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弱者たる君へ|小説/作:ポポネ

 どうにも、冬という季節は心身ともに冷え込むものだ。ふと通り抜ける北風に、体を震わせ、手をこすり合わせる。いかに努力をしようとも、私一人しかいないのであれば、意味もない。溜息か、それとも寒さを誤魔化すためのものか。吐き出した息は仄かに白く色付いて、彼方へと伸びていった。手元を健気に温める缶コーヒーが、私を勇気づけている。
 あの日も、こんな日だった。身震いする寒さに恰好つけて、笑顔で君を見送った日。私の弱さが、ただ誰かを傷つけるのだと、そう悟った。
 私には、誰もいない。

『本当は、君と過ごしたかった』

定例会、第十三回
「友情というものは、いつまで続くと思う?」
 哲学的な問いは、当時の同胞に語り掛けたものだった。閑静な住宅地の一角。古風なマスターという名の、ただ定年退職した老爺が茶を出すだけのここは、喫茶店とは比べ物にならない程みすぼらしいものだった。私たちがここに居座っているのは、ただ恰好だけだった。そうあれば、古風な文人らしく、格式高くあれる。そんな、幻想にも似た期待を抱いて、酸っぱい珈琲と共に語らっているのだ。
 つまりは、恰好つけ。現実の私たちは、世を牛耳る明朗な人間に迫害されるだけの弱者であった。
「難しい事を聞くものだねぇ、君は。
 また、くだらない事に夢中になったの」
 友の返答は、ひたすらに優しかった。母にも似た穏やかな視線は、私を温かく迎え入れた。友は私と同年代であり、加えて私よりもわずかに幼かった。思い返せば、まるで私の方が子供の姿で映る。
「そうだね……。回答するのなら、我々が我々であるうちはかな」
「難しい回答だ。我々の定義とは何か? その定義が継続していくとは何か?
 君らしく、あるいは君らしくない哲学的な回答だ」
 芝居がかった口調は、当時の私の常であった。私の弱さは、劇中の誰かが奪ってくれる。そんな紛い物の勇気が、私を支える唯一だったのだ。それが、根本の解決とならなくとも、私はその日を生きていくのに必死だった。
「君は難しく考え過ぎだけれどね」
 やはり、呆れた素振りは一切見せず、ただ慈愛を込めたものであった。友を例えるならホットミルクだろうか。夜半に子供をあやすような、そんな男であった。友の声を聴くと、安堵が湧き上がるほどであった。
 
「さあ、珈琲が無くなってしまった。本日はここまでだ」
 過ぎ去った物語を閉じるように、パタンと二人だけの会合は終わる。恒例の行事は、私が作り上げたものだった。粋だと思っていたのだ。今に思えば、臭い芝居でしかない。

『君を嫌悪する僕を、どうか許してくれ』

定例会、第十七回
「ここにしか居場所がないんだ」
 友がポツリと呟いた言葉は、舞った埃と共に地面に落ちた。あの穏やかな友の瞳が、まるで獣のように何かを捉えている。私が、過去に一度のみ見た友の姿だった。恨むわけでもなく、野心に燃えるわけでもない。人間が持ち得る深淵の感情を混ぜ合わせて、煮込んだような。そんな、言語化もできない感情ですらないかもしれない、何かを彼は持ち合わせていた。
「それはさぞ寂しかろう。孤独は人を強くはするが、幸福にはしてくれない」
「同情は無用だよ」
「同情じゃない。共感さ」
 強く否定した言葉は、事実だった。今でもそう思っている。私は決して彼に同情したのではない。私も友も、あの時、あの瞬間にはあの場所にしか居場所がなかったのだ。私は、あの時程、彼に共感したことはなかっただろう。
「おや、今日はここまでみたいだ」
 私が最後の一滴を飲み下す。否定も疑問も、ここでは珈琲次第。高貴な一滴が、我々の命運を定めていたのだ。

『僕は、もうあの喫茶店で穏当に過ごせる男ではないんだ』

定例会、第二十五回
「私はね、君を救いたいんだ」
 友を取り巻く悲惨な環境を、私は看過できそうもなかった。増えていく傷跡を、濃くなっていく隈を見過ごすには、私は若すぎた。英雄になりたかったのだ。正義でありたかったのだ。独善的。エゴイズムにまみれた、正義の顔をした私欲がそこには佇んでいた。
「君は、やさしいね」
 思えば、皮肉であったのかもしれない。私が優しかったことは、事前に一度もなかったろう。この偽善的な精神が、友を失望させたのだろう。私を守る虚飾は、いつでも友を傷つけていた。しかし、陰で吐かれた溜息と悪口を知るすべは、あの日々を過ごす私には知りようもなかったのだ。
「それほどでもないよ。
 私に任せておいてくれ。君をきっと救ってみせる」
 体を大きく振りかぶり熱弁する私。それはまるで、観客のいない小劇場に立つ役者だ。乾いた拍手を送るのは、老いぼれた男一人だ。そこに、友の姿はない。しかし、舞台の眩さに目がくらんだ演者は、そんな客席の様子すら見えもしないのだ。
つまりは、私は友のことなど見ていなかったという事に他ならない。
「さあ、飲んでしまおう」
 私が彼にカップの中身を勧める。友は、少し口の端を歪めてそれを飲み切った。

『君が悪いわけでも、さりとて僕が悪いわけでもない』

定例会、第三十回
「聞いてくれ!」
 嬉々とした私の声が、乾いた喫茶店に響いた。最後通牒。有罪判決は、今下される。
 私はこの日、事の仔細を友に全てぶちまけた。それはさも、全て私が魔法で行ったように大言壮語を塗してだ。
 結果として、私の為した努力というのは、ただ人任せの神頼みであった。友が反対しようと、私は私の正義たり得る行為を遂行したのだ。それは無慈悲に。非情に。彼の意思を無視した、彼への救済が執行された。
それは、救済と呼ぶには、友を無視していた。
「君は、救われたんだ」
 その言葉の、いかに滑稽なことか。友の望まぬままに進めた正義の大行進は、彼の生活を一変させたことだろう。皆が真っ当で良かった。善行を好む一般人は、友の惨状を嘆いた。同情心とはこの世で一番軽薄で強い感情だ。幾多の同情が、彼の生活を殺していった。
「ああ……」
 友は不服そうであった。当然だろう。
「嬉しそうではないね?」
「……疲れているだけだよ」
 僅かに視線をそらした彼を、私は見逃した。なにせ珈琲の湯気に巻かれた友の表情は、酷く分かりにくいのだ。彼は、誤魔化すのが上手い。暑さも寒さも、友の表情を前にして屈する。北風も太陽も、友のコートを脱がすに至らないだろう。
「君は──君は、前に友達の話をしたよね」
「そうだ。それがどうかしたのかい」
 友は、無理に話題を変える人間ではなかった。だからこそ、私はあの時内心で飛び上がったのを刻銘に覚えている。
「僕は、やはり今も同じ回答をするよ」
 静かに瞼を閉じた友は、同じような速度でそう言った。それは、私に向けたものか、自身に言い聞かせたものかすら判別つかなかった。まるで、私と喫茶店にいる事を忘れているかにも見えた。
 しかし、私が疑問を聞く時間はない。
「珈琲がなくなっちゃったね。お開きだ」
 友は、最後の一滴を一瞬にして飲み干した。

『ただ、価値観の相違に他ならない』

定例会、第■■回
「……寂しいものだ」
 友は、この地を去ることになった。彼は数多の同情を得て、この場を留まるには重すぎる男になってしまった。そもそも、背後の力も持たないちんけな学生に、決断できた事などいくらあったろうか。彼の決定権が程なく無力にも粉砕されていくのを、私は優に想像できた。
「また会おう。友よ」
「ああ、機会があれば、いいね」
 肯定した友の声は、酷くしぼんで聞こえた。列車の車輪が軋んだ不快音を立てて、友の声をかき消していく。薄っすらと皺の寄った目尻と、僅かに目立つ色の抜けた髪。こけた彼は、あの喫茶店よりもくすんでいる。
「では、ここで」
 辞した友は、こちらを見ずに車内へ乗り込んでいく。草臥れた革靴が金属を蹴って、寂しい音を奏でた。さぞ暖房のよく効いているのだろう。外へ溢れ出る暖気は、私の指先に触れる前に寒天に溶けていく。私には、触れる権利すらなかった。
 扉が閉まる。緩慢に隔絶されていく友と私。さっきまでくっきりと見えていた友が、フィルターを掛けたように歪んでいく。ついには、曇った窓に全身が覆われてしまった。
 彼の窪んだ眼窩が、こちらをただじっと見つめる。刹那、こちらを睨むように刺し込む眼光が、私の心臓を突き抜けた。電車が駆け抜ける間、北風がすうと頬を慰めるように撫ぜた。
「ああ、私は君の希望を奪ったのかい」
 悟った。否、悟ってしまったのだ。私の為した愚行が、友の価値を貶めた。
 仄かに苦みが口に広がる。パサつく口腔と、相対して湿る手が、絶望の味をしていた。寒くて仕方がない。震えが、全身を伝って波及していく。寒い。寒い。温もりが、欲しい。それは、先に電車に揺られて消えてしまった。
 一寸先の温もりを夢見て、私は突き刺す寒さに翻った。珈琲の温もりがただただ恋しかった。

『けれど、やはり僕は君を娘に合わせたいとは思えないんだよ』

 追憶。そして、現実。子供が歓喜の声を上げて、真冬を横切っていく。あれは、私にはない姿だった。懐かしもうとも、過去にすらそれがないのだから、呆れるばかりである。
 缶コーヒーを飲み干す。用済みのそれを、私は遠くへ投げ捨てた。軽い金属音が、放り投げた先で鳴り響く。
「君と私は、もう友達にはなれないね。君は弱者ではない。……私とは違いね。
 あの日、君の言ったことを痛感するよ。私たちが弱者でなければ、君は私と話したりしないだろうね」
 思えば、私に残されていた希望もまた、あの日潰えたのだろう。私は、弱者から抜け出せぬままに生きている。友は、あの電車の先で、弱者から抜け出し、輝かしい未来を歩んでいるのだろうか。それは、実に羨ましい事だった。
「弱者から抜け出した友だった者よ。君の世界で幸せに生きてくれ」
 老爺の淹れた珈琲など、彼にはいらないだろうから。

『弱者たる君よ。どうか君の世界で、そのままで』


作:ポポネ

この作品は、総合表現サークル“P.Name”会誌「P.ink」学祭号に収録されています。

今年1月3日から1月7日の間、学祭号書き下ろし作品を順次投稿しています。

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