【追想】亡き祖父に寄せて「願わくは、我に七難八苦を与え給へ」第2回

1945年8月15日、祖父は陸軍士官学校で終戦を知ることになった。
祖父は、熊本の貧しい村に生まれながらも、周囲から期待されて中学校へと進み、陸軍士官学校に採用された。1944年9月のことである。しかし同時に、当時の戦況を考えれば、これは二度と故郷の土を踏めないことを意味した。

この時すでにヨーロッパではノルマンディー上陸作戦が成功し、連合国がナチス・ドイツを押し返しつつあった。一方の日本軍もインパール作戦で大敗を喫し、アメリカ軍は日本占領下のフィリピンへと侵攻を開始した。歴史は枢軸国の敗戦へと歩みを進めていた。
発案者をして「外道」と言わしめた戦法「特攻隊」の実戦投入が始まったのもこの時期であった。

「幸か不幸か、雲染む屍となることは避けられたものの、大空への夢は潰えた」
後年の祖父の手記にはそう記されていた。士官学校卒業前に終戦を迎えたため、祖父が実際に戦争に出ることはなかったのだ。
祖父もまた、間に合わなかった。
私は間に合わなくて良かったと言いたい。しかし、上の世代が多く死んでいくのを目撃し、自らもその命をもって戦う決意でいた祖父にとっては、簡単に割り切れる出来事ではなかったはずだ。

それから、敗戦を迎えると陸軍士官学校は解散になり、多くの候補生が生きる道を失った。我が祖父も目標を失いさまよう中、かつての上官から声がかかる。

「これから日本はアメリカの下で復興を遂げる。経済大国になるのだ。経済大国には金の計算ができる人間が必要だ。お前たちがもう一度日本の為に働きたいと思うのなら、戦争で死ねなかった無念を果たしたいと思うのなら、国税庁へ来い」
こうして、祖父は国税局で税理士としての人生を歩み始める。

そんな祖父が何度もしてくれた話がある。戦国時代、山陰地方で活躍した山中鹿介という武士の話だ。主家である尼子家を滅ぼされながらも、最後まで主家の再興の為にその身を捧げた。その苦難の中で、山中鹿介はこう願ったという。

「願わくは、我に七難八苦を与え給へ」

度重なる苦難の中でさらなる苦難を願うことで、どんな苦難があろうとも乗り越えるという並々ならぬ決意を示した言葉だ。

祖父は、苦難の時代に生まれ、苦難の時代を生きた自分にこの言葉を重ねていたのかもしれない。

私は定刻通りに電車を降りることができた。改札を抜けると、父と弟が待っていた。二人はとても落ち着いているようだった。

今回は間に合うかもしれない。

(つづく)

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