サルトルの『嘔吐』を引用し、「特権的状態」を味わうための意思が必要だと女が力説するところから、本文は始まる。
「特権的状態」とは、死の淵にいる人物の臨終のことばが周囲のひとびとによって意味ありげにひびく土壌が用意されているような、あるいは恋人に初めて接吻をされるときにもっともロマンティックな陶酔を味わえるように万難を排すような、「完璧な瞬間」を実現するのにつごうのいい条件を具備した恵まれた状況のことを指すようだ。
長々と女が不満を述べるのは理由がある。
そう、それは私たちにとって、たいてい難しいことだからだ。
ああ、そんなに言い当てないでほしい。
私たちはただひたすら真っ直ぐに生きたい。
さあ、私たちは福田恒存という人の繰り出す言葉に酔わずにはいられるだろうか。
魅かれずにいられるだろうか。
福田はいう。
「だれでもが、なにかの役割を演じたがっている」と。
そしてここからが、シェイクスピアに通じた福田が展開する、「人生」に対する「演劇論」なのである。
例えば「青春時代」という舞台に求められる若者の「個性」をわれわれは演じており、舞台をつくるために多少とも自己を偽ってるだけ…そういわれると、そのように感ぜられてくる。
そして福田は、近代に発明された主体性によって何でもできる自由、実はこれを皆望んでなどいないという。全体のうちの部分であること、必然性のうちに生きている実感を味わうことが人々の求めるものであり、それこそが生きがいだという。
これらの記述から、福田が保守主義者たるゆえんをみてとれるだろう。
われわれ人生の「役者」には、「与えられた条件のなかにある自分の肉体と、それを客体として味わうことによって、その条件のそとに出ようとする意識と、その条件のそとに出ようとする意識」といった二重性が大事である。
この自分の役割を選びとり、意思をもって演じ切ろうとすることを、福田は「演戯」といった。
とかく、直線的にのびる現代の時間感覚と、そのうちに提示される停滞なき成長神話にさらされていると、自我だけが肥大してしまい、自己に陶酔し、個の抹殺などできなくなってしまう。しかし、福田はこれを批判する。
「自我のうちに自分と他人という二つの要素」、すなわち「他人を見る自分と、他人に見られる自分」しか見ていないため、自意識が平面的であり、飛躍なく、単調で、演戯の必然性も全体性ももちえない。
「演戯」とは、「絶対的なものに迫って、自我の枠を見いだすこと」であり、「自我に行きつくための運動の振幅」が「演戯」を形成する。「画家が素描において、一本の正確な線を求めるために、何本も不正確な線を引」くように、なんとかして絶対的なものを見いだそうとする。
さて、われわれはこの「演戯」をしているのだろうか。
あるいは、そこから逃げているのだろうか。