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  • 【エッセイ】願わくは、我に七難八苦を与え給へ

    祖父危篤の報を聞いてから駆けつけ、葬儀に出るまでの数日間を綴った話です。苦難の時代を生きた祖父の生涯と、夏の空に思いを寄せて書きました。

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【追想】亡き祖父に寄せて「願わくは、我に七難八苦を与え給へ」最終回

葬儀の日も相変わらずの猛暑で、慣れないスーツの下に滝のような汗を掻いていた。 小学生の頃の夏休みにはよく祖父の家に遊びに行ったものだったが、見慣れたその道中に葬儀場があった。子供の頃は縁もゆかりも無いと思っていた建物にお世話になるのだ。 親戚一同がほぼ同じ時間に集合し、落ち着いた様子で会話をしていた。その中には祖母もいた。小さい体でどこへでも歩いていた祖母も、今は叔父が押す車椅子に乗っていた。 私はこの1年半の月日の重さを改めて感じた。仕事の大半がテレワークになり、外出や

    • 【追想】亡き祖父に寄せて「願わくは、我に七難八苦を与え給へ」第3回

      病院に着いた頃には23時を過ぎてきて、既に正面口は施錠されていたので、裏口から院内に入れてもらった。もう外の気温もすっかり下がっていて日中のような暑さはなかったが、院内は更に涼しく、全身に滲む汗が一気に引いていった。 県外からの訪問者は名前と住んでる都道府県を書く決まりになっているようで、私も名前を書かせてもらった。私の名前は祖父から一字貰っている。苗字も一緒だから、四文字の名前のうち三文字が同じ字だ。同じ書類に祖父と自分の名前が並ぶのを見るのは初めてかもしれない。あまりに

      • 【追想】亡き祖父に寄せて「願わくは、我に七難八苦を与え給へ」第2回

        1945年8月15日、祖父は陸軍士官学校で終戦を知ることになった。 祖父は、熊本の貧しい村に生まれながらも、周囲から期待されて中学校へと進み、陸軍士官学校に採用された。1944年9月のことである。しかし同時に、当時の戦況を考えれば、これは二度と故郷の土を踏めないことを意味した。 この時すでにヨーロッパではノルマンディー上陸作戦が成功し、連合国がナチス・ドイツを押し返しつつあった。一方の日本軍もインパール作戦で大敗を喫し、アメリカ軍は日本占領下のフィリピンへと侵攻を開始した。

        • 【追想】亡き祖父に寄せて「願わくは、我に七難八苦を与え給へ」第1回

          茹だるような7月のある日、いつものように残業を終え、汗をかきながら帰宅してLINEを見ると、母から連絡が入っていた。 「入院している祖父が危篤です。今晩が最期になるかもしれません。」 私はそもそも祖父が入院していることすら知らなかった。あまりに突然だったので、どう反応していいか分からなくなって、しばらく返答に迷ってしまった。兎にも角にも、今晩が最期かもしれないのだ。行かなければならないだろう。 私の地元へ行くには複数の電車を乗り継ぐ必要があり、少なくとも2時間半はかかる。

        【追想】亡き祖父に寄せて「願わくは、我に七難八苦を与え給へ」最終回

        • 【追想】亡き祖父に寄せて「願わくは、我に七難八苦を与え給へ」第3回

        • 【追想】亡き祖父に寄せて「願わくは、我に七難八苦を与え給へ」第2回

        • 【追想】亡き祖父に寄せて「願わくは、我に七難八苦を与え給へ」第1回

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