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「柄谷行人『力と交換様式』を読む」

本物の『力と交換様式』は積読になっており、先にこちらを…。

やっぱり柄谷行人はすごい、という一言に尽きました。

大澤真幸先生が「柄谷行人はすべてを語った」として、『力と交換様式』をコンパクトに要約してくれていますが、それでもなお本物のほうも読まなきゃあかんと思わされた。

柄谷氏は『世界史の構造』(2010年)で、マルクスの生産様式から着想を得て「交換」を体系化し、近代世界システムとして次のように書いています。
A:贈与と返礼
B:服従と保護
C:貨幣による交換
D:X

これが『力と交換様式』では次のように書かれています。
A:互酬(贈与と返礼)
B:服従と保護(略取と再分配)
C:商品交換(貨幣と商品)
D:Aの高次元での回復

何が異なるかというと、「力」という問題を取り上げているかいないか。そして、Dとは何かに踏み込んでいること。

『共産党宣言』の書き出しが「ヨーロッパに幽霊が出る――共産主義という幽霊である」というのは有名な話ですが、この幽霊的なるもの、目にみえない力が社会を覆っていることをマルクスとエンゲルスは世に知らしめました。

さらに柄谷氏によると、マルクスは『資本論』にて貨幣や資本の問題に対して、生産ではなく、「交換」から考えを始めており、貨幣や資本に「物神(フェティッシュ)」という観念的な力が備わっているとした。

しかし、マルクス主義の代表格であるルカーチなどは、さしてそこに注目しておらず、「物象化」程度ととらえていることを柄谷氏は指摘しています。

また、柄谷氏は、モーゼス・ヘスの「交通」(交易、交換、性交、戦争)の考え方が、人間と人間だけでなく、人間と自然の関係にもあてはまるとして、ここに史的唯物論が見逃した、観念的な力の重要性を説いています。

そして、Dとは何かというと、交換様式の一つではなく、A・B・Cといった「交換」を否定し止揚するような衝迫(ドライブ)としてあるものであり、観念的・宗教的な力としてあらわれるといいます(補足すると、交換である以上、A・B・Cも観念的・宗教的な力はもっている)。

人間の願望や意志によってつくられた想像物ではなく、逆に人間を強いる力をもつ。

このDは人間がどんなに努力して意図してもやってこない。
その意味で神的でもあります。

ただ柄谷氏は、カントが『永遠平和のために』で、社会の歴史を「自然の隠微な計画」と言い、人間でも神でもない、物理的な何かの働きを見出したことを引用して、交換様式Dは「自然」だと述べています。

さらに、カール・ウィットフォーゲルによる「中心、周辺、亜周辺」の考え方を取り出して、亜周辺や未開性にある交換様式Aが 、Aの高次元での回復であるDを考えるうえで重要だといいます。例えば、フン族の侵入がゲルマンを大移動させ、結果的にゲルマン(亜周辺)のもつA(未開性)がローマという中心を壊し、ドイツやイギリスなど次の世界をつくっていったように。

また「定住」は、交換様式Aの「無機質」な状態、すなわち最も原初的な意味での自由と平等がある状態を抑圧し、社会を複雑化して「有機的」にします。そして、原初的な自由や平等は失われていく。けれど、柄谷氏はここで、人間には「無機質に戻ろうとする」本源的な欲動、フロイトのいうところの「死の欲動」があり、社会に孕まれた複雑性を解消しようと、人々に他者への譲渡=贈与(A)を迫る「反復強迫」が生じるのではないかと言います。面白いですね。

以上から、いつか到来するDは、今の私たちにはわからない。
謎めいていて、痒いところに手が届かない感じがしました。

しかし、大澤氏がこう語っているところで、少しだけわかったような気もします。

「観念的な『力』という概念は、ニュートンの物理学の『万有引力』のようなものだ。…遠隔的作用である万有引力は不可解なところがあるが、まずはそれがあることを認めることが、科学的である。ところで、万有引力に関しては、20世紀になってから、アインシュタインの一般相対性理論によって、『遠隔的作用』という問題は解消された。引力は時空連続体の歪みであって、決してオカルト的な遠隔的作用ではない、と。」

柄谷氏の述べたことが、いつか私たちの目に見えるかたちであらわれてくるのかもしれない。

そう思うと、日々を粛々と生きていくのも悪くないのかもしれないですね。

エルンスト・ブロッホが、決して希望なんかあり得ない状況でも「希望」と言ったように。

#本当は「文学という妖怪」という評論がいちばん面白かったのだけれど、それはまた今
#まずは本旨から
#左翼ではないです

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