見出し画像

ミスタッチ【#シロクマ文芸部】

 こんばんは、樹立夏です。
 今週は、滑り込みセーフで間に合いました。
 小牧幸助さまの下記企画に参加させていただきます。

それでは、本編をどうぞ。

 初夏を聴くまでは、頑張るから。その時には、もう、暗闇の中にいると思う。けれど、聴くことはきっとできるから。春、夏音かのんはそう囁いて、微笑むと、深い眠りに落ちていった。夏音と話ができたのは、その日が最後となった。

 僕は、夏音の手を握り、夏音に語りかけ続けた。

 ねえ、夏音。覚えてる? 去年の初夏、コンサートを聴きに行った後、僕たち、大喧嘩したんだよね。僕が、君の大好きなピアニストのことを、ミスタッチが多かった、なんて言ったから。夏音はそのピアニストのことが本当に大好きで、最初の曲から泣いていたんだ。あの時は、僕が悪かった。本当にごめん。

 今思えば、あの時、君はもう、体調の異変に気付いていたんだね。僕には不安な顔なんて絶対に見せなかった。ねえ、夏音。無理してた? 辛かった? 僕、何で気づけなかったんだろう。君が僕に気付かれないように、病院に行っていたこと。そこで受けた宣告。一人で、全部を抱えて、苦しかったよね。ごめんね。

 僕に近づいてきた女性がいたでしょう。一つ年下の、僕の職場の後輩。上司からパワハラを受けているという相談にかこつけて、僕を食事に誘って、君と僕とを引き裂こうとした、彼女。でも夏音。君は、いいんじゃない? って言ったよね。いいじゃない、その人と付き合えば。私は、もう、あなたのことが好きじゃないから、って。君が嘘をついていたことを、僕が見抜けないなんて思った? 夏音。僕と君の関係は、そんなにフラジャイルじゃないよ。僕を誘惑した彼女には、早々にお断りをしたんだ。それを君に伝えたとき、君が涙を堪えていたことくらい、すぐに解ったよ。

「夏原さん」
 気づかないうちに、横には先生がいた。僕の苗字は、夏原。僕たちが結婚したら、長谷川夏音は夏原夏音になる。夏っていう字が二つも入る。いいわ。夏は大好きだもの。って、ずっと前、君は微笑んだよね。
「今夜が山場です。ご家族をお呼びください」
 夏音の脳は、病魔に蝕まれ、次々と機能を失っていった。記憶を司る部位、視覚を司る部位。そして、ついには、呼吸など基本的な身体維持機能を司る部位。

 僕は、まだ君の家族じゃない。夏音。あの日、僕が結婚しようって言った時、君は僕の申し出を断った。きらきら輝くダイヤモンドがついた、とっておきの婚約指輪を用意したのに。私のことは、早く忘れてって、君は断ったよね。どうして? どうして? 

 心電図のモニター音が、夏音の声だ。僕が手を握ると、少しだけ、脈が速くなる。夏音は、僕がここにいることをわかっている。ああ、このまま、二人で居させてくれないかな。誰も来ないといいな。なんて、僕の独りよがりだね。ごめんね。

「夏原さん」
「先生」
 気づかないうちに、僕はぼろぼろと泣いていた。
「夏音さん、頑張ってますよ」
 先生が僕の肩にそっと手を置く。
「僕が、代わってあげられたら」
「夏音さんは、そんなこと思ってらっしゃらないはずです」
「どうして、夏音なんでしょうか……」
 先生は、何も言わない。
「先生」
「何でしょう」
「夏音は、初夏を聴くまでは頑張るって、言っていたんです。窓を開けていいですか? 初夏を、聴かせてやりたいんです」
「大丈夫ですよ。開けましょう」
 病室の窓を開ける。ざあっと、初夏の夜風が吹き込み、カーテンを揺らす。夏音の額にかかる髪が、かすかに揺れた。心電図のモニター音の間隔が、少しだけ狭くなる。
「夏音、夏が来たよ」
 夏音は、目を閉じたまま、かすかに微笑んだように見えた。

 夏音は言った。本当は、私の死を乗り越えて欲しくは無いということ。私をいつまでも覚えていて欲しいということ。そんな自分を、とても憎んでいるということ。僕は、何も言わず、泣きじゃくる夏音を抱きしめた。夏音に替わる人なんか、現れるはずはないじゃないか。僕たちは、僕たち以外にはなれないのだから。僕の音も、いつかは消えるのだ。夏音、少しだけ、待っていてくれないか。

「私は、医者をしていますので、幾度も、命の瀬戸際に立ち会ってきました」
 先生が、穏やかな声で、呟いた。
「何度立ち会っても、決して慣れるということはありません」
 先生の目が、少しだけ震えた気がした。
「今、できることをやりましょう。夏音さんは、初夏を聴き、夏原さんの存在を感じていたいはずです」

 僕は、夏音の手を握りしめ、語りかけ続けた。やがて夏音の家族が到着し、僕たち二人の静謐は終わった。夏音の家族たちが、順番にお別れを伝え、朝を迎えた。

 夏音が旅立つ瞬間、あのピアノの音が聴こえた。

「ミスタッチ」

 夏音。僕は、君を乗り越えたくなんかない。

<終>


#シロクマ文芸部











この記事が参加している募集

スキしてみて

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?