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幸せへの道〜ヨーガ心理学で知るわたし〜④私とは何?身体はあなた?


では、私とはなんでしょうか?
あなたは「身体」なのでしょうか?

もちろんそうです。この身体が私です。
と思っている方は多いでしょう。

しかし、身体というのは太ったり痩せたり
年齢と共に形が変わっていき、不変のものではありません。

外見が変わり、年齢を重ねても、自分の中にどこか
いや〜そんなに年をとったのかぁ〜、なんて
年を重ねても変わっていない自分を感じませんか?

もう少し考えてみましょう。
もし、あなたが身体だとしたら、
身体の一部を失った時、それをあなたと感じるでしょうか?

髪の毛は今あなたのものですが、
その髪の毛をチョキンとはさみで切ってしまえば、
それは私ではない、ゴミになりますね。

では腕は足はどうでしょう?
病気などで内臓を摘出することもあるでしょう。
でも切り離された私の肉体の一部は
私の身体の一部だっただけで、私ではないわけです・

そのように考えていくと、
ん?身体は私ではないのかもしれない。と思い至ります。

私の身体を動かしているものって何なんだろう?

脳が機能しなくなったら、心臓が機能しなくなったら
私はなくなるのだろうか?

何にもなくなっちゃうのだろうか。
いや、なんらかの形のない存在は残るのではないだろうか。
そんな風に感じませんか?


身体が私でないのは分かった。
そこで私は思いました。
じゃあ、私とは「心」だと。

しかし、心もまた不変のものではありません。
毎日天気のようにコロコロ変わる心。
年齢によっても環境によっても変化します。

様々な価値観や記憶の集合体が私?

ヨーガでは心も私ではない、と伝えています。
私とは純粋意識なのです。
ヨーガではそれを真我(プルシャ)と呼んでいます。
ヨーガ心理学では純粋意識とお伝えしています。

ええ?どういうこと?
最初聴いたとき、大きな価値観の転換が起こりました。

心が私じゃなくて
この身体が私じゃなくて
私の本質は光輝く純粋意識なんて!

いきなりはこの世界観は受け入れられないかもしれません。
ですが、私は感覚で「そうかもしれないな」と感じました。

Ritaという人生物語を一生懸命生きている「私」
その「私」を観ている存在が「純粋意識」なのです。

その純粋意識こそが「本当の私」
映画のスクリーンの中で主演しているRita。
その役にズブズブに入り込んでいる状態の私。
何で私はこんなに不幸なの?と悲劇のヒロインを演じている私。

でも本当の私はその映画館の椅子に座り、その映画をじっと観ている存在なのです。

例えば、映画館で恐怖映画を観ているとき、私たちは「きゃー怖い!」と感情が揺さぶられながら「観たくない!」と眼をふさぎながらも、「でも、これは映画だよね」と、どこか客観的にその物語を観ています。映画と分かっているから、怖いと思いながらも冷静でいられたりします。

ですが、主人公を自分と錯覚して同一視して、これは映画なんだと気がつかなければ、たちまち恐怖で押しつぶされてしまうでしょう。
「心や体が私だと」錯覚している状態はまさに、その状態なわけです。

これでは先日記事に書いたように「自分を客観視」など出来るわけがありませんね。さまざまな価値観で歪みまくった心で自分を客観視など出来ないのです。

私の本質はまったく別の存在。
そうかもしれないな、と救われたように思ったと同時に、私の心は本当に落ち込みました。

だとしたら今まで頑張ってきた自分がなんだったのだろう?
いい子を演じて、認められたくて必死にがんばってきた私。私は完全に映画の主人公を自分と錯覚して生きてきたのですから。

自分が駄目な存在で、こんな自分では生きている価値がないと自分を責め続けてきたことも、完全に「私」という認識を間違えていたのです。心が私だと思っているから、当然弱い自分を、駄目だと思い込み、人と比べては深い劣等感を抱いていたのでした。

私の本質は、本当は光輝く純粋意識などとは思いもしていなかったのです。
私は外見も心も汚くて醜くて、どうしようもない存在だと勘違いして生きて来たのでした。

さて、あなたはどうでしょうか?
どう感じましたか?
ここがヨーガ心理学の肝になります。
世界観の大転換ですが、それこそが真の救い、希望になるのです。分からなくても何度も繰り返し学ぶことで、染みこんでいくでしょう。

私とは何か?
一度立ち止まって考えてみませんか?



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