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白夜の海 Episode 1 【#シロクマ文芸部】

 朧月……? そうだ、朧月夜だ。
 あの人が初めて読ませてくれたしょうせ—— 

「眞子ちゃん。落ち着いて。一度深呼吸してみようか。大丈夫。ゆっくりでいいからね」

 目の前に座る女性警察官の、お面のように張り付いた笑顔を睨んだ。ふーっとため息をつく。彼女が意図した通りに、深呼吸をしたのだと勘違いされるだろう。多分、私の両目の下には、濃い隈ができていて、顔はすっかり青ざめている。それが、あの人からの「被害」のせいだと、どうか、どうか誤解しないでほしい。

 私の頭の中の歯車たちが軋む。噛み合い損ねた歯車が、ぎしぎしと音を立て、私を内側から破壊しようとしている。何かを言おうと口を開いたけれど、怖くて、悲しくて、怒りが沸いて来て、そんなぐちゃぐちゃな感情が一気に口から外に出たがって、涙が溢れた。まるで自分のものではないような涙が、膝の上で握りしめた両手の甲に落ち、流れ落ちて制服の紺色のスカートに染みを作った。ちがう。あの人は何も悪くない。待って、違うよ。

「わかるよ。辛かったね。落ち着くまでここで待ってるから、全部話してごらん」

 女性警察官は、立ち上がり、私の右側に立つと、人工甘味料よりも甘い声を出して、私の肩をさすった。びくん、と音がするくらいに、私は体を硬直させた。その反応が、あの人への誤解に拍車をかけたことは明らかで、罪深くて、絶望して、ますます嗚咽が止まらなくなった。

「眞子ちゃん、正直に教えて。黒森との間に、何があった?」

 女性警察官の声色が、尋問に変わった。私は、涙を手で拭うと、奥歯を噛みしめ、右側に立つ女性警察官を見上げて、また睨んだ。

 逃げられない。自分自身からは、絶対に逃げられない。
 私は、大きく息を吸って、目を閉じた。
 あの日々が、今も鮮やかな色彩を持って、私の心に迫って来る。
 さあ、語ろうか。私の本当のストーリーを。

 私は、瀬名眞子という。私の家は、東京郊外にある。お父さんは、私立の大学病院の教授をしていて、お母さんは、プロのアクセサリー作家だ。私は、ハイクラスな家庭の子供が通う学校として知られる、聖ミハイル女学院中等科の三年に在籍している。家には、仲の良いゴールデンレトリバーの兄弟のジョンとポール、それからお手伝いさんが二人いる。

「すばらしいご家族だわ」
「お父さんもお母さんも、ご立派ね」
「眞子ちゃん、将来はお医者さんね」

 瀬名の家を知る人間から、常套句を言われる度に、心を覆う膜が一枚ずつ増え、殻のように固まっていくのを感じた。私は全部嫌いだった。私の家も、そして、私自身のことも。

 お父さんが買ってくれたスマートフォンにも、最新型の腕時計にも、GPSがついていた。私がどこにいるのか、いつも位置情報を把握するために。私が何をするっていうの。監視なんてしなくても、私はどこへも行かないよ。

 二〇二四年、四月七日、日曜日の朝。鏡の前で身だしなみを整えた。真っすぐなショートヘアは少し伸びかけている。相変わらず、口角の下がった不機嫌そうな青白い顔にうんざりする。けれど、二重の綺麗な目だけは、お母さんに似ていてよかったと思える。外出するときも、大抵の場合は、聖ミハイル女学院の制服を着るようにと、お父さんから言いつけられていた。白地の襟に、紺色の三本線が入ったセーラー服には、ぱりっとアイロンがかかっている。紺色のプリーツスカートの丈は、校則どおり、膝下五センチだ。

 私は、お手伝いさんの三島さんが作ってくれたお弁当を持って、市立白熊シロクマ図書館に出かけた。空は青く澄んでいて、空気には、春の匂いが混じっている。私は歩き出し、一歩ごとに仮面を一枚ずつ外していった。自然に笑みがこぼれる。日曜日だけは、家の外で勉強することが許されていた。大好きなショパンのピアノ協奏曲をBGMに、足取りも軽く、私は歩き続けた。

 秘密だけれど、図書館では、勉強をするのは午前中だけにしている。三島さんの美味しいお弁当を食べると、私は四階の美術コーナーへと急ぐ。午後からは、大好きな画集を、好きなだけ机の上に広げて、うっとりと眺めることが、私の唯一の息抜きだ。

 お父さんとお母さんには口が裂けても言えないけれど、本当は医者になんかなりたくなくて、美術史の研究がしたい。好きな画家は沢山いるが、中でもモネとルノワールが描く光と影、それからマティスの色彩が好きだ。いつものように画集を広げる。絵画以外の考察の文章や、あとがきまでも、全て精読する。あの画家のページを除いて。

 帰る時間となり、名残惜しくて、下を向いて画集を見ながら、返却コーナーに向かっていた時だった。前から来た人に気付かず、ぶつかった。

「すみません」
「いや、こっちこそ」

 床に落ちた画集を慌てて拾おうとして、私は凍り付いた。

 決して見ないようにしていた、グスタフ・クリムトの「ダナエ」のページが開かれていた。青白い、けれど幸せそうな女性の裸体が、私の目に飛び込んできた。

 突然、激しい眩暈と頭痛が襲う。とにかく、ここを離れなければ。立ち上がり、急いで図書館の出口へと向かった。頭の芯がぼんやりと溶け出す。周囲の雑音が、ぐるぐるにかき混ぜられて、拡散していく。ふと立ち止まると、私は横断歩道の真ん中にいた。

 すべてがゆっくりと動いているように感じた。大きなトラックが、近づいてくる。

 ああ、やっと終わるんだ。

 私は、ゆっくりと目を閉じた。頭の中では、学校の礼拝で歌った讃美歌が、無限にループしていた。

『お父さんはお医者さんだから、何も怖がることは無いんだよ』
『若いからって、いい気にならないで。眞子の体はね、穢いのよ』

 パンドラの箱が開いた。けれど、もういい。もう、さようならだ。

「死ぬな! 戻ってこい!」

 私の右腕を、誰かの手が掴んで、強く引いた。温かい。誰かに触れられて温かいと思えるのは、いつぶりだろう。

 耳をつんざくようなクラクションにはっとして、現実に戻った。私は、横断歩道の端、信号機の横に、崩れ落ちるように座っていた。

「大丈夫?」

 差し伸べられた手をのろのろと見つめた。大きな右手だった。まだ視界がぼんやりと霞んでいる。自力で立ち上がろうとしたが、よろけて立てない。諦めて、その手を掴み、手の主に縋った。洗いざらしの洗濯物の、太陽の香りがした。そのまま、図書館裏のベンチまで、二人で歩いた。

「これ、よかったら」

 その人が差し出したのは、真っ赤な缶入りのコーラだった。コーラには「刺激物」がたくさん含まれているから、飲んではいけないと、お父さんにきつく言われていた。私は、コーラを、次いで、その人を見上げた。

 逆光の中のその人の顔を、私は生涯忘れないだろう。血色の良い、白くて透明な肌に、漆黒の瞳が、優しく輝いていた。私とは対照的に、口元はゆったりと微笑んでいる。癖のある柔らかそうな髪の毛は少し褐色を帯びていて、風に揺れていた。その姿は、礼拝堂にある、天使の彫刻を彷彿とさせた。

「まだ力入んないか」

 その人は、缶の蓋を開けてくれた。プシュッと噴き出る泡とともに、美味しそうな甘い香りが漂う。差し出されたコーラを、私は口に含んだ。

「美味しい。けど、罪深い味がする」

 思ったことがそのまま口からこぼれた。次の瞬間、その人は、天を仰いで大きな声で笑った。

「罪深いって、何それ?」
「コーラは体に悪いから飲んじゃ駄目って、ずっと言われてきたから」
「本当? 今幾つ?」
「十四」
「十四年間もよく耐えてきたね。そういえば、その制服、あのお嬢様学校の……えーと」
「聖ミハイル女学院」
「そっか。そうだ」

 暫し、その人と目があった。不思議と、逸らすことができなかった。

「俺、黒森奏汰。南高三年。定時制に通ってる。名前は?」
「瀬名眞子」
「眞子ちゃんか」

 奏汰は微笑みながら頷いて、すっと息を吸い込んだ。ふっと、奏汰の顔から、笑みが消えた。

「で。眞子ちゃん。さっき、どうした?」
「え」
「俺と図書館でぶつかってから、いきなり走りだして横断歩道に飛び込んじゃったから」

 あの時ぶつかったのは、奏汰だったのか。

「ごめん。俺、何かした?」
「違う! 違うの」

 必死で首を振った。何と答えたらいいのか、解らない。ガムテープでぐるぐる巻きにして、心の一番奥の部屋にしまっておいた感情を、あの時、横断歩道の真ん中で、私は開封してしまったのだから。俯いて何も言えない私を、奏汰は急かすこともなく見つめた。沈黙は、なぜか心地よかった。

 けたたましく鳴る腕時計の通知音が、静寂を破った。お父さんからの電話だった。慌ててスマートフォンを耳に当てる。

「眞子。何時だと思ってるんだ。いつもより三十分も遅い。今どこにいる」
「ごめん、お父さん。ちょっと図書館で貧血をおこしちゃって。すぐ帰るから」

 私とお父さんとのやり取りを、奏汰は静かに見つめていた。真っすぐに澄んだ黒い瞳が、やや鋭くなったように見えた。慌てて帰ろうとする私に、奏汰は告げた。

「眞子ちゃん。俺、毎週日曜にこの白熊シロクマ図書館に来てるから。よかったら、またコーラ奢るよ」

 奏汰はひらりと手を振って、ベンチから立ち上がり、私に背を向けて、バス停の方へ向かった。奏汰の背中が遠くなる。蜃気楼が、道路の彼方を揺らしていた。春が、通り過ぎて行った。

<来週に続く>

 この小説は、小牧幸助さまの下記企画に参加しております。

 ちょっと長め(現在進行中)の小説に取り掛かっています。企画に参加させていただきつつ、連載を進めさせていただきます。

 小牧部長、今週から頑張ります!
 最後までお読みいただき、ありがとうございました。

#シロクマ文芸部


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