移民家族〜祖母の人生〜

 共働きだった両親の代わりに、私が幼い頃から幼稚園の送り迎えや家事をこなし、愛情たっぷり育ててくれたのが祖母である。御年84歳になる祖母は、背筋もしゃんと伸び、月に一度は白髪染めをして伸びた襟足を自分で整え、買った服の半分は着やすい形にリメイクしてしまう、よくしゃべる元気なおばあちゃんだ。
 私の両親は、父が日系ブラジル人の2世、母も同じく3世である。父の母親が今回インタビューをした祖母であるが、私が幼い頃から祖母に聞かされていた話が今回のインタビューでやっと綺麗に繋がった。


南米移住
 1938年(昭和13年)に、北海道美唄市の空知郡に生まれる。祖母は6人兄弟の次女で、上に兄と姉、下には弟が3人いた。家の周りは田畑が広がっており、稲を作って生計を立てていたという。 
 ちょうど祖母が小学校1年生の時に終戦し、中学校卒業後は弟たちの世話をしながら家の仕事を手伝っていた。終戦後は、新聞に南米移住の広告がよく出ていたそうで、移住先にはブラジル、ボリビア、パラグアイなどがあった。当時は就職難で、男兄弟が多い家庭だったこともあり、将来田んぼを分家するほどの土地もなく、生活も苦しかったという。
 祖母の父の友達がすでにパラグアイに移住しており、「こっちへ来ないか」という手紙を貰っていたため、パラグアイ移住を視野に入れていた。知らない土地に行くのなら、せめて知り合いが居る土地の方が安心だという祖母の一押しもあり、正式にパラグアイへの移住が決定したらしい。
 1955年(昭和30年)5月、当時17歳だった祖母は、神戸出航の『テゲルベルグ号』という、約14,000総トンの船に乗る。すでに結婚していた長女は日本に残ることになり、家族7人と従兄弟の計8人で、少しの不安と期待を胸に地球の裏側へと出航した。船は商業船だったため、神戸→沖縄→香港→マダガスカル→ケープタウンの順で停船し、荷物を降ろしたり積んだりしながら走らせていた。ケープタウンからさらに2週間かけて目的地であるブラジルのサントスへ向かう。そんな最中、ケープタウンを出港してから1週間後に、祖母は船の上で急性盲腸になってしまう。
「もし船の上で死んだら海へ捨てられて、死体の周りを船が3周するって噂で言われてたから、そうなるんじゃないかって思った」
そう話す祖母は、船の上で部分麻酔をして、盲腸を取る手術をした。
 日本から2か月かけてサンパウロに到着し、術後間もない祖母と、船で出産したという女性と2人で、1週間サンパウロのホテルに滞在することになる。実際、妊婦は移住船に乗ることができないが、その女性は妊娠を隠して乗船していたらしい。彼女はポルトガル語が話せたため、彼女のお陰でホテルでは不自由なく過ごすことができたという。


『ジョンソン耕地』にて
 一面に広がるコーヒー園。パラグアイのペドロ・フアン・カバリェロという都市にある、約235,000haの神奈川県くらいの広さを誇る『ジョンソン耕地』で、先に到着していた家族と合流する。第36代アメリカ大統領の従弟である、C・Eジョンソンが経営するこの土地で、祖母たち家族はコーヒー園の契約社員として派遣されたのだった。その土地は1〜5区まで区切られており、祖母らは2区目に配属される。祖母の記憶だと、日本人20家族くらいがこの土地に移住してきたらしい。月給はないが、住む家と食料は配給されたため、生活に困ることはなかった。しかし、配給される食材には今まで見たことない骨つき肉や、『フェイジョアーダ』という郷土料理を作る豆が入っており、移住してきた当初は調理の仕方に苦戦したという。
 収入が全く得られなかったかというとそうではなかった。自分たちの土地の範囲で、コーヒーの木と木の間に大豆やトウモロコシを植えていて、そこから得た収入で米や馬を買っていた。
「学校もなかったから、家族みんなで朝から晩まで働いた。一日一日を必死に生きていたよ」
『青年会』と呼ばれる日本人移住者の若者が集う会があったそうだが、それ以外はひたすらコーヒー園での仕事に明け暮れた。
 ジョンソン耕地に来てから2年、悲劇が起こる。コーヒー園が霜害にあい、全滅してしまったのだ。祖母たち家族がいた2区だけでなく、全ての区のコーヒーの木が霜にやられてしまった。その後、コーヒー園は潰れ、細々と育てていた大豆やトウモロコシを売ったお金で、街から離れたカピワルという土地へ引っ越すことになる。
 カピワルの家は、製材が好きだった祖母の父が、木を切って板を作るところから作り上げたのだそう。その他にも穴を掘って地下水をくみ上げたり、鉄砲を持って狩りに出かけたりと、なんでもできる父だったと話す。
 カピワルでは、トマトやスイカ、大根などの野菜を植えたお金で生活していた。収穫した野菜は、馬車を引いて街まで売りに出かけるのだが、街へ行く途中に警察が取り調べをしているため、収穫した野菜を少しあげると、取り調べもせずにすんなり通してくれたというから驚きだ。


結婚・出産
 カピワルに来てから間もなく、21歳の時に『青年会』で出会った男性と結婚。私の祖父である。最初、『青年会』で祖父を見た時には全く魅力的に見えず、いつも中心の輪から離れて、黙ってポツンと立ってる人だったらしい。
 祖父は日本で自衛隊に入る予定だった。自衛隊試験に合格したお祝いに、家族や仲間と飲み会をした後にお腹を壊してしまう。ちょうど、その食事会の翌日が自衛隊の身体検査だったため、案の定、検査に引っかかってしまったのだ。自衛隊には惜しくも入隊できず、祖父の叔父と共に、祖母より一つ前の船(サントス丸)に乗って綿作りをしにパラグアイへ移住したのだ。「これもご縁なのかもね〜」と、笑いながら祖母は話す。いつも寡黙で、誰よりも心配性な祖父の、はじめて聞いた笑っていいのかわからない面白いエピソードに、なんだかほんわかした気持ちになった。
 結婚してすぐ、祖母と祖父でビクトリアという田舎町に引っ越す。そこでも農作をしながら生活していた。22歳の時に第一子を出産し、続けて子供が2人生まれるが、そこでの暮らしは決して裕福とは言えなかった。子供たちが学校へ行くのに制服はあったそうだが、近所の子供は裸足で登校していたという。祖母の家はかろうじて“履くもの”を買ってあげられたそうだが、それでもかなり厳しい生活だった。
 そんなある日、幼い頃からの畑仕事の勘が働き、「明日は霜が降りる」と予想する。畑には20cm位に育ったトマトが50本ほど植わっていた。トマトは霜に弱いため、このままにしておくと間違いなく全滅してしまう。
「トマトを土に埋めようって提案したの。まだ20㎝の高さだし、このくらいなら土もかぶさるからね。何もしないよりかは絶対いいって思った」
 次の日、祖母の予想は見事に的中した。周りの農家のトマトは霜にやられて全滅してしまい、祖母の家のトマトだけ生き残ったのだ。その年のトマトの売高は驚くほど高くついたという。そのトマトの売り上げで、ビクトリアからペドロ・フアン・カバリェロの街へ再び引っ越すことになる。祖母がちょうど28歳の時だった。


『カーサ・デ・アミーゴ』
 ペドロ・フアンの街では移住してきた日本人が多く住んでいた。日本人はよく集団行動が得意な民族だと言われるが、祖母曰くそれは本当で、海外に日本人が集まるとすぐに『〇〇会』を作るらしい。他国のアジア人移住者もいたそうだが、日本人だけ集会を作って定期的な集まりや催し物をしていた。
 ペドロ・フアンでは雑貨商をして、祖父と2人でお店を経営していた。文房具も洋服も食べ物も売っている“何でも屋”だ。始めた当初は家賃暮らしだったが、そこからお金を貯めて、引っ越してから5年で自宅兼お店を建てる。ビクトリアの田舎町でパラグアイ人の仲の良い友達ができ、その友達から「アミーゴ!アミーゴ!」と呼ばれていたことから、お店の名前を『カーサ・デ・アミーゴ』(友達の家)と名付けた。
 街ではさらに2人の子供を産んだ。31歳の時に生まれた末っ子が私の父である。子供5人を育てながらお店をするのは想像を絶するほど大変だったに違いない。祖父は中古のジープのような車で、野菜などの仕入れに励んでいたそうだが、お店を閉めた後は友達とほぼ毎日飲みに出かけ、家事も育児も全て祖母ひとりで行っていたという。ここでの暮らしも決して裕福とは言えなかったが、もう嫌だとか疲れたとか考える暇もなく、とにかく一生懸命働いた。
 お店での商売は、ルーズな面もあった。顔見知りの客に、今払えない分のお金を滞納したり、どうしてもお金が払えない客には、鍋とお店の食料で物々交換してあげたこともあるという。また、少額のお釣りが出せない時は、釣り銭代わりに飴玉で済ませていた。1円でもきっちりと金銭授受する日本では、考えられないことである。
 そして、日本を知らない子供達の教育にはこだわりがあった。女の子3人は午前中に現地の学校へ、午後は日本語学校に通わせ、男の子2人は兵役制度の待遇の良さから、パラグアイではなくブラジルの学校へ通わせた。
「顔は日本人なんだから、家の中では絶対日本語で喋りなさいって言ってた。学校行ったらポルトガル語かスペイン語しか喋らないからね。日本語を話せる子にするってことだけは、こだわってたね」
 祖母の教育もあってからか、私の父も、叔母も叔父も、みんな日本語が上手だ。日本人の誰と話をしても、きっと誰も“なまり”は感じないだろう。


事件
 長女と次女はパラグアイで出会った日本人と結婚し、日本で暮らすことになる。3女も21歳で日本へ渡って就職し、長男はブラジルの大学へ、私の父である末っ子の次男も19歳でブラジルのサンパウロで働き始めた。
 祖父と祖母の2人暮らし生活に戻ってしまったが、変わらずお店を経営し、友達に囲まれて楽しく過ごしていたという。よく、友達がご飯を食べに家に来たり、お店のカウンターで晩御飯を振舞ったりしていて、お店の名の通り温かい“溜まり場”となっていた。みんな人当たりの良い人たちばかりだったという。
 しかし経済状況は相変わらず厳しい街で、よく少年が「家の前の草を刈らせて欲しい」と言って何度もお店にやって来た。その度にチップを渡すのだが、もう刈る草もないのにチップ欲しさに訪れていたという。それほど皆生きるのに必死だったのだ。もちろん、祖母たちも決して裕福な家庭ではなく、お店で仕入れる品物の物価も上昇していた時代で、仕入れ値から3割り増しで売っても、次仕入れるときには売った値段よりさらに高くなっていたりと、経営も苦しい状況だった。
 そんな最中、事件が起こる。1990年4月のある日、19時頃に夕飯の支度が済んだ祖母は、店番をしていた祖父を呼びに行き、店を閉めようとした。その時、ピストルを持った3人の男が店に入ってきたのだ。男は「金を出せ!」と声を荒げる。気が動転した祖母は急いでレジを開け、小銭も小銭の下にあった札束も、その日の売上全てを渡した。「伏せろ!」男が言い、急いで伏せる。
「やるなら一発でやってくれって思った。覚悟はしたよ。人はよく強い衝撃を受けると、『頭に冷水を浴びせられるように』って例えるけど、その時ばあちゃんは、下から熱いものがブァーと来るのを感じた。本当にびっくりした」
不幸中の幸いに、男たちはお金だけ持って逃亡したが、その日のうちに祖母はある決断をする。「もうやめた。日本へ帰る!」そう祖父に言った。今まで弱音を吐いたことがなかった祖母であるが、この時ばかりは違った。
 実際に、今まで2回泥棒被害にあっていたという。その時は窓から侵入して物が盗まれた“程度”だったそうだ。祖母の父もパラグアイで大きな製材所を営んでいたため、強盗に入られたとき用の“準備金”を用意していたいう。案の定、強盗被害に遭い、しっかりその“準備金”を渡したらしい。なんて治安の悪い国なんだと思う。
 街ではどの家庭もピストルを所有しており、祖母も持っていた。
「ピストルはタンスの奥にしまってたし、使ったことも、使おうと思ったこともないよ。何かあって殺すよりも、殺された方がいいという気持ちでいたからね。でも、初めて銃を向けられて今まで張り詰めていた何かがプツンと切れたんだね」
 その3ヶ月後には、祖母と祖父は32年いたパラグアイを離れ、日本へ帰国するのである。


32年ぶりの日本
 「強盗に入られて日本へ帰る」という噂はすぐに広まった。街での強盗事件は決して珍しい話ではなかったため、中には「強盗に入られたくらいで日本に帰るの?」という人もいたらしい。それでも祖母の意思は決して揺らがなかった。日本は何より母国であり、子供達もいるのだ。
 14年営んだ店の土地を売り、日本へ行くためのお金に当てた。国土面積の関係もあるのだが、60坪もの広い土地にも関わらず、日本円で50万円という安さでしか売れなかったというから驚きだ。
 1990年(平成2年)7月28日、32年ぶりに日本へ帰国するため、飛行機に乗った。祖母は52歳になっていた。飛行機の中から見えた富士山がとっても綺麗だったという。
 後にわかった話だが、ブラジルに住んでいた当時23歳の私の母が、日本で初めて仕事をするために乗った飛行機が、祖母と同じ便だった。もちろんこの時祖母とは面識もなく、私の父とも出会っていない時の話だ。こんな偶然があるものなんだと驚いた。
 日本に来てからすぐ、契約社員として祖父は壁紙工場で、祖母は『日本ワイパーブレード』で、定年になるまで働いた。今まで農家や自営業だったため、初めて月給とりになったという。
 帰国してから2年ほど経ち、祖母は高知に住む長女の出産に立ち会うため、東京から高知まで人生で2回目の飛行機に乗った。
「この飛行機がまっすぐパラグアイに飛んでくれないかな〜と思ったよ。すっごくパラグアイが恋しかった」
日本は治安も良く、パラグアイとは比べ物にならないくらい便利で豊かな国に変わっていた。しかし、その当時は一度も日本がいいとは思わなかったそうだ。
「今では日本が豊かすぎてよくあんな街にいたなと思うけどね。(笑)パラグアイで過ごした時間は長かったから、苦労はたくさんあったけど、友達もいっぱいいたし楽しかったね」


 インタビュー中の祖母はずっと目をキラキラさせながら話していた。それだけパラグアイでの思い出を話すことは、祖母にとって大切な宝箱の中身を、一つ一つ説明するようなものなのだろう。
 私が生まれた時からずっと一緒に住んでいる祖母は、84歳とは思えないほど若く見えるが、苦労の証がシワシワでシミだらけの手に刻まれている。そして私はそんな祖母を誇らしく思い、知らない土地で懸命に働いていた私の家系を素直に自慢したい。

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