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『記憶の閃光・ホロコースト写真展』

ベルリン国立美術館の一部門である写真美術館で開催中の『記憶の閃光・ホロコースト写真展』に行ってきました。ここではナチス直属のプロの写真家、アマチュアカメラマン、ユダヤ人写真家、解放時の連合軍の写真家によって撮影されたホロコーストに関する写真や映画などの視覚的記録を展示しています。

 会場に入ると、まず年表を見ながらカメラの歴史を辿り、その発明から技術の発展について学んでいきます。実物の古いカメラも展示してありますので、興味をかきたてられるには十分な効果があります。

 技術の向上とカメラの軽量化に伴い、カメラを趣味にするアマチュアカメラマンが増えていきました。1933年にナチス政府が誕生すると、写真と映画は政府機関のカメラマンだけではなく、アマチュアカメラマンが提供する写真も多く利用されるようになり、プロパガンダと情報操作に大きな役割を果たしていきます。

 例えば、タブロイド紙『シュトゥルマー』(Der Stürmer)は、「ユダヤ人は我々の災いだ!」をモットーに、反ユダヤ主義的記事を掲載し続けました。専属カメラマンのみならず、アマチュアカメラマンからもユダヤ人の写真を買い取っていたのですが、当時の記事はユダヤ人に対する言いがかりと中傷に溢れていました。パブのカウンターに座っているユダヤ男性の写真には「ひとりで悪巧みをする男」、ユダヤ人の子供の写真には「卑しい本能」といったタイトルが付けられ、いかにユダヤ人がドイツ社会において害悪であるかを説きながら、読者の反ユダヤ人感情を煽り続けました。1933年にヒトラーが政権を掌握すると発行部数は100万部を超え、小学校の授業の教材にも使われるようになります。ここでは写真は真実を伝える媒体ではなく、真実を伝えるかのごとく市民を洗脳する役割を果たしていったのです。

 また、ユダヤ人写真家たちがドイツ占領下に設置されたポーランドのゲットー(ユダヤ人強制居住地区)で撮った写真も展示してありました。中でもメンデル・グロスマンの生涯と彼の撮った写真に、私は胸を打たれました。

 1939年、ポーランドのウッチ・ゲットーに収容されたユダヤ系ポーランド人の写真家グロスマンは、ユダヤ人評議会から命じられて公的なゲットーの写真を撮っていました。ユダヤ人評議会とは、ナチスドイツ占領下でゲットー運営を任されていたユダヤ人(多くはラビ)による自治組織のことです。屋外で懸命に肉体労働に従事するユダヤ人、工場で真剣に作業するユダヤ人、清潔で整えられた職場で事務作業を効率的に行なうユダヤ人など、ユダヤ人の労働力が必要不可欠であることをナチス政府に証明するために撮られた写真です。つまり、ユダヤ人評議会はナチス当局に逆らうことが出来なかったため、生き延びるために提出されたユダヤ人側のプロパガンダ写真でした。

 しかし、ユダヤ人評議会は個人的な撮影を固く禁止していたのにもかかわらず、グロスマンはコートの下にカメラを隠し持ち、ゲットーの人々の「真実」を撮り続けました。ナチス親衛隊が極秘で殺害したユダヤ人の遺体を集めた場所に赴き、ひとりひとり遺体の顔を密かに撮り、遺族にその死を報告した他、お腹を空かせて道に倒れている子供たち、幼い子供のために物乞いをする母親、痩せ細った老人の死体、道に落ちた食べ物を漁る幼い子供たち、収容所に移送される前に集められた場所で不安そうな顔をしたユダヤ人たちなどなど。これらの隠し撮りがグロスマンだけではなく、彼の家族にとっても大変危険であることを、グロスマンは重々承知していました。しかし、命懸けで撮る必要があったのです。ナチスの蛮行を記録した写真をワルシャワのレジスタンスグループ経由でロンドンのポーランド亡命政府に送り、ゲットーの状況を世界中に知らしめること、そして記録を後世に残すことを目的とした地下活動を行っていたためです。

 ゲットーから強制収容所に移送されたグロスマンは、1945年4月末、強制的に別収容所に徒歩で移送された際、心臓疾患で衰弱していたため路上に倒れ、看守に撃たれて亡くなりました。終戦の数週間前、32歳でした。グロスマンの撮った写真は約1万枚にのぼり、現在はホロコーストの貴重な記録となっています。

 ウッチ・ゲットーに限らず、ワルシャワ・ゲットーのユダヤ人の写真も多く残されています。物乞いをする母親、道に転がる子供の遺体、ボロボロの服を纏った老人たち。驚いたことに、これらの写真はユダヤ人カメラマンが隠れて撮ったものではなく、カメラを趣味とするドイツ兵たちによるものでした。当時のワルシャワは、東部前線に向かうドイツ兵たちの中継地点であったため、自由にゲットーに出入りでき、写真を撮ることが許されていました。しかし、それはユダヤ人に同情したからではなく、ナチス政府が反ユダヤ主義のプロパガンダとして掲げる「不潔で貧しいユダヤ人」「劣等人種ユダヤ人」を証明するものとして、『シュトゥルマー』誌などに送りつけるためのものでした。つまり、写真は真実を伝える道具であるはずなのに、立場によっては異なる解釈が伝えられたことになります。この写真展にあてられた光はそこです。いかに簡単に世論は操作されるのか。

 最後は絶滅収容所解放時の連合軍が撮影した写真の展示がありました。歓喜する痩せ細った被収容者たち、死体の山、焼却炉に残った遺体など、どれもよく見る写真です。これらの写真は後のニュルンベルク国際軍事裁判に提出された重要な証拠写真ですが、それと同時に、連合軍の正義を世界に示すことを目的にした、連合国側のプロパガンダ写真でもありました。強制収容所はすでに解放されていたのにもかかわらず、鉄条網の向こうで解放者を待つ不安げな人々の姿は演出されたものだったからです。

 この『記憶の閃光・ホロコースト写真展』では、「写真は語るものによってどう変わるのか」を、センチメンタルで感情的な言葉や訓戒を垂れることなく、淡々と記録写真を見せながら当時の状況を解説します。80年以上前の写真であるはずなのに、情報の溢れる現代においても変わらない問題であり続けることを、観る者は思い知らされるのです。

 会場の壁に大きく書かれたユダヤ系ドイツ人の作家で政治家、ホロコーストのサバイバーだったヴィクトル・クレンペラーの言葉が印象的でした。「ドイツ人の他民族に対する差別意識は、ドイツ人の精神の奥底に常にある自然な感情であると私は思う」。私たちドイツ人の心の根っこの部分には、常に差別意識が眠っている。それを忘れてはならない、と戒めた言葉ですが、これはドイツ人だけではない、全人類に対する警告でもあります。

 ドイツではAfD(ドイツの極右政党)を支持する人が増え、ドイツ政府も歴史教育を強化するべきではないかと頭を悩ませています。しかし、こうしたホロコーストに関連した公的なイベントが毎日のように開催され、中高生が教師に引率されて見学し、ガイドの説明を熱心に聞き、見学者たちが説明書きを丁寧に読んでいる様子を見ていると、「ドイツは大丈夫」と私は前向きになれるのです。


画像はベルリン写真美術館からお借りしました。
メンデル・グロスマン


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