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ナチスの学校教育

ベルリン市の私の住む地区には郷土博物館があり、そこでは毎週一回、歴史研究家を囲んで無料の郷土史勉強会が開かれています。私も参加しているのですが、私以外の参加者はほとんど70から90代の高齢者ばかりで、これがまた最高におもしろいのです。皆さん、話好きな方ばかりで、昔話を競い合うように聞かせてくれます。昔の話をしてくれるお年寄りは人類の宝ですよね。特に最高齢者のB夫人は1935年生まれですから、生まれた時から10歳まで、どっぷりナチスドイツ時代に浸かっていたことになります。こんな貴重な話を聞ける機会はそうそうありません。若い方が参加しないのは残念ですが、進行役の歴史研究家がすべて録音し、後に冊子にまとめてくれるそうです。

 さて、これはB夫人が小学校に入学したばかりの時の思い出です。1941年秋のことですから独ソ戦が始まってすぐの頃、ほとんどの男性教師は兵隊にとられ、学校の教師は女性と高齢の男性ばかりでした。

 ワイマール共和国時代(1919年~1933年初め)は女性も婚姻後は働くことが法的に認められていましたが、ナチス時代は女性は結婚と同時に仕事を辞めて家庭に入ることが奨励されていました。結婚後の女性の就労は法的に禁止されてはいませんでしたが、辞職すれば国から無利子で婚姻奨励金を借りることが出来たうえ、産んだ子供の数で返金額も減額されて四人産めば返金免除となったのです。ほとんどの家財道具が揃うだけの金額でしたから、新婚夫婦にはありがたかったようです。この奨励金は女性に出来るだけ多くの子供を産ませ、育児に集中させることを目的としていました。つまり可能な限り多くの「将来の兵士」と「将来の兵士の母」を産ませるわけです。そして女性が結婚と同時に仕事をやめて子育てに専念することは、国に忠誠を尽くす「立派な母」でもありました。

  さて、B夫人(当時はBちゃん)の担任のC先生はナチス党員で大変厳しい女性だったそうです。
 ある日、C先生が生徒たちに、花の絵を描きなさいと言いました。
「いいですか?真ん中は黄色い〇、その周りに青い花びらを5枚描きなさい」
Bちゃんは、そんなのつまらないな、と思い、赤い花、黄色い花、ピンクの花、オレンジの花、と好きな色をたくさん使った花束をノートに描きました。C先生は生徒たちの机の間をゆっくり歩きながら絵を眺めていると、Bちゃんの絵を後ろから取り上げて高く掲げました。
「皆さん、この絵を見なさい。どう思いますか?」
生徒たちは「きれい!」「なんて素敵な花束でしょう!」と感嘆の声をあげると、C先生は首を振って怒り始めました。
「私は言いましたよね?真ん中は黄色い〇、その周りに青い花びらを5枚描けと。言われたことを素直に出来ない生徒は愚か者です」
その瞬間からBちゃんは学校が大嫌いになりました。

「もう最悪な思い出しかないわ。典型的な Gleichschaltungを実践した教師が私の担任だったのよ。卒業するまでずっと!学校が燃えればいいのにと毎日祈っていたのよ!」
B夫人は忌々しい思い出に拳を振り上げて怒りをあらわにしました。

 さて、このGleichschaltungとは日本語で「強制的同一化」と訳されるもので、ナチス政府に権力を集中させ、政治、法律、マスコミ、学校教育、家庭すべてを同質化させるというナチス政府のイデオロギーに沿った根本政策です。

 これが小学校一年生から実践されていたとは興味深いです。ナチス政府の恐ろしいところは、すべての分野で非常に緻密で組織的な政策を浸透させていたことです。

 学校教員は毎年、再教育合宿に参加し、ナチス指導員の授業を受けることを義務付けられていました。ここでは人種教育、優生学といった新しい科目の他、強制的同一化政策に沿った学習指導要領を徹底的に叩き込まれていたそうです。「同じ花を言われた通りに描かせる」ことも、その一環と言えるでしょう。

 しかし、こういった再教育合宿を忌み嫌っていた教師もいて、「バカバカしくてやってられない」と同僚たちとナチス指導員を陰で嘲笑しながらタバコをふかす女性教師の猛者たちもいたそうです。

 B夫人の小学校時代の嫌な思い出のひとつに、国旗掲揚があります。毎日、生徒たちは校庭に出て、ナチス式の敬礼をしなければなりません。雪の日も雨の日も炎天下でも、鉤十字の旗がゆっくりゆっくり昇っている間、じっとハイルヒトラーの姿勢を保つのです。次第に手が下がって来る子供がいると、「兵隊さんは極寒地で私たちのために闘っているのに、あなたはこのくらいのことも耐えられないのですか?」と先生に怒鳴られ、時には平手打ちが飛びます。

「それでも何かひとつくらい、楽しいことがあったでしょう?」
誰かがB夫人にそう尋ねると、B夫人はまたコブシを振り上げて言いました。
「冗談じゃない!私はね、空襲がひどくなって疎開した時、ああこれで学校に行かなくていいんだ、とそれは喜んだものよ。小学校は地獄だったわ!」

 別の70代の男性も面白い話を聞かせてくれました。この方は終戦直後に生まれ、小学生時代は1950年代でした。当時はドイツ国民に対する非ナチ化教育で連合軍が躍起になっていたはずですが、学校には相変わらずC先生タイプの教師が多く残っており、強制的同一化教育や軍国主義教育を続けていたというのです。つまり、彼が小学生の頃は平手打ちなどの体罰が当たり前に行われ、授業は教師が一方的に話すだけで、現在当たり前に行われている議論方式の授業進行は導入されていなかったそうです。

「自分の子供が体罰を受けたことを、親は抗議しなかったんですか?」
と聞くと、
「それが当たり前の学校教育を受けていた親にとっては、体罰が悪いこととは思わなかったんだよ」
とのことでした。自分が体験してきたことが正しいと教え込まれたのであれば、法律や政治体制がどう民主的に変わろうと、自分の価値観はそう簡単には変わらないということでしょう。

当時の小学校での国旗掲揚


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