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水底にて

先日、フィナーレを迎えた、春ピリカグランプリ2023。
想像力を搔き立ててくださったピリカグランプリに、今一度、深く感謝申し上げます。

ここに、応募には至らなかった、もう一つの物語を公開します。
応募に至らなかった理由は、テーマの「指」が、作品の中でそれほど大きなウエイトを占めていないこと、それから、悲劇であることです。希望のある作品を応募したかったので、こちらの作品は蔵入りとなりました。

この度、蔵から出してみようかな、と思います。
もしよろしければ、お付き合いいただけますと幸いです。

***
題:水底みなそこにて

「壇ノ浦の水底には、龍神様がおるそうな」

 女は、口を歪めて笑った。

「お前のおかあの指が足りないのは、悪いことして龍神様がお怒りになったせいじゃ。龍神様に、指を返してもらいにお行き」

 無垢な瞳で頷くと、幼子は海へ向かった。

「子供が海に落ちたぞ!」

 ハツネは息を切らし、走った。顔は引きつり、長い黒髪が、涙と汗で白い肌にへばりつく。全速力のまま、崖から海に飛び込んだ。水中で指を折り曲げ組み合わせ、印を結ぶと、両足が鱗に包まれていく。指は、水底に消えた。人魚の姿に戻ったハツネは、どんなうおよりも速く水をくぐり抜けた。

 潮が速い。飛び交う海猫の知らせで、沖へ流されていく我が子を見つけた。必死で泳ぎ、抱きしめ、浅瀬の岩へ運ぶ。

「時王!」

 口を吸い、水を吐き出させる。全部吐いたはずだ。まだ目覚めない。

「しぶとい童じゃ。まだ生きてたのか」

 艶やかな髪を男のように結い上げ、漁師の身なりをしたチセが、いつからかハツネと時王を見下ろしていた。

「あんた、人魚だったのかい。縁起でもない」

 チセは、凛々しく整った顔を醜く歪めた。

「お前の指は、水底の龍神様んとこにあるって、あたしがその童に教えてやったのさ」

 もう印を結ぶ指もない。人間の姿には戻れない。指がなくなった手のひらで、時王の頬を撫でると、ハツネは心を決めた。

「あの日、あなたの舟からこの子を攫ったのは、私です」

 凍り付いたように開いた、チセの瞳孔を射抜くように、ハツネは続けた。

「この子を攫った後、龍神様に指を捧げて、私は人間の姿になりました。それから束の間、忠正様と三人で家族になりました。とても、幸せでした」

 ハツネは、歌うように言うと、懐かしそうに目を細めた。 

 まさかこの子が、海で死んだはずの我が子だったとは。夫があるチセと、忠正との間に生まれた、許されざる我が子だとは。

 忠正は、源平の争いに巻き込まれ、壇ノ浦の合戦で死んだ。

 チセは壊れた。ハツネへのどす黒い怒りが沸き上がる。忠正に伝えたい。愛していると。もう一度、私を選んでと。

「ごめんなさい。どうしても、家族が欲しかった」

 ハツネの琥珀色の瞳から、真珠の涙が溢れる。

「あたしも、あんたのように、人魚にしておくれ。忠正様は、海の底にいるんだろ?」

 泣いて縋るチセに、ハツネは印の結び方を教えた。印を結んだチセは、その場に倒れた。




「かか」

 幼子の呼び声で、チセは目を覚ました。
 悪い夢を見ていたらしい。

「時王、帰ろ。今日はごちそう!」

 我が子の手に、自分の指を握らせようとして、気づいた。



 指が、ない?



 ふと、海を振り返る。
 銀色の大きな魚のようなものが、きらりと水面に跳ねた気がした。


 これでいい。
 ハツネは、海の底へ、深く深く潜っていく。
 指と引き換えに、泡沫の幸せをくれた、龍神様のもとへ。


 お願いするのだ。
 この命を捧げ、愛する忠正のところへ行きたいと。

<終>
1194字

ハリー・ベイリーさんがとってもキュートな、リトル・マーメイド実写版の公開に、さりげなく合わせて……!





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