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ミュージカル・ゴシック 『ポーの一族』 2021.1.11


 ミュージカル・ゴシック『ポーの一族』再演。おめでとうございます。どうにか幕が上がったことへの言祝ぎと、この物語の世界を再び届けてくださったことへの代え難い感謝をこめて、「舞台」ポーの一族という作品についての感想を記します。
 初日の感想に宝塚初演時を重ね合わせて取り留めもなく書きました。私が私に証明するために書いていますので、舞台の解釈が偏っているかもしれません。お読みいただく場合はその点大目に見ていただけますようお願いします。

はじめに

 宝塚の演目に初めて触れたのがDVDの『ポーの一族』(2018年花組)。人生この出会いに巻き込まれたような者です。それがなければ宝塚にも、花組にも、明日海りおさんにこんなに心寄せることもなく、けれど他でもない明日海りおさんが演じる”エドガー”、あの花組でなくては「ポーの一族」も無かったと、そう思えてしまう魔力があったと思います。そのため息をするように宝塚版と比較しながら見ています。両方ご覧になられた方推奨です。長いです。7,000字くらいある。

 エドガーだけをとにかく追いかけて以下感想。


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赤い薔薇が青く染まってゆくのは、エドガーの青い瞳が孤独の象徴だからだろうか、凍てついた瞳の色を思う。
開演と同時に映されていた赤い薔薇(イバラ)が青に変わり朽ちてゆく。
台本は所々初演(宝塚版)と異なるけれど、殆ど同じ。できる限り順を追って。


最初のシーンがフランクフルト空港なのも同じなのだが、マルグリットとルイス・バードの視点からスタートしていて、初演で最初に登場する人物(ドン・マーシャルとバイク・ブラウン)とは逆、という視点の転回にまずはっとした。
別の視点の鎹になることで、エドガーがより実存する。「再演」であることにはっきりと演劇的な意義が降ろされていることにまず拍手したい。

真ん中に現れたエドガーの神々しいとしか言いようのない姿。わっと拍手に包まれたのですが、外部も拍手起きるんですね!?舞台ビギナーの感想。この場に集まった方がどれだけ待ち焦がれていたのかと思うと肯ける。ちなみに生演奏だったことが衝撃で(宝塚がご時世もあってオケ休止だったので)、純粋に最高にありがとうございますと切に申し上げます!!ポーのナンバーが客席にいる時に聞こえてきて耳を疑いました。心がざわめいてはパンフレットの新規絵をみて目も疑いました。
本当に本当に再び明日海さんのエドガーが姿を表した時の、なんて表現したらいいのか…感動が…一生忘れないでいたいです。舞台の光と観客の視線を一身に受けて輝く明日海さん、注がれる視線の一対が私だった。私に眼球があってよかったと思いました。鼓膜もあってよかった。
 あとセットも豪華でした!宝塚大劇場が奥行きなら梅芸は高さで空間を埋めてきました。セリ上がりの代わりに、幕が開いた時に視界に入る舞台空間の中央に、待ち受けていました。”ポーの一族”のフレーズの振りも変わっていて、左右対称になった印象。「♪極上の美、」と歌い出すと、何にも似ていないあのエドガーの歌声が、する!!しました。いま、現実に、目の前に明日海りおの演じるエドガーが、いる。


 それでいて、あの時と全く違う孤独を抱えている!
 彼が初めて言葉を口にしたその瞬間から虜になったような思い出が、目の前にあるなんてことが、全然信じられなくて。私の記憶と寸分違わない”エドガー”でありながら、ただ全くの別世界を見ている。大袈裟に表現をするなら、鏡の向こうの宇宙を見ているような心地がしました。
 「しとど落ちる血と」の振りも、薔薇の花を逆さに落とすところが印象的だったんですが、今回は薔薇の赤を血に見立てて片方の腕に滴らせるような動きでしたね。あのフレーズの途端に極上の美しさの中の「冷ややかさ」がこちらを刺してくる気がして、心を掴まれるんです。どうしてそんな憂いを帯びてそこにいるのだろう、と。
 男女混声になったことでよりゴシック調の闇を染み込ませた世界観、夜の音に近いものを感じます。宝塚は異世界そのものを作り出していたので、また何か違う不気味さを感じました。初演が天国の隣なら、再演は地獄の向かい、わかってもらえますでしょうか。

 「悲しみのバンパネラ」では一人、階段に座ったところからの歌い出し、…私は本当に見たのかあの姿を、また錯乱してきた…。一輪の薔薇を取り落とし、ナンバーが終わると振り返って、落とした薔薇を自分への憐れみのように見下ろすエドガー。その佇まいのもの寂しさがたまらなく好きです。

老ハンナ/ブラヴァツキー役の涼風さんの低音、圧が凄いです。二役の違いが判りやすい芝居の巧さも。コーラスを聞いたときビックリしました。歌声の強さがめっちゃくちゃ好きだ、え、一人?怖、強…たまらん…老ハンナ…絶対に化け物じゃん…震え上がる。一つの楽器のような荘厳な凄みがあります。怖さが先立つ振る舞いだからこそ、メリーベルへの「みんなおまえが好きなんだから」にも少し思わせるものがありました。怪物の「愛」は果たして愛か?という、テーマの一つ、未だ見えぬ地平をはらんでいる台詞だなと思います。

 大老(キング)ポーのセリフ、ほぼ歌に置き換わっていて驚愕です。これが、劇団四季…ビギナーの感想…。「♪あれはいつの日か」の「我らはローマの陽を見て」の我らは、あの場にいた一族全てを指していたんですね。初演はキングとハンナの二人の旅だと感じていましたが、おそらくは取り囲むポーの一族達の存在感の有無がそうさせたのかなと思ってもいます。他者として強い眼差しでそこにいる彼らと、まるで幽霊のようにどこまでも佇んでいる宝塚の一族たち。

 やっぱりシーラと男爵は仙名さんと瀬戸さんの芝居、歌声、メロディがめちゃくちゃ合ってたな…至高だと思っているからな…(初演の話です)。瀬戸さんの低い声と仙名さんの伸びやかな美しい高音、の「ゆうるりと」あれは至高。勝手に軍配を上げてしまった。瀬戸フランクの節回しが染み込んでおりまして、「一族だ!」「恐ろしいのは、信仰だ。〜排斥する!」の語気の強さが良いんですよ。呼吸が明日海エドガーと合っているんですわ。これは親の顔より初演を見たからかもしれませんが(嘘)。夢咲さんのシーラはより「お姉さん」らしい、歌に若さを感じました。小節ごとのロングトーンがあまりなくて、弾むような、オレンジの香りがする歌声。

 それから何だかわからないけれど、一族vs村人のところでだばだばに涙が溢れてしまい…。少しだけ現実の世界の状況が無意識に重なってしまって、異なるコミュニティに属する人々と人々の対立に苦しくなってしまいました。
小池先生の歌い継ぎの演出大好きなので、もともとここの盛り上がりがシンプルに好きなんですが、なんか突然このシーンで「ポーの一族」だなあ…って実感が呼び起こされてしまい、なぜか泣いていた、本当になぜここで…。


 何においても今回一番色濃いのが、演者が明日海さん以外別キャストと言うことによる絶対的な孤独感。周りの誰もが自分とは異なり、自分こそがこの集団の中の異物なのだという、助かるあてのない悲壮と恐怖の最中。一族達も、まして人間もエドガーの恐れの対象として立ちはだかっているように見えました。この辺りの妙が、再演としてみる深みと、一つの作品としての軸になる面白さだと感じます。
 特に婚約式の時の、エドガーを脅威として取り囲む”バンパネラ”達の雰囲気が記憶に残りました。脅迫の中で、自分の味方がこの世にはもう誰もいないと知る、人間としての強烈な孤独との出会い。そしてメリーベルには自分だけなのだと突きつけられて、何としても自分が守り抜き、助け出さなくてはという思いに駆られる。
 エドガーにとって孤独を癒すただ一人の存在であるメリーベル、それは最後、彼女を失い、バンパネラとして生きる理由(肯定的かにはかかわらず)を全て喪失したときの歌にも繋がってくる。そこに至るまでに、自分と同じ孤独を与えるまいと願った妹に、自らの手でそれをもたらしてしまったことへの「君は僕を憎んで、撃ち殺したっていいんだ」。
 そして、メリーベルにとっても兄の存在が同じ様に作用している。だからこそ、兄妹はバンパネラとして生きるために互いに唯一のよすがを求めている。そこにメリーベルの歌が一つ追加されていました。「お前の水車」へのアンサー、でありアナザーのように聞こえました。エドガーとメリーベルの絆を我々は何と呼ぶのか、この作品のテーマに属することと、その作り込みに感じ入ります。

 エドガーにも、コヴェントガーデンに迷い込んだときの歌が増えていました。
あのシーンの「街」のリアルさというか、満ちる「活気」が宝塚とは全然違って、演者それぞれが個性的で、体を大きく使って空間に「生気」を醸している。その中でそのエナジーに当てられるエドガー、というのがまた異質な姿を強調しているようでした。

男女両方のキャストがいることでこんなに重厚になるもんなんだ…やばいわこんなのめちゃくちゃ良いじゃんね…。全体的にコーラスの高音がない、または聞こえないのか意図的なのかわかりませんが、男性の低音の方が響くのか、あの夢のように響く宝塚のハーモニーは唯一無二なんだとも実感しました。初演は絶対に戻らないし、そうであるものが舞台であり、それこそが良さでもある。時は巻き戻ることなく過ぎ去り、ただエドガーだけが同じ顔をしている。

はてさて、ブラックプールの到着時お衣装赤い!ベルベッドのボルドー!(初演は深緑!)「ランプトンは語る」の扉絵みたいでした。カーテンコールの時のお衣装もこれでしたね。
私はのあすみさんの斜め後ろからの立ち姿がめちゃくちゃ好きなのかもしれない。表情の見えないながらどこを見ているのかは大凡分かることができて、それだけで語られる舞台表現の豊かさ。きっとこの角度から見て美しいのであれば、360度美しいに決まっているとう確信が好きなのだと思います。

千葉さん演じるアランですが、流石の演技力で、ツンツンしたタイプの反抗期だ!となりました。まだ舞台での声量や芝居は慣れていないものな〜と感じることもありましたが、そこはそれ、”アラン”であることにそのキャスティングがハマっていました。
 「舞台」ポーの一族のエドガーとアランは、互いに孤独であることで繋がれる関係性であると思っています。だからエドガーと同じだけアランという存在が舞台上で異質であることは絶対条件とも言えます。今回の座組でこそそれができるというのもまた虚実皮膜なもので、「ポーの一族」の世界で最も生きてきた明日海りおのエドガーに対する、初ミュージカルの千葉雄大のアラン、おそらくはこの邂逅から千秋楽に向けて、舞台のラストシーンに向かう様に磨かれていくのだと信じています。「アランの規律」などなどもっとぶつかっていって欲しい所存です。
 一番印象に残ったセリフは「ロゼッティ…!」なんですが、例にもれず初演の柚香アランとの造形の違いがはっきり感じられたのが理由です。千葉さんの台詞回しはとてもナチュラルで、この驚いた時の感情表現がまさに映像らしい。感情を声音に乗せるのではなくて、あくまで本当に人が驚いた時につい声も出なくなるときの「ロゼッティ…!」私は今なぜテレビカメラではないのか?彼の瞳が見たメリーベルのアップの画ですよ私が今欲しいのは〜〜!!と悶えました。そういう引力を技術として持ってきた方なのだなと。次に拝見するのが楽しみです。あととても顔がいい。無論、柚香さんのアランの芝居心にはそのナーバスさをリアルに表出しているところが大好きです。宝塚版パンフレットの小池先生のコメントに私は全面同意しています。

 ホテルの部屋でアランを仲間に引き入れようとするエドガーの表情が凄まじくて、異形でした。トート思わせる様な有無を言わさない意志の表現。特に目力と指先、これはもう宝塚で培ってきた美しさという技術が比類なく詰まっていると思います。舞台の上で人でないモノに変貌する明日海りおさんのことがこの上なく大好きで、私、本当にみたんですね、。・絵画が動いているような非現実感が、確かにそこに存在している。奇跡のようなひとときだった…

それととても刺さった場面が、男爵夫妻消滅ところの演出です。最高に天才でした。ね!「我らが生まれし故郷は」の歌詞にはあまりにもあまりにも、私が愛する形への形容が詰まっていて、この愛を屋上で全校生徒に叫びたくなるんですが、この演出、シーラが撃たれ、振り返ると腕の中に彼女の姿はなく「塵となるまで」と空を抱きながら男爵が言う。このあまりの虚しさ、あまりの、彼らの愛の”形"の脆さに胸を打たれる。何に対してだか知らないが、この物語を観測する私だけは、バンパネラの愛を愛だと叫んでやりたい、認めさせて欲しいと強く思う。「愛がなくては生きてゆけない」というのは、それほどまでに永遠の命≒空虚なんだろうと思いを馳せる。
流れるように宝塚版の話もしますが、フランクとシーラは抱き合ったまま、消え去って行くんですね。これは宝塚における現実は精神性に依拠することに当てはまるのかなと思いました。2人の魂は間違いなく塵となるまで「共にあったこと」が重要なんです。宝塚、愛が至高だから(独見です)。初演の演出は一つの完成形だと思っているので、今回はまた、それを反対側から見ているような感覚がします。

「限りある命」たちが愛することと、「永遠の命」が手にしている愛と。両者とも得ることの叶わなかったエドガーが、孤高であった初演と、ただ一点の孤独であった今回。ほとんど台本が同じなのに、演者が全て入れ替わるとこんな見え方がするのかと。ただただ感動と再発見の連続でした。

 初演時に明日海さんの演じたエドガーは、花組という一つの組織の真ん中であって、扇の要のように、何人とも異なることの、唯一無二の孤高さ、その寂しさが際立っていた。周りが”組子”だからこそ、全てがエドガーを取り巻いていた。
今回のキャストにおけるエドガーは、全てが彼だけを弾き出すような、エドガー”以外"に対する強烈な異物感。存在感、かつ違和感のようなもの。おどろおどろしいえぐみのある空気感。衣装の色調の暗さ、男性の低音とか、明日海さんの華奢さと他の出演者との対比がそう演出されている様に思える。

 明日海さん、確実にあの”エドガー"でありながら芝居のリアリティが増しておられました。
初演エドガーは儚くてこの世のものでない声と記憶しているんですが、今回は実際に観劇するからなのもあり、「肉声」の圧が、圧がビシビシきました…。憧れていたエドガー、それでいて儚さよりも、心に欠片ばかり残された感情の人らしさが滲む。そして、あの歌声、声量、メロディライン、まさにまさに「再び」のエドガー、生きている、今ここにまた彼が我々と同じ時の中に。
 台詞に詰まった瞬間さえ、今この時の鼓動が同じように張り詰めていることを思う。自分自身思ったよりも「ポーの一族」の初演を刷り込んでいて、同じ台本だから初日から「ここ台詞違うな」というような瞬間瞬間を察知しながらヒリヒリと舞台を見届けていました。私程度がこの思い入れであれば、もうそれよりどれほどの人が厳しい眼差しを無意識に注いでいたことか。そのプレッシャーの中で真ん中に立って魅せる度胸たるや、愛すしかない、明日海りお!健康でいて!相変わらず神がかり的にお化粧が上手い。本当にスタイルが良い。(突然の手放し褒め)
 明日海さんの後ろにもう大羽根はないし、花組ポーズを見ることもない。
それとエドガーとはやはり全くの別の生き物で、「変わることのないエドガー」の存在が彼女の存在を地続きにさせている不思議な関係があるとも感じます。

「どうして僕だけがここにいるのか」という埋まることのない疑問。全て、自分さえも犠牲にして生きる永遠の命、彼にとって「呪い」という他に言いようがない。そういう境遇を愛しています私は。焦がれています何よりも。そしてこの想いが必ず届かないことが好きです。
 ただ明日海りおがエドガーに触れるとき、われわれは絶対に届かない、不死の怪物への手向けを与えることができる。それが本当に神の御業に見えるんです。
 パンフレットで萩尾先生が締めに述べられたのが「呪言(ことほぎ)」だったことも理由があるのではないかと勘ぐっています。

エドガーの「救われることのない孤独」が物語られることで「救い」に為ることが大好きで、彼が誰にも救われることはないということへ、私と言う人間の些細な孤独から、限りない愛を贈りたい。彼がまた永遠の旅路へ戻るまで、どうか共にいられますように。

冗長な文を最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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