たる
お茶碗のご飯に箸を立てるとばちが当たる(たて箸)
食事中に箸で人を指すとばちが当たる(指し箸)
おかずを箸で刺して食べるとばちが当たる
など。

それらは人として礼を欠いた行いであることを教えられ、おてんと様はきちんと見ている、という事も教えられた(その頃はそれほど重くとらえてはいなかったけれど)。

その時繰り返し言われた「ばち」のある暮らしを取り戻した方がよいと痛感したので、戒めの念も込めて文章に残すことにした。

「ばち」を考える16歳

ばちについて真剣に考えさせられたのは高校2年生の時だった。それは退屈で、退屈で居眠りしたくなるような国語の授業中のこと。
当時の僕の国語の授業への態度は「作者の意図がどうして先生にわかるんですか」という反発的な物で、先生の問題に正直に答える気持ちはさらさらなく、先生の意見が正解だからテストの為にそれだけ覚えておこう、くらいに思っていた。
今振り返っても思い出せる教科書の話はほとんどない。

そんな僕でもこの授業だけは今でも覚えている。
それが「科学技術の発展による幸福の追求とその裏側について」に関するお話。
簡単に概要をお伝えすると、
歴史の多くの時点において、人は自らの生活をより良いものにするために工夫をこらし、科学技術を発展させてきた。移動を楽にするために車や飛行機を生み出し、家事を楽にするために洗濯機や掃除機を生んだ。しかしその恩恵を手放しに喜ぶ人たちがいる一方で、別の思想を持った人たちもおり、その中には反対する人も一定数いた、というのが概要だ(先生が思う本作品の概要とは異なるかもしれないが)。

その中で特に覚えている話がある。
20世紀前半、飛行船に関する研究開発が進み、運搬や旅客移動で利用されるようになった。空路での運搬を喜ぶ人がおり、空を飛んでの移動を喜ぶ人たちがいた。さらには優越感や幸福感を感じる人もおり、技術の発展を喜ぶ人たちが多数いた。
しかし飛行船の活躍を称賛し推進する人たちがいる一方、飛行船を飛ばす事は神に対する冒涜だと考える人たちもいた。
「空に金属の塊を飛ばすなんて、神の領域を侵害している」
「人は鳥ではない。大地に生まれた生物なのだから、陸上での人類の発展方法を模索するべきだ」
とかそういう意見があった。
そんな事をしたらいつかバチが当たるぞ!
と。

そしてその後のある日、飛行船は爆発して乗客数十名が死亡した。
原因は水素ガスが云々かんぬんで静電気による引火が云云かんぬんという説が有力視された。
だが、反対派はその見解に納得しなかった。それは神の裁きだと主張し、きっと雷が落ちたのだ、と主張した。科学的には雷が原因ではない、という異論も出たが、反対派からすると、天罰が下ったんだ、というのが思想から導き出された解釈であった。

この授業を通して僕は、科学技術の発展、自分の思っている成功は全ての人に認められ、称えられ、称賛されるものではないことを知った。便利なものはいいものだ、と思い込んでいたから、高校生ながらちょっとした衝撃を感じたのを覚えている。

その後、32歳の今に至るまでばちが当たる、という行動指針に触れることはなかった。いったいどんな行動指針が優位になってきたのだろう。

2022年改めてばちについて考える

これはあくまで僕個人の考えになるが、日本全体において「ばちがあたるかもしれない」という行動指針の影響力はもう少し強まっていても良いのではないかと思っている。
ばちがあたるかもしれない、と考えるのは誰かの事を慮ることだ。

これをしたら誰かに迷惑がかかるかもしれない
ここまでやってしまったら誰かに迷惑がかかるかもしれない
誰かを不快にさせるかもしれない
誰かの幸せを奪ってしまうかもしれない

物質的にはある程度豊かになった時代だからこそ、色々な点で自らの願望を少し我慢することで「お互い様」とか「譲りあい」とかがみんなの心に醸成され、生きていくうえであると嬉しい安心感につながっていくと良いな、なんて甘いことを考えている。

誰かが助けてくれる、誰かがゆずってくれるってもう少し思いたいから。もちろん誠実さは忘れないようにして。

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