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「おかしな話」

とある画材屋のオンライン登録情報が、漏洩したと連絡のメールが入った。
画材を定期的に必要としていた時代もあったのだが、それも置き去られていたある日に届いた突然の一報だった。

完全なことなどそうそうない。
絶対大丈夫も、絶対安全もありそうでない。
絶対なんて心許ないただの約束にすぎないのだ。

インターネットが当たり前にある、生活を侵食して早何年経つのだろう。割と早いタイミングでデスクトップPCを所有していたと思うのだが、その当時と今では当たり前もだいぶ変わってしまった気がする。
気が緩みゆく世間を不安視しながら、自分も今回の件に関して手も足も出ず仕方がないこと、と手放してしまうくらいには麻痺してしまっているのだろうか。
とは言え、約束された安全をとりあえず信用して踏み込んだわけだから、私にも責任の一端はあるだろう。
その信じたサイトの対策がどれだけ有効だったのか、そもそもあったのかないのか、知る由もないが起きてしまったことは結局後の祭りでしかない。
何てことしてくれてんだ!という気持ちが湧かないわけではない。
けれど謝罪のメールに対して怒鳴りつけたところで過去には戻れないのだ。
ごめんなさいが言えることは、どんな時もどんな場面でも誰が相手でも、非常に大事なことだと私は思っている。
だから、甘んじて受け入れ前を向くとする。

が、その謝罪の後に何が起こるかまでは、明確に想像できていなかった。

それから数日して、わかりやすく怪しいメールが届いた。
まったく身に覚えのない会社から、登録内容確認してくれ、と。
そんなことあるかいと調べると所謂迷惑メールだったのだ。

ほう。
これが例のごめんなさいのその後とやらか…となんだかぼんやりと思っていた。
だって一方的に送られるものに対しては、素知らぬふりをしてなかった事にするしか私にはなす術がない。
その後も何通も届くあからさまに変なメール。方法が他に無いとはいえ、ただただ受け取ることに嫌気がさしてきた頃になると、どうせ送ってくるならもっと上手くやれよとさえ思えてくるから不思議だ。
受け取ってやってるのに、適当にあしらわれた感じがしてしゃくだった。

そういえば東京で暮らしいた頃。
物凄く蔑ろにノールックで目の前に差し出され受け取ろうとしたら次の人へ回されたポケットティッシュのことを思い出した。
こいつを配る駅前のティッシュ配りに、やるならせめてちゃんと渡せよ!受け取ってやるよ!と少々憤った。
配られるティッシュも大事な資源の一つだし、それは当時大都会で一人で暮らす人間にとっても貴重な資源なのだ。
何よりノールックなこの街に、当時はそれが居心地が良くも、どこかあっけなくさらりと無視されたことが悔しかった。

そうだ、そういえば、自動車教習所の勧誘葉書も、成人式の振り袖の広告も、私には一通も届かなかった。
友人たちの元には今だ今だと際限なく送られてきていたらしいが、待てど暮らせど私宛にその類の便りが届くことはなかった。
羨ましい反面少し怖くもなった。もしや私って世界に認知されてない?この世に存在してる?!と思えてきて、笑った。

人の輪の中にいる時、その方が案外孤独を感じるとは言うが。
どちらの孤独も私は嫌いじゃない。
いつも俯瞰で楽しんでしまう。
今もこうしてこれらを記憶の一部に記して、これが何になるというのか。
そんな何にもならない様なことが、実は物語のきっかけだったりもするのではないだろうか。
どこかこういう世界の端切みたいなところで、点の様に瞬くそのなんでもない小さな一瞬に、ああこの世界に自分は存在しているんだなぁ、と感じたりするのかもしれない。

とはいえこんな迷惑なメールやどうでもいい様な話に、自分がここにいることを感じてしまうなんて。
まったくおかしな話でしかない。



もう必要ない、と思っていたものがある日突然重要な存在になることがある。
思いもよらない所で必要とされるその姿には、言いようもない気持ちで胸がいっぱいになる。
あの日、あの時、手放してしまっていたら出会えなかった世界なのだから。

友人の子らと繰り広げている(クリエイティブなこども会)では、絵を描くということを一つのテーマにそれぞれが描きたいものを具現化している。
学校ともお稽古ごととも違うのだから、決められたことをやるよりも、自分がやりたい事や興味あることを心の声と決めた方がきっと豊かな時間になる。

割とどんなことも、簡単にできてしまうし簡単に手に入ってしまう今の時代。
好奇心や冒険心が躍動する前にご丁寧に並べられた一通りざっくり揃ったスタンダードセットみたいなもので何となくわかった気になってしまって、噛み締めて腑に落ちて感動する前に手軽にやめて手軽に乗り換えていけてしまう。
何もかも手軽すぎる。
重みがない、となればそれもそこから生まれたものも、ふいっと風が吹けば飛ばされてあっという間にに消えて行ってしまうような気がする。
時間がないのだろうか?
この100年時代に?
きっと難しいことや手間がかかることに時間をさくことを諦めてしまっているのだ。
デジタルやテクノロジーに救われているものたちもあるだろう。
極端にすべてがそうあるべきなどとは到底思わない。
思わないが、消えてしまう様なものを積み重ねていると、きっとその人自体がどこかへ消えてしまうしここに存在していない様になってしまうのではないか。
そしてやりたいことと、やれることとは似て非なるものなのだ。
自分がやりたい!と思ったことには、そのために身体も頭も心も注ぎ込んで(できる!)とか(できた!)までアプローチをかけることができるのだ。その時間に代わるものはない、得難い経験と感動だ。
その原動力なくして、何かが真に生まれたりなどしない。

自分との対話は、大人になっても大事だと私は思う。
そこに向かっていくには、誰かと折り合いをつけたり同調していいねしていくようなものとは、また違う大変さがある。
けれど人はみなひとりの人間であり、これはひとつの命を持つもの全ての宿命だし、その上で心の声とはつまり自分そのものでそれをなくしてしまってはいけないのだ。

とはいうものの、初めからやりたいことや描きたいものが、はっきり決まっている人ばかりとは限らない。

私は決まっている子供だっただけだ。
やりたいこともやるべきことも、自分の心といつも生きていた。
それで良いと、思わせてくれたものに早くに出会えそれらを受け取れたからだと思う。

決まっているから良いというわけではない。
決まってないから何でも良いというわけでもない。
そこで外側と対話をし、世界に散りばめられた豊かなもの美しいもの不思議なもの輝くものに触れて、心がどんなふうに動いたか震えたか感じたかを材料にする。
若く柔らかな心には、きっと明るい色をしたものも暗い色をしたものもどちらも眩しく鮮やかに見えるはずだ。
鮮烈なそれらと、こどもたちが何を生み出していくのか、楽しみで仕方ない。

人によって描きたいものは違うし、欲しい材料も違う。自由と好奇心が泳げるようなプールをなるべく用意してあげたい。
そこで、いつの日かの画材が生き生きと活躍することになったのだ。
眠っていた記憶がはらはらと目覚め、買い溜めた原稿用紙やインク、作家友達から譲り受けたやコピックやアクリル絵の具などの画材たちのことが蘇ってきた。
ひとつには、それらをどこか捨てられない未練がましい私もいたのだ。
けれど(表現すること)を、生涯やめるかどうかと天秤にかけるものでない存在だと認め、この命を生きることと同義だと気がついた時。
これまではずっと一本の道であったのだと、それなら自力で選び手にした武器は持っていてもいいんじゃないかと思ったのだ。
それがいつかはわからないが、いつか役に立つ日が来るかもしれないと。

後生大事に持っていても、腐らせたら終わりだ。確かにそうだ。
そうならないような不確かだけれど確かな道にいるならなんだか大丈夫な気がした。
そんなことを思って取っておいた画材が、子供たちの好奇心の手助けになってくれて本当によかった。

それは画材だけでなく、私が積み重ねてきた時間や学び、あの頃拙く情けないと思い続けた右手が誰かの手を取り導く手伝いができている。
こんなに報われることはない。賑やかな午後をよそに、ひとり涙が溢れそうになる。
時間をかけて育まれ積み重なったものたちは、簡単に崩れ去ったりはしない。捨てずに持ってきたら、こんな世界が待っていることもある。
そんなこともかれらの希望になってくれたなら。



デジタルの進化目覚ましい、ここ十数年、いよいよ概念や価値観まで変わりつつある。変わり始めはまだいい、それがとうとう当たり前になる頃だ、これは長いのかそれとも早いのか。
ちょうど10年前、そんなデジタル移行の最中でニューノーマルを前に歯痒く痛い言葉を食らうことが多かった。
今となってはそれが当たり前になったのだ、あの頃まだ目の前でチカチカして、取っ払えないかと踠いていたのがなんだか懐かしく愛おしくておかしい。

新しい当たり前の中でも、大事にするために、戦う人たちがいる。
凄まじい勇気と覚悟だと私は思う。

手書き、インク、水彩、紙の表面に触れ、伝わるのは感触だけではない。
手法にどちらが良いも悪いもない、けれど自分の手から生まれているということは、温度や表情や深さ重み、「特別な存在」に繋がる重要な糧となる。
デジタルツールで、画面の中だけで、指一本で、それらしく上手くやれる世界で、柔く温かい生きた線に久しぶりに出会った。

絵描きの彼女とは、友人のお店に作品を隣に並べて頂いている間柄なのだが、ようやく初めてお会いすることが偶然にも叶った。
その偶然にも似た必然の中で、言葉や想いを交わしてみるとどうもとても心地がよい。
年周りも近く、辿ってきたルートも見ていた景色も触れたものたちも近いようだ。
それだけで人は不思議と親近感が湧く。
でもそれだけではないのは、その彼女の筆致から溢れ出る繊細な感情にあったのかもしれないなと思った。

続けることは、簡単なようで難しい。
愛があるが故に苦しいに直面するが、けれど愛がないと続けられないからだ。
その長く長い道の先で出会った人やものは、おそらく出発点や道半ばやでは決して出会えなかったものたちだろう。そこには言葉では尽くし難い響鳴がある。
この世の真実を知ってもなお、続けていることこ。
そこにはきっと誰かを救う役目があり、自分を生きることそのもののような気がする。

始まりは別の場所だったかもしれない。歩いてきた道は棘で、何度も砕かれたに違いない。
けれど私も彼女も今ここから望む景色は、決して暗闇だけでないだろう。
辿々しくも溢れる想いと願いは、とても純粋で愛情に満ちていた。
その構想を楽しんでくれる人たちも信じてくれる人たちもいる。
ここで出会えた彼女に見えているものが、きっとその町の人を優しく包み込み、愛し愛されていくものとなることを願っている。



春の風物詩、高崎映画祭が進化のために変化をしていると今年はとても感じた。
長年通っている人ならその端々に、勇気と覚悟を感じているのではないだろうか。
必要な変化は生存戦略だが、どこかそこには寂しさと憂いを感じてしまう。それを胸にしまいながら、懐かしむだけの永さがあることを喜ばなければいけない。

とかく先端に追いついていないと、どこか恥ずかしさや劣等を感じなればいけなくなる。デジタルでなければ、あるいはミニマムでなければ、笑われるのだろうか。
なんだかおかしな話で好かない。でも一番おかしいのは、そう思いながらも恥ずかしさに唾を吐けない自分自身だったりする。
デジタルチケットで映画館に入れない時、紙のチケットを握りしめて私はこの紙が欲しかったんだもんと言い聞かせた時、なんとも自分が小さく感じるのだ。

ある映画監督から聞いた話だが、今若者がレコードや落語なんかに触れにいこうと切実なんだという。
私が暮らす街でも確かにレコードや古着なんかの、所謂少し昔に流行っていたものを十以上年下の人たちが好んでいるのを見受ける。
それらはこのなんだかツルッとしすぎてしまった新時代の中で、ざらざらした感触とか奥の方に密む温度とか生々しさを求めているように思う。至極真っ当なSOSなのかもしれない。
切実という言葉を強調していたことが、とても印象的だった。

求めて突き詰めたはずが、息苦しく愛嬌のないものになってしまった。
自分で自分の首を絞めているような世界で、声が出ない時、私たち一人一人に一体何ができるのだろう。

本当はそうじゃない、

それすら言えなくなってしまう前に。
おかしいことをおかしいと言えなくなってしまう前に。
それすら感じられなくなってしまう前に。
立ち止まる勇気が必要だ。
私たちはまだ人間でいた方がいい、そんな声が聞こえてくる気がする。

ずっと昔から敬愛するデザイナーが愛した(温故知新)という想いを自分の中でも大切にしてきた。
古き良き世界の連続の先に、若く潤む未来がある。
いつものその真ん中に今があって、それを愛せるように最善を尽くしたい、それだけなんだよなと思う。
余白とか必要じゃなくなるかもしれない部分を(遊び)というが、遊びが無くなったら、そもそも成り立たないとなってしまう時がいつかきてしまうんじゃないだろうか。



ちゃんとまっすぐ、自分にまっすぐ生きていると、不思議な引き寄せの中にあることに気がつく瞬間がある。
偶然のようで必然、というやつで、そんな不思議でおかしな力が実は割とあるという話だ。

深夜ベッドに入り、radikoをつけると、たまたまリアルタイムでやっている燃え殻さんのラジオに出会し、導かれるようにチャンネルを合わせる。
するとその内容がどうにも自分にも近しいキーワードで展開される。本や漫画、出版業界について、そしてそういう世界のグラデーションがなくなってしまった話。
一昔前はできていたことがとてつもなく難しくなり、時代のせいを仕方ないと受け入れるしかない余裕のない世界。
もうすぐ10年、踠き足掻いてまだどうにかなれると信じていた頃、嫌というほど聞かされた話と瓜二つ、思い出したように耳が痛くなった。

眠気と共に半分その流れるような穏やかな声色を、聞き流しながらもどこか無視できず頭が冴えていくのが嫌で布団を深くかぶる。と、流れてきたのは折坂さんの星屑。
ほんの少し安堵して真夜中に身を委ねた。
私は今、ここにいる。それが進化でも変化でもなんでもいい、その先であることは確かな気がした。



変わらないために変わる。
それは、初めから変わらずずっと胸の中にあるもの、それが変わらぬまま生き続けるために、変わっていないように変わっていく。
だから変わってない、と言えるし、やっぱり変わってなどいないのだ。

おかしな話だろうか。
私だって言ってて訳がわからなくなるが、ばけがくの狸を思い出せばわかるはずだ。
新しいいのちのために、懸命なだけだ。

おかしな天気も、そのうち当たり前になってしまうだろうか。
誰のせいだとどこからか声がする気がする、もっとゆっくり考える時間を、許せる世界になればいいのに。
難しいのだろうか、今日もどこかで悲しみが悲鳴をあげている。せめてあなたは散る前の桜の下で変わらないことを願っていてほしい。
春を見送る頃、新たなインスタレーション展示を大切な場所で展開する予定でいる。
小さないのちだったあなたときみたちを想って紡いでいる。
その手には、新しい材具と変わらぬ情熱がある。
あの頃使っていた筆は静かに佇み、ペンは子供たちと自由に豊かに駆け巡る。
想いは絶えずその炎を灯し、出会うはずの誰かの元へ生きた便りとなって羽ばたいていくはずだ。

これまでの仲間たちと新しいモチーフ。と、春の花。