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明智光秀コラム|歴史は勝者がつくり敗者は何をつくるのか

かつて明日のライターゼミという伝説のゼミがありました。これは、そのなかの田中泰延さんの講義課題で書いたものです。田中泰延さんといえば『読みたいことを、書けばいい。』📖のあのお方。自分の感動を、事象と心象の交わるところで、自分という読者に応えるように書くというその教えは、一見当たり前なことのようですが、実践し続けるのは簡単ではありません。ゼミで一緒に学んだ人も、本を読んだ人も、さまざまな人がいろんな場所で書き続けていると思うと、私もまた地道に頑張ろうと思うのでした。

あの本が面白いのは当然のことながら、泰延さんのなにがすごいって、明智光秀が大河の主人公になるとは知るはずもない頃に、お題にしていたこと。6000字以上で、という課題だったため少し長いですが、学校では習わない光秀の一生をまとめました。大河の放送延期が決まった今、少しでも皆さんの暇つぶしになれば嬉しいです。

掲載を快諾して下さった西島さん(@t_nishijima)ありがとうございます。

0. はじめに

ある日テレビを見ていると、明智光秀の子孫という方が出ていた。「へぇー、明智家は滅びたと思っていたのに子孫がいたんだ。こりゃいじめられただろうなぁ。」普段ならこれで終わるのだが「いや待てよ?明智光秀が織田信長という主君を討ったからといって、平成の世まで忌み嫌われることなのだろうか。むしろよく知らないのにいじめられそうなんて思う私が悪いのでは!?」とクラスの優等生がいかにも言いそうなことを思うに至った。がしかし、中途半端ないい子ちゃんである私は、それ以上掘り下げることなく数週間が過ぎた。

来たる2017年冬、私は西島知宏氏主宰のホグワーツ魔法魔術学校、もとい、明日のライターゼミへの入学を決めた。ハグリッドは迎えに来なかったし、額に稲妻のマークもなければ魔法省からの手紙も持っていなかったけれど、魔法使いになりたかったのだ。キングス・クロス駅の9と4分の3番線へ続く壁が「明智光秀のコラムを書く」だというので、自分の中の浅はかな差別と向き合いながら壁に向かって走りだすことにしたのである。

1. 一般的な明智光秀のイメージ

私をはじめとする、歴史が得意ではないが学校で習ったことはなんとなく覚えている日本人が知る明智光秀、および、本能寺の変というのは以下の通りではないだろうか。

明智光秀は1582(イチゴパンツ)年に本能寺の変を起こし、天下取り目前だった主君 織田信長を討った。そのまま天下を獲るかと思われたが、中国地方に進軍していた豊臣秀吉の猛スピード帰還(中国大返し)により京都で豊臣軍と戦い惨敗。敗走の際、落ち武者狩りに合い死亡。なんとなく小物で色白な印象(小早川秀秋とかぶる、それもまたなんとも)。家臣の中ではいじめられキャラで、信長に対し恨みを抱えていたとかいなかったとか。

意外と語れる自分にびっくりした。小2の時にサンタさんにもらった『マンガ少年少女日本の歴史』の刷りこみはあなどれない。しかし、これでは不十分すぎた。サンタさんは入り口を作ってくれたに過ぎなかったのだ。

2. 明智光秀の出生

人となりを知るとなると、出生を知りたくなるもの。だが、現実は甘くなかった。なんと明智光秀の出生、生まれた年や日付、父の名前すらも明らかになっていなかったのである。出生に関しては、全くの生年不詳とするもの、1528年とするもの、1528年8月17日と誕生日まで記載されているもの、本能寺の変の時に67歳としているもの(1515年生まれ)などがあった。

調べていると、とにかく諸説がある。諸説あるある探検隊である。特に本能寺の変は、日本史史上最大の謎ともいわれており、逆臣かつ敗者となった光秀の詳細な記録が残されているはずもない。かといって、ドラえもんがいるわけでも、明智光秀の魂のTwitterがあるわけでも、あの世とのLINE電話があるわけでもないので、難解な古文書を読んではもっともらしい史実を必死に導き出すしかない。ありがとう歴史家たち!真実を知ってほしいと願いながらも報われることがない魂たちよ、ごめんなさい。こちらはみんなで頑張ってるよ。

このコラムでは、明智光秀は1528年生まれ説と美濃源氏 土岐氏の一族(幕府の要職についた家柄)説を採用する。

主な登場人物との年の差にも注目してほしい。
 主君 織田信長(1534年生まれ 6歳年下)
 ライバル 豊臣秀吉(1537年生まれ 9歳年下)
 顔見知り 徳川家康(1543年 15歳年下)

光秀が頭一つ抜けて年長者だったことがわかる。
人生50年の時代にこの差は大きい。

「年長者としての威厳」「名門出身の矜恃」は、光秀を語るうえで外せないキーワードだ。

3. 織田信長に出会うまで

明智光秀の確かな記録として一番古いのは『1569年4月14日付 木下秀吉との連署状』である。つまり、30代後半まで明智光秀には確かな記録がないということになる。仕方がないので、諸説あるあるからそれらしく紹介する。
以下は、お勉強っぽいので飛ばし読みも可。
太字のキーワードはなんとなくご記憶を。

土岐氏の分家である明智光秀は斎藤道三(美濃の戦国大名。「マムシ」と恐れられた男。娘「濃姫」は信長の正室となっている)に仕える。道三とその子・斎藤高政の争いが勃発した際に道三側についたことから、明智城を攻撃され一族の多くが討死。光秀は帰る場所もなく諸国を放浪、禅寺などを間借りし寺子屋を開くなどして生計を立てた。そんな貧窮した生活の中、文武の才を買われた光秀は朝倉家に召し抱えられる。1565年、第13代将軍 足利義輝が対立派に襲われ自刃。なんとか逃れた弟 足利義昭は、将軍復帰を胸に大名たちに協力を依頼するも断られ続けていた。1566年、義昭が朝倉義景を頼ってきたことから、光秀と関わることとなる。このとき光秀が「朝倉義景は頼りにならない」「織田信長は頼りがいのある男だ」と言ったとか。この進言が大きく働き、足利義昭と参謀の細川藤孝は一度断られている信長にもう一度協力を頼むことに。ここで両者の橋渡しを買って出た光秀は、義昭に見込まれる形で表舞台へと上がっていく。1568年9月26日、信長は義昭を奉じて上洛。10月18日、足利義昭が第15代征夷大将軍に任命される。同じくして光秀は、木下秀吉とともに京都奉行に任命。義昭の近臣でありながら信長の部下でもあるという異例の処遇であった。

明智光秀40歳。ついに、将軍足利義昭の命を受け織田信長と出会ってしまったのである。失意のなか落ちのびたところから、堅実かつ大きく道を拓いた光秀。ここから本能寺の変までの14年間が幕を開ける。

4. 信長に出会ってから死ぬまで

1568年に義昭を奉じて上洛した信長の思惑は、あわよくば将軍を操ろうというもの。自分に権力がないことに苛立ち始めた義昭が、実権を取り戻そうと画策するが時すでに遅し。対立は深まっていく。義昭の近臣だったはずの光秀だが、信長派と思われていたのか義昭の画策には関わっていなかった。光秀が1570年から花押(本人であることを証明するとっても大事なサイン)を変えたという説がある。これは、信長への従属度を高めたことを示唆するとも言われている。

光秀の人生も後半戦へ。
主な出来事を年号ごとにみていこう。

1570年 金ヶ崎の退き口
まれにみる信長の大敗戦。殿(しんがり:逃げる一番後ろ)を秀吉が務め上げた話が有名になっているが、実は光秀も殿で頑張った。

1571年 ‘以後ない’仕打ちの延暦寺焼き討ち
光秀は最後まで反対したという説も多いが、しっかりとやり遂げる。

1573年 延暦寺の戦いを評価され坂本城の主となる
信長の臣下の中では初めての城を持つ家臣となった。
同年 足利義昭は追放され事実上信長だけの部下に

1578年 亀山城もゲット

1580年 丹波を平定
ずっと難渋していた戦いであり、信長に褒められる
同年 馬揃え成功
ド派手な織田の軍勢を率いて大パレード(計2回)の最高責任者をやり遂げる。朝廷へ武力を見せつける意味もあった。この時の織田軍を我がものに感じ、天下取りに走ったという説もあるが、光秀は自分の分をわきまえていたに一票。

1582年5月15〜17日 徳川家康を接待する
甲州攻めのご褒美として、徳川家康の接待が安土で開かれた。接待役を申し付けられた光秀。接待が華美すぎただの、魚が腐っていただのと信長に厳しく怒られたとの話が残るが、詳細は不明。

1582年5月17日 備中行きを命じられる
毛利と戦っている秀吉を中国地方まで助けに行くよう命じられる。なぜ秀吉の助けを自分が遠路はるばる行かねばならんのだ!クソー!と思ったとか思わなかったとか。

1582年6月2日早朝 本能寺へ討ち入る

1582年6月13日 山崎の戦いに敗れる
豊臣連合軍と明智軍は摂津国と山城国の境である山崎で激突。敗走の途中、落ち武者狩りにあい自害。非業の死を遂げた。

5. ちょっと休憩 〜光秀のいいところ〜

① 民想い!
領地であった福知山で、荒れ狂う川に堤防を作り水害から町を救った。また、領民から税をすい上げる地侍を退治し、今でいう固定資産税を減らし商業活動を推奨するなど善政を布いた。その功績は大きく、地元では光秀を褒め称え、偲ぶ口伝が残されている(裏切り者を崇める文書は残せなかったのだろう)。

② 家臣想い!
部下へ戦の報奨を知らせる手紙の中で、部下自身の傷の具合や体調を慮った記述が多い。それは光秀クラスの部将では珍しいことであり、部下一人一人を大切にしていたことがうかがえる。

③ 愛妻家!
妻の煕子(ひろこ)は婚約時代に皮膚の病にかかり全身に痣が残ったらしい。こりゃダメだと煕子の父がそっくりな妹を嫁がせようとしたところ入れ替わりを見抜き、妹を送り返し煕子と結婚。さらに生涯側室をとらなかったという一途な男っぷり(これにも諸説ある)。貧しかった光秀が、朝倉家に召し抱えられるか否かの一世一代の歌会の際には、煕子が自慢の黒髪を売ってお金を作り成功を支えた。

6. もうちょっと休憩 〜光秀のすごいところ〜

① 銃の名手で戦上手!
銃の腕はピカイチで、遠く離れた100の的でも全弾命中。そのうち68発は中心を撃ち抜いたと言われる。秀吉にもみ消されてはいるが、戦での活躍は多く、信長から高評価を受けていた。かの秀吉よりも上の評価をもらったこともあり、信長の家臣の中で自分の城を誰よりも早く持つことができたのは光秀である。1回だけ敗走したことがある(第1次黒井城の戦い)が、この敗走を信長は叱責しなかった。それほど難しい戦いだったということであり、それ以外の敗戦はない。なにより、誰も倒せなかった切れ者信長を討ち取ったのはまぎれもなく光秀。奇襲は卑怯だったかもしれないが、戦上手というより他なし。

② 歌や茶道に精通!
武芸だけでなく、教養人でもあった光秀。公家や将軍家の接待役に最適とされ、秀吉と最も対照的だったところでもある。

③ 築城名人!
ルイス・フロイスが、光秀の城であった坂本城を安土城につぐ素晴らしい城だと書き残している。どちらも今はなく実際はわからないが、あの時代の安土城といえば豪華絢爛かつものすごい防御設備だったことを考えれば、予算が全く違う一家臣がそれに次ぐ城を作ることができるのはすごい。

④ 情にあつく顔が広い!
信長が最も光秀を重用したところ。公家や将軍家からの信頼も厚く、多くの橋渡しを担った。数々の陰謀説がささやかれたのは、多くの有力者と光秀のコネクションがあったからこそ。戦の場であっても、無駄な殺戮を避け兵の暴挙をいさめるなど正義感が強いエピソードが多い。

7. 光秀の魅力まとめ

・中間管理職のようではあるが、堅実で緻密
・大きな失敗をしないデキる男
・情にあつく、家族や部下を大事にする
・文武両道
・いいトコのお坊ちゃんであることは隠しきれない

裏切りという事実から狡猾さを指摘せざる得ないが、うまく立ち回ることは戦国の世では当たり前と考えれば単純に卑怯者とはいえない…というのは肩を持ちすぎだろうか。信憑性が高い文献の中では、小人物だと感じさせる記載は見当たらなかった。

8. なぜ光秀は信長を殺したか

これにはほんとーーーにたくさんの諸説がある。面目を潰され恨んでいた、信長の乱心に恐怖を感じた、保身に走った、自分も天下を取りたくなった…など。

前述したとおり、知恵があり清廉な男が決断するのはどういうときか。私にはどうしても、光秀が自分を理由に信長を殺すとは思えなかった。そして光秀は最愛のものを守るために決断したのでは、と考えるようになった。彼が愛した、家族と民のために。

光秀は泰平の世への道筋として、足利家の再興に武と智の共存をみたのではないだろうか。ほぼ天下を平定した織田にかわり、自分が裏方となって将軍が国を治めれば、戦乱の世は終わる。皆が笑って暮らせる世界のために幕引きは年老いた自分が!と思ったのではないか。

私が根拠としたのは、愛宕百韻(あたごひゃくいん)と呼ばれる本能寺の直前に愛宕山で明智光秀が主催した歌会で詠まれた連歌(れんが)である。連歌とは、和歌の五七五の上の句と七七の下の句を別の人が順に読み継いでいくもので、この時代に盛んに行われていた。連歌には、自分の句を直前の句とさらにもうひとつ前の句の内容を踏まえて読まねばならないという決まりがあるが、この決まりを受けない句が2つだけある。最初の句(発句)と最後の句(挙句)である。挙句はお祝いの心を読み込むこというルールがあり、前の句との関連は問われない。

愛宕百韻の発句と挙句はこうである。

発句:「ときは今あめが下なる5月かな」 光秀
挙句:「国々はなおのどかなるとき」 光慶(光秀の嫡男)
*嫡男(ちゃくなん)とは後継ぎとなる男子のこと

重ねて使われている「とき」という言葉は「今この時」とルーツである「土岐氏」をかけていると考えられる。素人考えだと笑われるかもしれないが良いのだ。この句を謀反の気持ちの現れだとする説は多いが、私には雨あがりを感じさせる優しい句に感じられる。

(私なりの解釈)
発句:今よく降る雨のもとにあるように、土岐氏にとっても雨の時代、天に見放された時がありました。しかしこの5月を越えれば雨は上がり、また天のご加護があります。
挙句:国という国がみな、のどかに穏やかに暮らせる時がきます。

そして本能寺の変は起きた。

信長・信忠を討ち取ったその後、光秀は色々と奔走していたが、やたらと悠長にしていた感がある。信長という悪が去れば自然と周囲はついてくるという思い込みがあったのではないだろうか。育ちの良い光秀には、明智に賛同=主殺しを認めることが、生え抜きの武将たちにとってどれほど重い決断か理解できなかったのかもしれない。その点豊臣秀吉は「信長様は生きている、裏切ったなどと知ったらどんな仕打ちを受けるかわからんぞ」という嘘で人々の心を動かしたところをみると、あらためて光秀と対をなす者だなと感じる。

光秀は秀吉や家康のことも認めていたような気がする。彼らとこれからの時代を作って行く気すらあったのではないだろうか。なんて人が良いんだ、光秀よ。戦国の世に正論を貫く優しき武将は、主君を討つという大仕事はやり遂げたが、自らの手による理想の実現は叶わなかった。

9. おわりに

謎は謎を呼ぶ。今回のコラムを書くにあたり、調べれば調べるほどわからないことが見つかったというのが正直なところだ。それでも…
光秀さん、私は非力過ぎてあなたの汚名をはらすことはできないけれど、興味を持って学び続けます。子孫のことはいじめませんし、あなたの行動の良し悪しを裁くことはもう誰にもできません。結果としてあるのは、今の平和な日本なのですから。


●参考文献
『明智光秀』高柳光寿(1958年 吉川弘文館)
『明智光秀』桑田忠親(1973年 新人物往来社)
『明智光秀』小和田哲男(1998年 PHP文庫)
『兼見卿記 第2』史料纂集(1971年所収 続群書類従完成会)
『織豊期の国家と秩序』三鬼清一郎(2012年 青史出版)
『美濃・土岐一族』谷口研吾(1997年 新人物往来社)
『新編・絵本太閤記』歴史絵本研究会編(1995年 主婦と生活社)
『明智軍記』二木謙一監修(1995年 新人物往来社)
『日本合戦騒動9 川角太閤記』志村有弘現代語訳・著(1996年 勉誠社)
『新訂 信長公記』太田牛一原著 (1997年 新人物往来社)
『完訳フロイス日本史3 織田信長編Ⅲ 安土城と本能寺の変』 ルイス・フロイス著、松田毅一・川崎桃太訳(2000年 中央公論新社)
『織田信長』池上裕子(2012年 吉川弘文館)
『明智光秀の乱』小林正信(2014年 里文出版)
『「本能寺の変」は変だ!』明智憲三郎(2016年 文芸社) 
*文中写真は、写真ACより使用しました

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