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マックス・シュルツ 1. 夢の都ベルリン

 1914年、私、マックス・シュルツは、東プロイセンと隣接する港町、自由都市ダンツィヒ(現在のポーランド領グダニスク)で生まれました。もともと信心深い家庭に育ったわけではありませんが、ギムナジウムがプロテスタント系だったこと、堅信礼クラスでの授業を通して聖書を学んだことで、より深く神学を学びたいと願うようになりました。抽象的ではなく、具体的な行為で「愛とはなにか」を説いたイエス・キリストに深く感動し、私は牧師となって御言葉を伝える献身の道を歩む決意を固めたのです。
 1932年にアビトゥア(大学入学資格)を取得すると、神学と哲学を学ぶため、私はベルリンのフリードリヒ・ヴィルヘルム大学(現在のフンボルト大学)に入学しました。神学と哲学を同時に専攻したのは、哲学が人間の存在の意味を追究・分析する学問であるならば、それを私はキリスト教信徒として実証的、歴史的、体系的に探究したいと望んだためです。
 私の父は弁護士で、一度も口にしたことはありませんでしたが、一人っ子の私にも法曹の道に進ませたかったのだと思います。敬愛する父の期待に応えられなかったという些かの罪悪感を抱えてはいましたが、それでも一流の教授陣のもとで勉学できる喜びと期待で、私の胸はいっぱいでした。

 フリードリヒ・ヴィルヘルム大学には、当時ドイツ最高峰の叡智と謳われた教授陣が揃っており、私はその格調高い講義に襟を正して出席したものです。偉大な哲学者たちの言葉は難解ですが、教授たちは彼らの高邁な精神を噛み砕き、諭し、私たちはそれを喜びを持って享受できるのです。向学心に溢れた学生たちが一堂に会する講堂は、学ぶ喜びに満ちた最も幸福な場所であったと言えましょう。

 峻厳で近付きがたい雰囲気を持つ教授たちの中で、思想史のウルマン教授の講義は風刺の効いたユーモアに溢れ、学生たちに人気がありました。辛気臭い哲学者たちもウルマン教授にかかれば、途端にユーモラスで人間くさい男に変わっていきます。哲学科ではない学生も多く聴講したため、200人収容可能な講堂は常に満席、飄々とした教授がユダヤ人特有のブラックジョークを飛ばすたびにドッと笑いが起こるのでした。しかし、ウルマン教授は、明るい笑いの向こうにある世界や人生の究極の根本原理とは何かを私たちに客観的・理性的に考えさせ、その思考を明晰化させ、実際にそれをどのように行動に移すことが可能であるかを問い続けました。私を含め、ウルマン教授の崇高な講義は多くの学生を感動させましたが、この特殊な時代を生きる私の苦しみとなっていったことは、後ほど告白しなければならないでしょう。

当時のベルリン・フリードリヒ・ヴィルヘルム大学(現フンボルト大学)。アインシュタイン、ロベルト・コッホなど29人のノーベル賞受賞を輩出した。

 暇さえあれば、ベルリンの町を隈なく散歩したものです。勝利の女神と四頭立ての馬車をいただくベルリンの象徴・ブランデンブルグ門、ふたつの大聖堂と大建築家カール・フリードリッヒ・シンケルの代表作であるプロイセン国立劇場に縁取られた優雅なジャンダルメン広場、中世の面影をそのまま残す細い石畳の路地や小さなかわいらしい家々が立ち並ぶニコライ地区、驚天動地とも言うべきスケールのペルガモン博物館、300万冊の蔵書を誇るプロイセン国立図書館、そして私が毎週日曜日に礼拝に通ったベルリン大聖堂。高さ114メートル、長さ114メートル、幅73メートルもあるこの大聖堂は、2100人もを収容できたドイツ最大のプロテスタント教会です。ホーエンツォレルン王家が造らせたのが1900年前後ですから、歴史的には決して古い建築物ではありません。しかし、ネオ・ルネサンス様式とネオ・バロック様式を見事に融合させた外観もさることながら、初めて足を踏み入れて、内部の黄金の装飾、大理石、色彩豊かな宗教絵画を目の当たりにした時の感動を忘れることができません。7269本のパイプを持つ巨大なオルガンの奏でる音は地の底から天上に昇っていくかのように厳粛で、ドーム天井を見上げると、中央には後光に包まれた聖霊の鳩が、その下には山上の説教を聞く使徒たちがモザイク画がで描かれています。天使のブロンズ像を眺めながら270段の階段をのぼりきると、展望台に出ることが出来ます。私は秋の爽やかな風を吸い込むと、眼下に広がるベルリン歴史地区の絶景にため息をつきました。ルネッサンス様式建築の赤煉瓦市庁舎、たくさんの観光客を乗せた観光船が行き来するシュプレー川、カエデ、ブナ、トウヒ、プラタナス、マロニエが鬱蒼と生い茂る大小の森、菩提樹の並木がずっと続くウンターデンリンデン、プロイセン国王のために建設された博物館・美術館が集まった博物館島、黄金の輝くドーム型屋根を持つオリエンタルな新ユダヤ教会。大聖堂の斜め前にある王宮は、ルネッサンス様式とロココ様式が美しく一体化した豪奢な佇まいを見せ、ここがドイツ史における重要な舞台となったことを考えますと、ひときわ感慨深いのでした。1914年、最後の皇帝ヴィルヘルム2世はここのバルコニーに立ち、真正面のルストガルテンに集まった数万人のベルリン市民に向かって、第一次世界大戦の参戦を宣言したのです。数ヶ月で勝利に終わるはずだった戦争は4年もかかり、200万人のドイツ兵が死亡し、数百万人が負傷し、皇帝は退位に追い込まれて敗戦、ヴェルサイユ条約が締結されて莫大な賠償金を課せられることになると、このとき一体誰が予測できたでしょう。

 大学からほど近い場所に、ユダヤ移民が多く住む「ショイネンフィアテル」と呼ばれる地区がありました。ベルリンが建都された13世紀から17世紀の初めまでに住み着いた裕福なユダヤ人たちはシャルロッテンブルグ区の高級住宅街やヴァンゼー界隈に住んでいましたが、ここショイネンフィアテルには貧しいユダヤ人たちが住んでいました。その7割以上は超正統派ユダヤ人であり、頑なにユダヤ律法を守り、その特徴ある風貌からドイツでも差別されてきました。彼らは19世紀終わり頃にロシア、リトアニア、ポーランドなど東欧で勃発したポグロム(ユダヤ人迫害を意味するロシア語)から逃れたユダヤ人、または第一次世界大戦とロシア革命後に不法入国したユダヤ人たちで、裕福なユダヤ人とは区別されて「東欧系ユダヤ人」と呼ばれていました。
 しかし、私はショイネンフィアテルの異文化的な雰囲気が好きでした。ヘブライ語の貸本屋、ヘブライ語の映画館、コーシャ食料品店、コーシャレストラン、ヘブライ語新聞の出版社、クレズマー専門のレコード店などが軒を連ね、通りには黒い服に黒い帽子、カールした長いもみあげとモジャモジャの髭をたくわえた超正統派の男たちがたくさんの子供たちを連れて歩いていたり、黒い服の老人たちが固まって議論したりしていました。ユダヤ教の戒律を中心とした生活を守りながらも、生き生きと人生を楽しんでいる人々の暮らしを垣間見ることは、なんとも興味深いものでした。

 様々な文化が混然一体となった大都市ベルリン。ここで学業に勤しむことが許さたのですから、刺激的で幸福な学生生活の始まりに胸を躍らせないはずがありません。

ノイエ・シナゴグ(新ユダヤ教会)。
ショイネンフィアテルの超正統派ユダヤ人の父親と子供たち。


ショイネンフィアテルのユダヤ人。

 
 当時のベルリンの人口は430万人、363の映画館と49の劇場があり、ありがたいことに学生用立見席という格安のチケットがあって、私は毎週のように友人たちとコンサート、オペラ、演劇などを楽しんだものです。あの伝説のマエストロ、フルトヴェングラーが指揮するベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の演奏会も、私たち学生は格安のチケットで聴くことができたのです。当時はクロイツベルグ区のベルンブルガー通りにあったフィルハーモニーで、フルトヴェングラーが振るベートーヴェンの交響曲第九番を聴いた時の感動は忘れることが出来ません。詩人シラー、楽聖ベートーヴェン、巨匠フルトヴェングラーという三人の天才が一体となった崇高な芸術の奇跡が生まれる瞬間に、私は立ち会うことが許されたのです。幸運な聴衆は、演奏後、感涙にむせびながらブラボーを叫び、割れんばかりの拍手を送り続けていました。

   人類よ、抱き合おう!
   全世界に口づけを!
   兄弟よ、この星の輝く天幕の彼方に
   愛する父がおられるに違いない

 その夜はこのシラーの「歓喜に寄す」が頭の中にこだまして、朝方まで興奮して眠ることが出来ませんでした。

 しかし、ベルリンが華やかな文化の中心地である一方で、市役所入り口からは無料配給のスープを待つ人々の長蛇の列が続き、日常の憤懣と空腹を抱えて仏頂面をしています。労働局入り口にも暗い顔をした失業者たちが溢れています。
「日雇いでも良いから、何とかして食い扶持が欲しい」
1929年の大恐慌以来、華やかなベルリン文化の陰にある庶民の現実を目の当たりにし、やるせない気持ちになったものです。

1932年、ハノーヴァーの労働局前で、仕事を求めて長蛇の列に並ぶ失業者たち。

 失業率は30%に達し、600万人以上が失業、ドイツ経済はすっかり破綻していました。「この危機的状況を抜け出すには、職場の確保と社会保障と平和を確約する共産主義に頼るしかあるまい」と、ドイツ共産党、社会民主党は議席数を増やしていました。しかし1930年代になると共産主義の手本であるソ連の大粛清のニュースに、人々は震え上がりました。
「どうやら共産主義というのは抑圧(投獄と拷問)と排除(死刑)を意味するらしい。それならば同じように職場の確保と社会保障と平和の公約を掲げているNSDAP(国家社会主義ドイツ労働者党)に投票した方が安全だ!」
こうして共産党、社会民主党支持者の票が、NSDAP、つまりナチス党へと流れていったのです。しかし、ヒトラー率いるNSDAPが党名に「社会主義」を使用したのは労働者からの支持を得るために過ぎず、その実態は反社会主義的であったこと、つまり虚偽の看板を掲げていたことはまだあまり知られていませんでした。

 また、「Naziナチ」という呼称は、もともと南ドイツやオーストリアで一般的であった男性の名前「Ignaz」の短縮系で、ある演劇の中で「単純な愚か者」として登場したことから、NSDAPに反対の立場を持つ者がNationalsozialismusと掛け合わせて蔑称として「ナチ」と呼んだのが始まりであったと言われています。

 11月に行われる選挙のポスターがあちこちに貼られていましたが、仰々しい真っ赤な文字や労働者たちが描かれた派手なものが並ぶ中、ヒトラーのポスターはシンプルなモノクロで、かえって人々の目を引きました。ナチス党は常に一流のデザイナー、一流のカメラマンを雇っていたため、その斬新なポスターはスタイリッシュで小粋だったのです。

国家社会主義ドイツ労働者党の選挙用ポスター。


 第一次世界大戦後に制定されたワイマール憲法により、選挙権は20歳以上の男女すべての国民が有するというヨーロッパで最も民主的な選挙が行われていました。私は当時、まだ18歳で投票権を持ちませんでしたが、他の大学生たち同様、政治に無関心ではいられませんでした。街頭演説があれば必ず立ち止まって聞き入ったものです。共産党、社会民主党、NSDAP(国家社会主義ドイツ労働者党。ナチス党)の候補者たちは、そこらじゅうの演壇の上でこぶしを振り上げて叫んでいましたが、特にナチス党の演説者の前は大変な人だかりでした。
「恥辱のヴェルサイユ条約に苦しめられるのは、もうたくさんだ!変革が必要だ!NSDAPだけが、この状況を変えるのだ!」
「我々は血族的共同体としてのドイツを再構築するべきだ!」
NSDAPの威勢の良さとみなぎる自信に、人々は密かに期待を寄せ始めていました。もしかしたらNSDAPが、あの無料配給スープを待つ群れや職業斡旋所に並ぶ男たちの行列を消してくれるのではないだろうか?

 ヒトラーの演説はカフェのラジオ、映画館のニュース映画など、いたるところで聞くことができました。特にニュース映画で見るドイツ全国遊説中のヒトラーは、何万人もの市民を前に興奮して拳を振り上げ、しゃがれた声で叫んでいます。
「我々に必要なもの、それは正義であり、正義に必要なものはあなたがたの力だ!」
「我々の未来は我々が作り上げていくのだ!」
私は何とも不思議な気持ちで、このチョビ髭を生やしたヒステリックな男を見つめていました。この男はどうしてこれほどまでに国民の心を掴むことができるのでしょう?容貌は美しくも魅力的でもありませんし、「アーリア的であれ」と言っているのに彼自身は金髪でも青い目でもありません。しかし、ヒトラーの演説は完璧に計算されたものでした。静かに始まって次第にボルテージを上げ、聴衆を引き込んでいく話術は一朝一夕に身につくものではありません。その緊迫感、鋭い目つき、絶妙な間の取り方、熱情的な腕の振り上げ方。しかし、注意深く演説を聞いていれば「民族の誇りを取り戻す」とか「再び強いドイツを」といった同じ言葉の繰り返しであり、傾聴には値しない軽佻浮薄な内容であることにはすぐに気付くはずです。つまり内容よりもこういった劇的な演出に魅せられるほどのカリスマ性を持った男だったのです。ヒトラーは最初から史上最悪の策士であったのと同時に、超一流の弁士だったことは間違いありません。

ヒトラーは演説を始める直前、必ずこのポーズを取り、聴衆が静まり返るのを待った。

 私は大学の裏手にある学生寮に入り、他の学部の学生達とも仲良くなりました。中でも同室になった法学部のヨハネスとは妙に気が合い、大学の外でもよく行動を共にしました。ヨハネスはナチスのプロパガンダ映画に出てきそうな金髪碧眼の美青年で、町を一緒に歩いていると、よく若い女性たちが黄色い声をあげて騒いでいました。明朗闊達、頭の切れる皮肉屋で、なかなか一筋縄ではいかない男なのですが、仲間から全幅の信頼を寄せられていたのは、実は正義漢で優しい心根の持ち主だと皆知っていたからです。私がヨハネスのような優秀な法学部学生だったら、父はさぞかし喜んだだろうな、などと最初は多少の劣等感もありましたが、腹を割って話すうちにすっかり打ち解けて、お互いをさらけ出すようになったのです。

 夜になると、学生たちはカフェ・ウーランドエックや居酒屋リンデンバウムで口角泡を飛ばして政治や文学論に花を咲かせたものです。特に政治は学生たちの最大の関心ごとで、ナチス党に期待を寄せる学生も少なくありませんでした。

「君たちは本気で言ってるのか?」
ヒトラーを支持する学生たちに対して、ヨハネスは皮肉っぽい笑いを浮かべて首を振ります。
「『我が闘争』を読んでないのか?我らが総統様の目標は、東欧領土の拡大とユダヤ人の追放、つまり戦争と差別だ。こんなことを堂々と書ける精神異常者を、君たちは支持するって言うのかい?君たちの脳味噌は腐りきってるな」
ヨハネスは酔うとますます口が悪くなるのが厄介でしたが、確かにヒトラーが獄中で書いたという『我が闘争』に関しては、私もヨハネスと同じ意見でした。アビトゥアが終わった時点で、私もヒトラーの自伝と政治的世界観に興味を持って読み始めたのですが、あまりに退屈で途中で放り出してしまいました。それは彼のヒステリックな演説同様、自己陶酔的で荒唐無稽、終始差別主義的な言葉を繰り返すだけのお粗末なシロモノでした。しかし、ナチス党を支持する医学部学生のカールは、この本を最後まで読んだ「奇特な」学生の一人であり、ヨハネスの解釈は短絡的で偏っていると批判しました。
「ヒトラーは公約でも掲げてるじゃないか。ワイマール憲法(人権保障を規定した民主的な憲法)を遵守し、平和なドイツを約束すると」
「そりゃあ選挙に勝つためなら何とでも言うさ。ワイマール憲法なんて彼の政治理念とは真逆じゃないか。ヒトラーは民主主義を憎んでいるんだからな」
「そんなことはない。民族の平和的共存を謳う憲法を順守すると言っているんだ。危害を与えるはずがない。しかし確かにユダヤ人に対する彼の見解は全く間違っているとは言いきれないんじゃないか?」
「ほう」
ヨハネスは手にしていたビールジョッキを古い傷だらけの木机に置くと、挑発的な薄笑いを浮かべました。
「では、カール。ユダヤ人差別を正当化する理由を説明してもらおうか?」
「いや、差別をよしとするわけではない。しかし、ドイツ全国の8割の百貨店がユダヤ系という現状は異常だろう?カーデーヴェーもティーツもヴェルトハイムもライザーも、全部ユダヤ系なんだよ。これだけの利益をユダヤ人が独占しているのはまともな状況ではない」
「彼らは公明正大に商売している」
「これ以上ユダヤ人に市場を独占させずに、富を拡散させるべきだ。このままでは、ますます社会の格差は広がるばかりだ」
「見てみろよ、カーデーヴェーやティーツの微に入り細を穿ったサービスを。君はあれを見て感心しないのか?素晴らしいショーウィンドーや粋なポスターを見れば、購買欲が湧くのは当然じゃないか?豪華な建築、斬新な内装、時間を短縮できる中央清算方式、上流階級だけではない万人をターゲットにした品揃え。ヤンドルフはアメリカやイギリスのデパートで学んできたことを自己流にアレンジして取り入れたんだ。立派なものじゃないか?」
アドルフ・ヤンドルフとはユダヤ人実業家で、カーデーヴェーなどベルリンだけで7軒の百貨店を所有する大富豪です。彼の編み出した商法はドイツでは何もかもが画期的で斬新でした。客が見やすいように陳列された商品、他店より安く設定された定価、定期的に行われる安売り、季節ごとに変わるインテリアなどなど。内装が変わったと聞くと、ベルリン市民は競うように百貨店に押し寄せたのです。ヨハネスはビールジョッキのビールを飲み干すと、吐き捨てるように続けました。
「ユダヤ人には先入観に捕らわれない豊かな発想力と実践力と強大なネットワークがある。それを評価せずに独占するなとは、理不尽にもほどがある。ただのやっかみじゃないか。ふん、それでも君のような善人たちがNSDAP(ナチス党)に騙されて投票するんだろうな。NSDAPが第一党になってヒトラーが首相になれば、さぞや素晴らしい民主国家が生まれるだろうよ」

このヨハネスの自信に満ちた嫌味な言い方は何とかならないものだろうか?と、私はいつもハラハラしたものです。

1900年にベルリン初の百貨店、ティーツが開業した時、その豪華な外装と内装にベルリン市民は度肝を抜かれた。オーナーのユダヤ人オスカー・ティーツはこの百貨店に引き続き、次々とベルリン市内に百貨店を開設し、1920年代にはティーツ家はヨーロッパで最も巨大な百貨店コンツェルンとなっていた。


 ユダヤ人に対する差別は、ナチスが始めたことではありません。ユダヤ人は中世から繰り返し追放と迫害の憂き目に遭い続けてきました。これは複雑な宗教的価値観が絡み合う「伝統的差別」が中世の時代からヨーロッパに存在していたことが大きな理由のひとつと言えるでしょう。イエス・キリストを救世主と認めないユダヤ教はキリスト教徒にとっては異端であり、蔑まれるべき人々でした。特にキリストは狡猾なユダに裏切られ、ユダヤ人によって十字架にかけられたのですから、キリスト教徒にとっては許されない対象です。しかしその悲劇的なキリストの死と復活によってキリスト教が生まれたのであり、ユダの裏切り無しでは成立し得なかった奇跡、磔ありきのキリスト教であるはずです。そもそもキリスト自身がユダヤ人だったことを鑑みれば、ユダヤ人を恨むのは本末転倒と言えましょう。旧約聖書においても神は人類救済のためにアブラハムと契約を交わし、その息子たちイサクとヤコブがそれを受け継ぎ、そうしてイスラエルのユダヤ人が誕生していったのですから、ユダヤ人を否定することは神を否定することになるはずです。

 また、中世のキリスト教徒がユダヤ人を忌避していた理由のひとつに、ユダヤ人が聖書で禁じている「金貸し業」を営んでいたことも挙げられます。旧約聖書に「貧者と同胞から利子を得ること」を禁止している聖句があるため、キリスト教会は金貸し業を禁止していました。旧約聖書はユダヤ教の経典でもありますが、ユダヤ人はこれを「同胞でなければ利息を取ってもよい」とフレキシブルに解釈し、キリスト教徒からは利息を取って金貸しをしていたのです。中世のキリスト教会は「ユダヤ人はキリストを殺したのだから、もともと地獄行きが決まっている。金貸し業は彼らに任せよう」と考え、彼らがこれを商売とすることをむしろ歓迎していました。一方で貴族も教会もユダヤ人からの融資のおかげで城や大聖堂や教会を建築できたはずなのに、「高利貸し」と呼んで差別し、蔑んでいたのですから矛盾しています。それに実のところ、利子はその国の王や教皇が決定していたのですから、文句を言うのもおかしな話でした。
 もともとユダヤ人は金貸し業を好んで生業としていたわけではありませんでした。中世ではユダヤ人は土地を持つこともツンフト(中世の同業組合)入会も農業も許されなかったため、背に腹は代えられない状況だったのです。やがてキリスト教会も柔軟性を示し、キリスト教徒にも金貸し業を許すようになったのですが、すでに金融における知識と技術は経験のあるユダヤ人にはかなうはずがありません。次第にユダヤ人は金貸し業を世界的な大銀行へと発展させていったのです。

 1750年、フリードリヒ2世は「改正一般特権」を発布し、プロイセンのユダヤ人社会をその裕福さに応じて5つのカテゴリーに分けました。最も裕福なユダヤ人には、多額の支払いを条件に個人的特権と定住権が与えられました。しかし、大多数のユダヤ人には、こうした特権は依然として与えられず、高額な関税や特別税を支払い、雇用されている間しか町にとどまることができませんでした。

 1791年にフランス国民議会がフランス・ユダヤ人の平等の権利を宣言した後、ナポレオンが神聖ローマ帝国のライン左岸を占領したことで、その影響を受けた地域のユダヤ人住民にも法的平等が適用されていきます。ドイツのいくつかの州がこれに倣ったことで、1812年3月、当時のプロイセン国王フリードリヒ・ヴィルヘルム3世は、「プロイセンにおけるユダヤ人の市民的地位に関する勅令」を公布し、プロイセンのユダヤ人に多くの権利を与えました。これにより、プロイセンのユダヤ人住民は法的に「プロイセン市民」と認められ、外国人に分類されなくなりました。とはいえ、ユダヤ人は高等公務員になることは許されず、大学に入学するにはキリスト教の宗教教育を受ける必要がありましたが。1814年になるとユダヤ人にも徴兵が認められ、ユダヤ人上流中産階級の出現を促すと同時に、数多くの知識人を輩出していきます。19世紀後半になると、ユダヤ人はほとんどすべての職業に平等に就くことが許されるようになり、ドイツ人口のたった1パーセント足らずであったのにも拘らず、金融業、芸術、文学、医学、法曹、産業など、ほぼすべての分野でトップに立ち、絶大な社会的影響力を持つようになりました。

 なぜユダヤ人には優秀な人物が多いのでしょう?
 まず婚姻関係です。結婚は親類などが似た環境で育ったユダヤ人同士を引き合わせることが多かったため、知識階級出身者同士の婚姻が続くことにより「優秀な」遺伝子の結婚がその要因を作っていったと言われています。
 それに加えて伝統的な教育の重視が挙げられます。ユダヤ人は迫害を通して「故郷や財産を失っても知識は残る」「無知ほどの貧困はない」というユダヤ教独特の人生哲学を生み、子供たちの英才教育には非常に熱心になっていきました。親たちは子供たちの才能を見逃さないよう幼いころから細心の注意を払い、それを伸ばすためには出費を厭わず、最も文化的で知的な環境を与えようと大都市に住む傾向がありました。
 当時のユダヤ人人口はドイツ全人口の約1パーセントの60万人に過ぎず、そのほとんどが大都市に住み、特にベルリンには全ユダヤ人の三分の一が居住していました。富裕層のユダヤ人はショイネンフィアテルの「東欧系ユダヤ人」とは異なり、私たちとは変わらぬドイツ国民としての誇りを持ってドイツ社会に溶け込んでいました。非ユダヤ人はユダヤ人を吝嗇家と陰口を言っていますが、実際はユダヤ人の富裕層は慈善事業にも熱心で、例えばショイネンフィアテル界隈に住む貧しい「東欧系ユダヤ人」も見捨てることなく、莫大な寄付を行っていました。孤児院、障害者用施設、老人用施設の創設などの他にも、父親がいない家庭の生活保護、学費援助、医療費の負担、成績優秀者のための留学費用負担など、その惜しみない篤志はユダヤ教の「富める者は貧しき者を救え」という教義から来るものでした。ユダヤ人共同体の相互扶助は商売においても同様であったため、欧米の経済界にも大きな影響を与え続けているのです。迫害は結束を生み、そこに知性と勤勉が加わることでユダヤ社会は成功し、発展していったと言っても過言ではないでしょう。

1931年、ユダヤ人資産家たちによるチャリティー・ディナー。これは大恐慌で財産を失った年老いたユダヤ人を救うため、老人施設を新しく建設しようという寄付の呼びかけに応えたもの。ユダヤ社会では折に触れてはこうして結束して寄付金を募り、同胞のための経済的支援を行った。


 1914年の第一次大戦開戦時には、ユダヤ人の若者たちも次々と志願し、当時のドイツで見られた戦争への熱狂とは変わらず、ラビ(ユダヤ教における宗教的指導者)たちは集会で「神の次に祖国を愛せ!」と叫びました。対戦中、約10万人のユダヤ人がドイツ兵となり、そのうちおよそ7万7000人が前線に送られ、ドイツ人として戦いました。
 しかし、ヒンデンブルクをはじめとする陸軍最高司令部の司令官たちは、第一次世界大戦末期にはドイツの軍事的勝利は絶望的であることを知っていたのにもかかわらず、敗戦の責任から逃れようと、「ドイツ軍は戦場で負けたのではない。社会民主党、ユダヤ人、共産主義者の政治家たちの裏切りによって闘いを諦めざるを得なかったのだ」とした陰謀論、いわゆる「背後の一突き」説を広め、ユダヤ人に対する差別感情を煽りました。
 1923年、ハイパーインフレによる大量失業者に見舞われると、「ユダヤ人が陰で操作している」とまたもや陰謀論が拡散され、ショイネンフィアテルでは民族主義者によるユダヤ人襲撃事件が発生しました。ユダヤ人の商店、アパートは破壊、略奪され、「ユダヤ人を叩き殺せ!」「ユダヤ人の皮を剥げ!」と叫ぶ右翼過激派、民族主義者、反ユダヤ主義者たちがユダヤ人を追いかけ、暴行しました。遅れて到着した警官は、驚いたことに暴行されたユダヤ人を大量に逮捕したのです。彼らは民族主義者たちに金で雇われていました。それに続く世界的な大恐慌も同様に、ユダヤ人に責任転嫁され、差別は続きました。反ユダヤ主義的暴力は、ワイマール共和国時代にすでに存在していたのです。

ユダヤ青少年会館オーケストラクラス。ユダヤ人資産家たちの寄付によって開設されたこの会館では、経済的な理由から親元を離れた青少年60人が共同生活を送り、学校以外にも様々な習い事を受ける機会が与えられた。
ユダヤ青少年会館のチェスクラス。チェスは論理的思考力を養うのに最適であることから、ユダヤ人の子供たちは幼い頃からチェスを習う。チェス世界チャンピオンの54%がユダヤ人である。

 その直後の選挙でヨハネスの予想通りナチス党は第一党となり、1933年1月30日、ヒトラーは首相に任命されました。この時、ヒトラーはワイマール憲法を遵守し、共産党を弾圧せず、国際平和を目指すという政策を表明しています。

 しかし、首相になってもヒトラーは満足していませんでした。ナチス党の議席が過半数に達していなったからです。これではヒトラーの夢である一党独裁はかないません。そこでまず彼は議会を解散し、国会議員選挙を3月5日に行うと発表しました。それまでにナチス党を盛り上げて、国民に良い印象を与え、得票数を伸ばそうとしたのです。

 再び選挙運動が始まりました。驚いたことに、ヒトラーのあの激しい演説は突然鳴りをひそめ、口調は穏やかになり、ユダヤ人批判など一切しない紳士的な印象を与えました。人々はヒトラーは穏健派に路線変更したのだろうと噂し始めました。信じられないかもしれませんが、この時はまだ、ナチス党を支持するユダヤ人たちもいたのです。

 さて、選挙戦を勝ち抜くためには、ナチス党に批判的な報道を取り締まる必要があります。早速、ヒトラーは首相就任5日後の2月4日、新しい法律「国民保護法」を制定しました。これは、すべての新聞、ラジオなどの報道の取り締まり、街頭演説・集会の禁止、手紙や電報の検閲、電話の盗聴、家宅捜索などを合法に行うものです。つまりワイマール憲法に保障された基本的人権の停止です。警察は町の見回りにSA(ナチス突撃隊。準軍事組織で政敵の弾圧を行った)を同行させ、「違反者」を逮捕していきました。
「ついに始まったな」
ヨハネスは茶色い制服を着た目つきの鋭いSAたちが町を闊歩するのを、いまいましく見つめていました。

右はSA(ナチス突撃隊)、左は警察官。SAは警察補助という名目でナチス党の政敵を逮捕していった。



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