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なぜ園子温監督の「TOKYO TRIBE」が嫌いなのか


日本語ラッパーたちがたくさん出演している映画「TOKYO TRIBE」。


わたしの好きなラッパー、漢さんや練マザファッカーさんたちもでています。


最初から最後まで、爽快に突き抜けていく映画です。

最高に好きなのですが、どうしても気になる点がありました。

女性の描き方です。

園子温監督は映画文法をきちんとおさえ、

鑑賞者に深く考えることを余儀なくさせる日本の映画監督の中で稀有な存在でありますが、特にTOKYO TRIBEでの女性の在り方が気になって仕方がありませんでした。

最初は話がまとまらず、

映画の中で女性が軽視されているように感じる。

今の男性優位の社会を映画に如実に描き出す必要なんてあるの?

これを見た人が勘違いしてもっと女性の立場が悪くなるんじゃないの?

とぽつりぽつりと話しても、

友達(メンズたち)になかなか理解されない。


根っから園子温好きな旦那さんとは議論から喧嘩になり離婚騒動になりました。

周りと不和を起こしながらも、めげずに旦那さんと議論を進めていくと

面白いことがわかりましたのでここに書いておきたいと思います。


まず話の中で重要になるのがフェミニズムの概念です。

死ぬほど簡単にですがフェミニズムの歴史を分けて見ます。


① 女性が男性の所有物であり、聖なるもの又は娼婦的な存在だった時代

公娼制度が認められていた時代(明治ころまで)は、自分の家族の妻や娘を守るために売春を認めていた時代がありました。自分の周りの女性は守るけれどそれ以外は娼婦的な存在になる。映画中でも暴力的な仮想社会を描いているのでこれに近いかもしれません。

②フェミニズムの勃興 男女平等へ

①に対抗して、男も女もおんなじように!ってな動きですね。これもある意味で歪みがでます。例えば「女らしさ」を攻撃することにもなりかねません。劇中では「新宿ギラギラガールズ」(女性のみの構成、アマゾネス的なトライブ)がこのくくりに入るかもしれません。彼女たちが女性らしくないわけじゃないんですけど、ラップという武器で、他のトライブたちと血で血を洗う紛争をやり抜けている訳ですから、対等な存在とされるでしょう。

③フェミニズムの歪み 「平等」の難しさ

②で説明したように、平等となると様々な弊害がでてきます。女性らしくあることを否定したり、男性が女性を口説くことをさせにくくしたりなど色々です。

今回はわたしがTOKYO TRIBEに違和感を持ったのでわたしの立ち位置も明記します。

私は③の意見を持っているものです。

むしろ男女分けることも苦手ですし、男女問わず、個人を尊重した社会になることを祈っていますがなかなか今までの体制では難しいですね、、。


さて次は特にいやだなあと感じた場面です。3つ紹介します。

A: 女性ポリスがメラに公然の前で裸にされ、ナイフを胸に突きつけられる場面。

B: 名前表記の女性の肉をブッパが食べる場面。

C: 女性が拉致されて娼婦にされていく場面。

映画とはいえ文字にするとやばそうですね。


さて、なぜわたしがこれらを不快に感じたというと先ほどの

① 女性が男性の所有物であり、聖なるもの又は娼婦的な存在だった時代

をありありと表現し、加えて、ストーリを通して、所有物であることは否定いしながらも、女性は聖なるものであると描かれているからだと思います。

所有物に関してはストーリ中盤で否定をしているようにみえる表現が見えます。後ほど詳しく見ていきます。

まず嫌いなシーンを解釈していきます。

A: 女性ポリスがメラに公然の前で裸にされ、ナイフを胸に突きつけられる場面。

このシーンは女性が裸にされることでお色気シーンであると同時に、女性ポリス(権威)がメラに屈するという描写がなされるシーンです。

今まで信じていた権威、正義(聖なるもの)を犯すことのできるメラの存在の大きさを知ることができます。

B: 名前表記の女性の肉をブッパが食べる場面。

これもちょっと笑っちゃうような演出で女性の肉がでてくるのですが、よくよく考えるとものすごくおぞましいシーン。

ですが、実は食するということは聖なる行為。女性の肉(聖なるもの)を食べるというブッパは神になろうとしているような存在なのです。ひえ〜。

C: 女性が拉致されて娼婦にされていく場面。

これはいうまでもないですね。道端にいる女たちを騙して娼婦にさせていく。女性を娼婦として利用することへの嫌悪です。


ここまでは普通なのですがここで注目すべき人物がでてきます。

主人公のスンミです。パンチラさせながら闘うのですが、この子がメラに処女を奪われそうになった時のシーンが印象的です。

メラが♩俺様のものになれ〜とせまるのですが、

ゴヤの裸のハマを彷彿とさせベッドに横たわりながら、わたしの処女奪っていいよ、ふんってな感じで毅然としています。

この時のスンミの描写は最初の女性ポリスのそれとは少し違います。

同じ裸体なのにそこまでいやらしい感じがしないのです。

光がピカーっという感じ。

(実際、女性ポリスはグラビアの方、スンミは女優を起用しています)

女性は聖なるもの、とこのシーンにて宣言することになります。

その後、スンミは処女を奪われず、またばったばったと敵を倒していくので、

所有物にもなりませんでした。


最後に武蔵野が勝ち、平和が訪れるので、

③フェミニズムの歪み 「平等」の難しさ

にて映画は終わります。


この平等の難しさをおそらく園監督は彼自身の意見、

「女性は所有されるものではないが聖なるものである」

として収束をつけたのかなと思います。


ただやはり女性を「聖なるもの」とすると必然的に「娼婦的な存在」がどこまでもつきまとう。

だからこそわたしは物語が終わってもどことなく腑に落ちないというか、これでいいんだろうか。と思ったのだろうと思う。


余談ですが、園監督は、キリスト教のモチーフを使う監督で有名ですが、この映画にもたくさん登場しています。

例えばスンミのお付きの女の子。

一見、男の子のように見えますが女の子です。

あの子はよくりんごを食べてましたね。

我々の意見ではあの子は、男/女という構図になると大変なことになると知っていて中間の存在としているのでは?なんて話になりました。罪の象徴、りんごを食べながら。

ショコタンが食べるブドウ、最後の戦闘シーンの地球(地球は母の意)(ユニバーサルスタジオのやつです)も象徴的でした。


もう何回か見ないとダメだと思いますが

今回はこんな感じで失礼します。


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