見出し画像

『神隠しの庭で、珈琲を』 第二話:母であり、病人である前に #創作大賞2024

第二話:母であり、病人である前に

 朝来あさきとフサヱさんは、「常庭とこにわ」の屋敷の玄関前に立ち、森を見つめている。屋敷の庭にある桜の老木が、森から吹く風に枝をしならせている。桜の枝が、柔らかに風を受け流すように、辛いことがあっても、心が折れずに生きられたなら、と朝来は思う。常庭にやって来るお客様は、皆、誰にも言えない苦しみを抱えている。朝来だってそうなのだろう。ただ今は、思い出せないだけだ。
 フサヱさんの視線の先には、「木の門」がある。木の太い幹は、根元から曲がりながら伸びて弧を描き、枝先は地面に触れている。現世うつしよから常世とこよに迷い込んだ人間は皆、この門をくぐって、常庭にやって来る。朝来は今、ここ常庭で、常世に迷い込んだ人たちのために働いている。常庭は、迷い人たちのための、ゲストハウスなのだ。
 木の門をくぐり、森から歩いて来たのは、若い女性と、白い狐だった。女性は、白い七分袖のロングワンピースを纏い、右肩に、大きな黒い荷物を背負っている。荷物は、何かのケースのようで、吸血鬼が住む棺のような形にも見える。
 白狐は、後ろ足で地面を蹴って、高く跳んだ。三本の尾がふわりと揺れる。着地したとき、狐は、十七歳くらいの少年の姿に変わっていた。迷える人を常庭に案内する役目を持つ、この少年は、名を雪夏せつかという。
 女性は立ち止まって、雪夏をまじまじと見た。狐が突然人の姿に変わったのだ。驚かない方がどうかしている。雪夏は、人間の姿がしっくりこないのか、両肩を回してストレッチを始めた。
 雪夏は美しい少年だ。なめらかな肌は白く透き通り、白銀の柔らかい髪は、さらさらと風に揺れている。金色の瞳は、いつも優しく光っていて、目が合うと、不思議なことに心が凪ぎ、安心してしまう。雪夏は、いつも朝来と同じ「制服」を着ている。コットンの白シャツと紺色のテーパードパンツにアイロンをかけたのは、朝来だ。
 雪夏は、微笑んで女性の手を引き、常庭へとエスコートする。

 風が止んだ。
 森が、閉ざされた。

 女性は、雪夏に話しかけたが、雪夏は微笑むばかりで、答えない。女性は、訳が分からないという表情で、屋敷の前に立つフサヱさんと朝来に、助けを求めるような視線を送った。雪夏の手を振りほどき、重そうな荷物を背負い直して、屋敷に向かって駆けてくる。
「よかった! 家があって。私、森で迷ってしまって。白い狐の後をついてきたら、ここに辿り着いたんです。そうしたら、突然狐が人になって。もう、何が何だか」
 女性は、不安そうに数回瞬きをして、早口でまくし立てた。言い終えると、女性は桜の老木に気付き、不思議そうに見上げた。
「九月なのに、桜が咲いているなんて……。狂い咲きですか?」
 女性は、フサヱさんと朝来を交互に見た。女性の、くっきりとした二重瞼の下の明るい褐色の瞳には、意思の力が満ちている。ゆるくウエーブがかかった、腰まである栗色の髪は、結んでハーフアップにされている。
「そうねえ。そのお話の前に、まずはその大きな荷物を下ろさなくちゃ」
 フサヱさんは、皺だらけの顔で、女性に笑いかけた。フサヱさんの顔に刻まれた皺は、今までたくさん笑ってきた証なのだと、朝来は少し羨ましく思っている。
 女性は、その笑顔に少し安心した様子で、フサヱさんに案内されるまま、桜の下のテーブルの脇に大きな荷物を置いた。近くで見ると、荷物はやはり、黒い棺のようだ。いきなり吸血鬼が飛び出してきてもおかしくはないなと、朝来は想像を膨らませた。
 フサヱさんに目で促され、朝来は屋敷の中に入った。小さなガラス窓がある石壁の台所で、先ほど汲んできた湧き水をグラスに入れた。水は、まだ冷たい。お盆にグラスを乗せ、庭に戻ると、テーブルの上に桜の花びらが散っていた。
 朝来は、お盆をテーブルの端に置き、花びらを払おうとして、思わず手を止めた。フサヱさんの手が、朝来の手に触れる。温かく、乾いた手だ。
「朝来ちゃん、そのままでいいんじゃない? 花びらがとってもきれいだもの」
 フサヱさんらしい言葉だ。朝来は頷いて、女性の前にグラスを置いた。
「今、この湧き水で美味しい珈琲を淹れるわ」
 フサヱさんは、屋敷に入り、珈琲の支度を始めた。女性は、所在無げにきょろきょろとあたりを見回している。玄関の扉の周りを覆うつるばらが気になったのか、じっと花を見つめた。
「綺麗なばらですね」
 女性の横顔は、ばらに勝るとも劣らず美しい。
「そうですね。とても綺麗です。ここはいつも春だから、花が終わることはないんですよ」
 女性は、朝来を見て、不思議そうに首を傾げた。
 フサヱさんが、珈琲豆を挽く音が聞こえる。女性は、少し迷って、グラスの水に口を付けた。よほど喉が渇いていたのだろう、一気に水を飲み干した。グラスをテーブルに置いた女性の表情が変わった。
「このお水、冷たくて、すごくまろやかで、美味しいです」
「よかった。屋敷の裏にある泉の、湧き水なんですよ」
 朝来は爽やかに笑った。その笑顔を見た女性が、だんだんと警戒を解いていく。
 ふと雪夏を探した。雪夏は、椅子には座らず、大きくうねり、地面にせり出した桜の木の根に座り、枝を見上げて、手のひらに花びらを受けていた。
「あの男の子は?」
「雪夏ですね。あの子は、私たちと一緒に、ここで働いているんです」
 女性は、不可解そうな顔をして、朝来を見つめた。
「あなたは、どうしてここにいらっしゃるんですか?」
 朝来は、息を飲み込むと、少し苦しそうに笑った。
「わかりません。ここに来た時、それまでの記憶が無くなっていて」
「そう……」
 女性は、少し悲しそうな目をした。その表情を見て、朝来は、この人は、人の痛みが分かる人なのだと直感した。
「さあ、珈琲を淹れたわよ!」
 屋敷からフサヱさんの声がして、朝来は立ちあがり、台所へ走った。台所には、いつの間にか雪夏がいて、スコーンを薪のオーブンで温めていた。朝来と雪夏で、四人分の珈琲とスコーンを、桜の下のテーブルへと運ぶ。
「今日の珈琲は、酸味が少ない、深煎りのブレンドなの」
 フサヱさんは、女性の前に座ると、テーブルの下でゆっくりと足を組んだ。
 朝来と雪夏が椅子に掛けるのを待って、フサヱさんが、女性の目を見て、穏やかに語りかけた。
「お嬢さん、お名前は?」
「葉月琴音といいます」
「琴音さん。冷めないうちに、珈琲を飲んでみて。まずはブラックでね」
 琴音は、少しだけ不安そうに逡巡すると、意を決したように、マグカップを両手で持ち上げ、珈琲を飲んだ。
「この珈琲、すごく、すっごく美味しい! お砂糖が入っていないのに、ほのかに甘いですね」
 琴音が顔を輝かせた。朝来は、ほっとして笑った。朝来も珈琲を飲む。フサヱさんが淹れる珈琲は、どうしてこんなに美味しいのだろう。朝来は息を吐いて、空を見上げ、目を閉じた。午後の日差しが、瞼に温かい。
「美味しいでしょう? 湧き水を使っているから、まろやかで雑味がないの。やっぱり、水が大事なのよね」
 フサヱさんが、丸眼鏡の奥で目を細め、嬉しそうに頷いて、頬杖をつく。
「フサヱさんの珈琲は特別なんです。私も、初めて飲んだ時は感動しました!」
 朝来が笑うと、また、場が明るくなった。雪夏は、朝来を見て微笑みながら、珈琲をすすっている。
「このスコーンも、バターの香りが香ばしい。すごく美味しいです!」
 スコーンを食べ終えた琴音は、大事なことを思い出したように、暫し俯いて、それから顔を上げ、フサヱさんの方を向いた。
「あの、森の出口を、街に戻れる道を教えて頂けませんか?」
「そうねえ。今すぐには、ちょっと難しいのよねえ」
「え?」
 フサヱさんは、マグカップをテーブルに置き、テーブルの上で両手を組んだ。
「実はね、ここは、あなたが住んでいた世界、現世ではないの」
「うつしよ?」
 フサヱさんは、ゆっくりと頷くと組んだ両手を解いた。
「わかりやすく言えば、琴音さん、あなたは、神隠しに遭ったっていうことね」
フサヱさんは、マグカップをテーブルに置き、テーブルの上で両手を組んだ。
「神隠し?」
 琴音は、常庭の住人を順番に見た。混乱し、周囲を落ち着きなく見回している。朝来が、琴音を見つめ、落ち着いた声でゆっくりと話しかけた。
「大丈夫です。ここは安全ですよ。ここは、『常庭』といって、神隠しに遭った人に、現世に帰るまで、休憩して頂くための場所なんです。オーナーはフサヱさんで、私はアシスタントの朝来といいます。こっちは、先ほど琴音さんをエスコートした雪夏です」
「この常庭では、季節は永遠に春なの。時間の進み方が、現世とは違うのよね。足元を御覧なさい。春の草花が、妖精みたいにそこら中で咲いているわ。この小さな花たちも、桜も、花が終わることはないの」
 桜の老木に守られた常庭には、春が溢れている。桜の花びらが静かに舞い、陽光が、生きとし生けるものを祝福していた。土の香りがする風が、木々や草花とさらさらと戯れ、小鳥たちは、幾重にも重なる春の歌を歌っている。
 琴音は、不思議そうに常庭の景色を見渡すと、警戒を解いたのか、吹き渡る風に髪をなびかせ、心地よさそうに目を閉じた。
「まさか、人生の最後に、こんなにきれいなところに来られるなんて」
 琴音は、寂しそうに笑った。
「人生の最後」という言葉が、朝来の心に影を落とした。
「神隠しって、本当にあるんですね。皆さんも、神隠しに遭って、ここに来られたんですか?」
 琴音の問いに、朝来が答える。
「神隠しに遭って、ここに来たのは私だけなんです。フサヱさんは、この森を司る神様で、雪夏は、神様の使いのような存在で」
「神様なんて、そんな大げさなものじゃあ、ないんだけれどね。そうねえ。まあ、古くからこの森をよく知っているっていうだけのことよ」
 雪夏が、微笑みながら相槌を打つ。
 琴音が、マグカップを両手で持って、珈琲を飲み干した。
「ここでなら、いい音が出せそうだわ」
 琴音は、呟いて、足元の大きな荷物に目を遣った。黒い、吸血鬼の棺のようなその荷物を見て、朝来の中で、小さな歯車が一つ、噛み合った。
「その中身、もしかして、ハープですか?」
「そう! ハープです。アイリッシュハープ! よくご存じね」
 琴音の表情が、ぱっと明るくなる。
「まあ、ハープですって? 何て素敵なの。琴音さんは、ハープの演奏家でいらっしゃるの?」
 フサヱさんが身を乗り出した。フサヱさんは、音楽に目がない。
「はい。オーケストラの専属ハープ奏者をしています」
 「まあ!」とフサヱさんは、顔を輝かせて笑った。

「琴音さん。あなたの話を聞かせてちょうだい」

 森の神であるフサヱさんは、森が閉じている間、必ず来訪者の声に耳を傾ける。決して相手に気を遣わせず、迷い人の物語を引き出していく。
「自然って、それ自体が音なんですよね」
 琴音が、静かに息を吸って、ぽつりぽつりと話し始めた。
「小さい時から、音が大好きだったんです。雨の音や、風の音や、色々な自然の音を聞いて、楽器で音を出して真似することが、楽しくて」
 三人の聞き手は、それぞれが頷いた。
「十歳でハープと出会ってからは、ハープの虜になりました。寝るのが惜しいくらい、練習したんです」
「本当に、音楽がお好きなのね。好きなことを続けられることは、才能だわ」
 フサヱさんが、相槌を打つ。
「幸運なことに、私は音楽大学に合格できて、卒業後、演奏家になることができました。楽団のコンサートに出演したり、施設や学校や、色々な場所で演奏したりして、ハープだけで食べて行けるようになりました。毎日が、本当に楽しくて」
——音楽大学? 演奏家?
 朝来の頭の中の、雪嵐の向こうに、何かが見えた気がした。しかしその影は、たちまち嵐に巻き上げられ、隠れてしまった。
「三年前、二十九歳の時、結婚しました。夫は指揮者で、アメリカ国籍の、優しい人です。今年二歳になる娘もいます。毎日が、本当に幸せでした。けれど、アメリカに活動拠点を移すために、渡米しようと思っていた矢先の、九月十一日に、あの同時多発テロが起きたんです。ワールドトレードセンターに、ハイジャックされた旅客機が激突したニュース、ご存じでしょう? それで、アメリカには、すぐには行けなくなってしまって」
 朝来は、再び不思議な感覚に囚われていた。完全に失ったと思っていた記憶が一つ、頭の中の雪嵐から解放された。アメリカで同時多発テロが起きた二〇〇一年、九月十一日。それは、朝来が生まれた日だった。
 すなわち、琴音は二〇〇一年現在三十二歳だ。琴音にとっての現在は、朝来の現在とは一致しない。
 フサヱさんは、朝来にいつも言う。常庭に来る人たちが生きる時代は様々だ。自分が知らない時代の話をされたからといって、決して驚いたり、否定したりしてはいけない。大切なのは、常庭への来訪者の物語に耳を傾け続けることなのだと。
 フサヱさんを見た。フサヱさんは、背筋を伸ばして、全身で琴音の物語に向き合っている。
「そう、それは大変ね。旦那様のご家族のことも、心配でしょうね」
「ええ。夫の家族は、いつも怯えています。けれど、心配なのは、それだけじゃなくて」
 琴音は、ゆっくりと目を伏せた。ゆるくウエーブした髪が、顔にかかって影を作る。
 雲が湧き、湿り気を帯びた風が吹いた。
「雨がくる」
 雪夏が、初めて呟いた。雪夏の目が、雲の流れを追っている。
「屋敷の中へ入りましょう」
 朝来は、マグカップとスコーンをお盆に乗せ、琴音を屋敷の中へ案内した。雪夏は、琴音の代わりにハープを背負う。
 屋敷の玄関を入って右手にある、一階の居間には、古ぼけた円い大きなテーブルがある。テーブルの脚は太い猫脚で、果実をかたどった細密な彫刻が施されている。テーブルの周りには、深い緑色の布が張られた、古い椅子が四脚、配置されている。居間の隅には、薪ストーブが据え付けられており、対角線上には、古い茶色のグランドピアノが置かれている。
 朝来は、マグカップとスコーンをテーブルに置くと、保温ポットに入れておいた珈琲を、それぞれのカップに注いだ。
 暫くして、雨音が屋敷の屋根を鳴らした。
「雪夏の言ったとおりだわ」
 フサヱさんが、居間の大きなガラス窓を見て呟いた。
 窓も扉も閉まっているのに、雨の日は土の匂いが濃くなる。
 雨は、細い絹糸のように、音もなく天から降ってくる。窓ガラスに触れた雨粒は、小さなダイヤモンドのように輝く。堪えられなくなった雫たちが、左右に小刻みに揺れながら、下に向かって流れ落ちていく。
 太陽が出ているうちは暖かくても、雨が降ると、常庭は一気に寒くなる。雪夏が、薪ストーブに火を入れた。
 炎が爆ぜる音が、屋敷に響く。三人は沈黙して、琴音の言葉を待った。琴音は、俯いたまま、膝の上で握った両手を見つめた。手を開いたり閉じたりすると、何かを諦めたように、顔を上げた。
「ハープの弦をはじく指に、力が入りにくくなっているんです」
 琴音は、言葉を切ると、膝の上の両手をテーブルの上に置いて、指でハープの弦を弾く動作をした。
「病院で診てもらったら、ALSと診断されてしまって」
 ALS。筋萎縮性側索硬化症きんいしゅくせいそくさくこうかしょう。全身の運動神経が働かなくなる、難病である。
 フサヱさんの瞳の色が、微かに変わったように見えた。
「そのうち、指や腕が動かなくなります。声も、出せなくなる。意識ははっきりとしているけれど、全身の自由が奪われていきます。人工呼吸器をつけなければ、息をすることもできなくなる。娘が小学校に上がるまで、生きていられるかどうか……」
 だから琴音は、生き急ぐように音を追いかけた。自分の演奏をできる限り多く録音し、娘に、母親の音を残すためだ。家の近くの森の中にある泉のほとりでなら、いい音が出せるかもしれないと思い、体調を心配する夫の制止を振り払って、重いハープを背負い、無理矢理森に入ったという。そして森で迷い、白狐の雪夏に導かれ、常庭に辿り着いたのであった。
 琴音は、声もなく泣いていた。
「ハープを弾くことが大好きだから、怖いんです。だんだん指が動かなくなって、弾けなくなっていくことが。どうして私がこの病気にって」
 涙を拭うと、琴音は苦しそうに笑った。
「神隠しに遭ったって知って、本当は少しほっとしました。元の世界に帰りたいけれど、帰りたくない。もう、どうすればいいのかなあ」
 琴音への気休めの答えなど、どこにも存在しない。
 沈黙の中、雨の音が響く。
 フサヱさんは立ち上がると、台所へ向かった。暫くして、甘い香りが立ち、フサヱさんは、四人分の温かいココアを運んできた。それぞれのマグカップに、マシュマロが二つずつ、浮かんでいる。
 琴音は、礼を言うと、両手でマグカップを持ち上げ、熱そうに一口すすった。マグカップを片手で支えることが、困難になっているのだ。
 朝来の心が痛んだ。琴音に代わって病を引き受けることはできない。だれか他の人の命を生きることはできない。だから、今自分にできることを考えるしかない。自分が暗くなっても、何の解決にもならない。常庭のスタッフとして、できる限り琴音に寄り添いたいと、朝来は心に決めた。
 琴音に必要なものは、まず心身の休息なのだと、朝来は考えた。フサヱさんはいつも言う。心の不調は、まず体を癒すことで軽くなるのだと。栄養のある食事を食べること、ゆっくりと眠ることが、今の琴音には必要だ。
 四人は、何も言わずに温かいココアを飲み、薪ストーブの炎を眺めて過ごした。
 沈黙を破ったのは、フサヱさんだった。
「琴音さん。今日はもう、森は開かないわ。ここで、ゆっくり一晩泊まって行きなさい」
 琴音は頭を下げて礼を言うと、再び薪ストーブの炎を見つめた。
 夕刻となり、フサヱさんと朝来は、夕飯の支度にとりかかった。水に浸しておいた発芽玄米を、土鍋で炊く。ぶくぶくと蓋が泡で持ち上がり、ご飯が炊けるいい匂いが漂う。
 フサヱさんの包丁の音が、とんとんと台所に響く。心を落ち着かせる、魔法の音だ。
 琴音は、薪ストーブの前の一人掛けのソファに腰かけ、壁一面に据え付けられた本棚から本を取り出し、膝の上に置いて読んでいた。少し間をおいて朝来が目を遣ると、琴音はうとうとと眠っていた。よほど疲れているのだろう。薪ストーブの前で皮靴の手入れをしていた雪夏が気づき、琴音にブランケットをかけた。
 フサヱさんと朝来は、手際よく作業を並行して料理をこなし、ご飯が炊けたのと同時に夕飯が完成した。
 朝来が肩に触れると、琴音は目を覚まし、ぐうっと伸びをした。
 居間の大きな円テーブルに、夕飯が並ぶ。玄米ご飯、かぼちゃの煮つけ、焼いた塩サケ、タラの芽の天ぷら、ひよこ豆とグリーンピースのスープだ。  
 四人で手を合わせ、食べ始める。
「すごく、美味しい!」
 琴音は、塩サケを一口食べると、目を大きく見開き、三人を代わる代わる見た。フサヱさんは、大きく頷いた。
「美味しく頂いてくれて嬉しいわ。ところで琴音さん。最近、お食事はきちんと食べているのかしら?」
「いえ……。色々と考え事をしてしまって、食事が喉を通らなくて」
「そう……。『美味しい』って思うことで、このご飯も、お魚も、お野菜も、皆が琴音さんの血になり肉になるのよ。お食事を美味しく頂くことって、とても大切なの」
「本当。その通りですね」
 琴音はそう言って、タラの芽の天ぷらに塩を付け、さくりと頬張った。たちまち琴音の顔に笑みが広がる。
「春の味がする。美味しい!」
 朝来は、琴音の笑顔を見ながら、幸せな気持ちになった。誰かが笑うところを見ると、幸せのお裾分けをもらえて、気持ちが明るくなる。
 夕飯の片付けをしながら、居間に目を遣ると、雪夏が白狐の姿になって、薪ストーブの前ですやすやと眠っていた。三本の尾が巻き付いた白いお腹が、ゆっくりとした呼吸と共に上下している。狐の姿をした雪夏は、とても可愛い。
 ランプとろうそくに炎が灯った。雨音が響く。常庭の夜には、いつもゆったりとした時間が流れる。フサヱさんは、ロッキングチェアに座って、趣味の刺繍を始めた。琴音は、じっと薪ストーブの炎を眺めている。朝来が、読みかけの本を手に取ろうとした時だった。雪夏が、耳を立て、目を覚ました。大きな欠伸をすると、雪夏は人間に姿を変えた。 
 雪夏は、居間の隅にある茶色いグランドピアノの蓋を開けると、運指の練習を始めた。鼻歌を歌うように、簡単そうに弾いているように聞こえるが、雪夏のピアノの腕前はかなりのものだ。その澄んだ水のような音色を感じることは、とても心地よい。
 指慣らしが終わると、一瞬の静寂の後で、雪夏が指を構えた。
 ショパンの、「雨だれのプレリュード」が始まる。朝来は、息を飲んだ。ファレラ。冒頭は、雨がしとしとと降り注ぐような、明るい旋律で始まる。玄関の扉を飾るつるばらの花たちが、雨滴をはじいている様子が思い浮かぶ。空を見放し、次々と雨粒たちが地上に降り注ぐ。雪夏の左手が、雨粒のリズムを軽やかに刻む。
 一抹の不安がよぎり、やがて、雲は分厚く、雨は強くなり、豪雨へと変わる。自分の力ではどうにもならない、苦悩、困難が、容赦なく、無慈悲に降り注ぐ。雨の中、裸足で外へ飛び出し、全身で雨を受け、空に向かって叫ぶ。口の中には容赦なく雨がなだれ込み、息すらできない。慟哭が、誰もいない草原に響く。琴音に降り注ぐ困難を表した、圧巻の演奏だ。
 そして、永遠にも思われた雨は、ついに上がる。
 雨の最後の一粒が、ばらの花から滴り落ちる頃、空が再び明るくなっていたことに気付く。
 雪夏が最後の和音を弾き終え、指が浮き、残響が消えた。
 朝来は曲が終わるとすぐに、琴音を見た。琴音は、声を出さずに泣いていた。琴音の涙は、雨だれのように静かで、宝石のように美しかった。雪夏は、言葉ではなく、彼なりのやり方で、琴音に寄り添おうとしている。朝来は、雪夏を心強く思った。
 夜が更けた。朝来は、ぎしぎしと音を立てて階段をのぼり、琴音を屋敷の二階のゲストルームに案内した。ゲストルームは、朝来の部屋の隣にある屋根裏部屋で、天窓から空を眺めながら、眠りにつくことができる。布団は毎日天日干ししているので、太陽の匂いがしてふかふかだし、シーツは、リネン類の洗濯が大好きなフサヱさんのおかげで、いつでも清潔だ。
 窓に、穏やかな慈雨が降り注いでいる。
「雨の音がした方が、よく眠れるかもしれませんね」
 朝来が微笑むと、琴音も笑顔になった。笑顔は、伝染する。
「隣の部屋にいるので、何かあったら、起こしてください」
 琴音にランプを手渡し、朝来は部屋の扉を閉めた。夜中、不安に囚われた琴音が泣いていたら、隣の部屋に行き、背中をさすろうと思っていた。
 しかし、琴音はその夜、ぐっすりと深く眠った。
 雨の音が、穏やかに響いていた。

 朝、雨は止んでいた。
 屋敷の居間の円テーブルで、四人一緒に朝食を食べる。厚切りのベーコンと、半熟の目玉焼きを頬張る琴音の顔は生気に満ちていた。目の下の隈も、無くなっている。
 朝食の後、皆で庭に出た。雨上がりの空気を肺一杯に吸い込むと、濃い生き物の匂いが、体中を巡る血液に沁みていく。春風が、琴音の栗色の髪を揺らした。
「ハープを弾きたい」
 琴音がぽつりと呟いた。
「琴音さん、ぜひ聴きたいわ!」
 青空色のロングワンピースを着たフサヱさんが、胸の前で両手を組んだ。
「私も聴きたいです。ねえ、雪夏?」
 朝来が雪夏に問いかけると、雪夏は微笑んで何度も頷いた。
 琴音は、黒い大きなケースを開け、背丈の半分以上もある大きなハープを取り出し、庭の切り株に座った。ハープを脚と肩にもたせ掛け、弦に指をかける。その姿は、ギリシア神話に出てくる女神そのものだ。
 琴音が音を紡ぐ。「さくら さくら」が始まった。
 和琴で聴き慣れているメロディーをハープで聴くと、とても斬新で美しい。最初は音もなく舞う花びらのように静かに、徐々にアドリブが加わり、最後は風に乱されながら枝を揺らす桜の老木のような壮麗なアルペジオで締めくくられた。
 美しく咲き誇るも、それも常ならず儚く散っていく現世の桜。病を患った琴音自身を表すような、切なくも強い演奏であった。
 残響の後の沈黙を破ったのは、やはりフサヱさんだった。
「耳を澄ませてみて。小鳥たちも、草も、木も、花たちも、皆が春を歌っているわね。私の考えを言うと、彼らが歌っているのは、誰のためでもないの。それが、なんとも潔くて、美しいのよね」
 皆が、辺りを見渡した。野原を風が吹き渡り、小鳥たちが歌う。世界は、こんなにも美しい、沢山の音で満たされているのだ。
「追いかけなくても、音は、ずっとここにあるのよ」
 フサヱさんは、自分の心臓の辺りを、とん、と叩いた。
 琴音の美しい褐色の瞳が、はっと開き、フサヱさんをとらえた。その後、琴音は静かに目を閉じた。琴音は深く内向し、考えを巡らせているようだった。
 桜の花びらがひとひら、琴音の髪に落ちると、琴音はゆっくりと目を開けた。
「私は、母であり、妻であり、女であり、病人である前に、『自分』なんですよね」
 琴音の表情が、凪いだ。
「私、原点に返りたかったんです。かけがえのない今を、ハープの音に変えて、音を紡ぎ続けたいんです」 
 琴音は、ハープを置いて立ち上がると、朝の太陽を仰いだ。
「私、音楽を奏でたい」
 琴音は、真っすぐに背筋を伸ばし、眩しく笑った。
 フサヱさんは、嬉しそうに何度も頷いた。
「私、自分が生きていることを、音で表現し続けたい。近い未来、ハープが弾けなくなっても、音はどこへも行かないんですね。私の中にあり続けるものだから」
 琴音が言い終えると、風が吹き、森が鳴った。

 森が、開かれた。

「帰ります」
 琴音がそう言うと、フサヱさんは優しく琴音を抱きしめた。フサヱさんのライトグレーの髪が、ふわりと風を含んだ。
「琴音さん。元気でね」
 声をかけるフサヱさんの傍らで、朝来は涙を堪えた。自分が泣いてどうする。フサヱさんに続いて、朝来も琴音を抱きしめた。
「朝来さん、ありがとう」
 女神のように美しく微笑んだ琴音の横に、白狐の姿に変わった雪夏が座った。
 琴音を振り返りながら、雪夏は三本の尾を揺らし、森へ向かう。
「琴音さん、お気をつけて! 素晴らしい人生を!」
 フサヱさんが、大きな声を出した。
 琴音は、深くお辞儀をし、森へと歩き出した。雪夏と琴音は、木の門をくぐり、森の中へと消えた。
「琴音さんはきっと、自分の中にある音を見失わずに、紡ぎ続けるでしょうね」
 フサヱさんの灰色の瞳が、優しく光った。現世に戻れば、常庭で起きたことは、全て夢の中の出来事となってしまう。
「いい夢になると嬉しいですね」
 朝来が呟くと、フサヱさんが、朝来の肩に手を乗せた。

 夜になって、雪夏が人の姿で常庭に帰って来た。
「雪夏。琴音さんは、無事現世に戻れたのかしら?」
 フサヱさんが問うと、雪夏は微笑んで頷き、両手を前に差し出した。
 雪夏の右手にフサヱさんが、左手に朝来が、それぞれ触れた。
 朝来の頭の中に、雪夏の記憶が流れこんでくる。雪夏が見届けてきた、琴音の姿が。
 現世に戻った琴音は、一年後、夫と娘と共にアメリカに渡り、高度な治療を受ける選択をした。琴音は自分の音を録音し続けた。娘が小学生になった頃、琴音の運動神経がほぼ全て働かなくなった。琴音は、生きて音を紡ぐため、気管切開手術を受けた。眼球運動や、脳波を使ってソフトを操り、音楽を創り続けた。
「その時」が来る数日前、琴音が最後に演奏した曲は、ショパンの、雨だれのプレリュードだった。
 雪夏の手が、朝来の手を離れた。
「琴音さんらしい、素晴らしい人生ね」
 穏やかに目を伏せるフサヱさんの傍らで、朝来は大粒の涙をこぼし、ぼろぼろと泣いていた。
「私たちのこと、覚えていてくれたんですね。たとえ夢になってしまっても、嬉しいです」
 フサヱさんは、「そうね」と囁き、泣きじゃくる朝来の背をさすった。
 現世では、咲いた花は必ず散る。
 けれど、冬が過ぎれば、春は必ずまたやってくる。
 再び、こぼれんばかりの花を咲かせるために。

 あのハープの音色を、朝来は忘れない。

<第三話に続く>

第三話:命を捨てないで

第一話:サンクチュアリは嵐の先に


この記事が参加している募集

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?