触れたい人、触れられたい人
バイトの帰り道に彼と家まで一緒に帰っていた時、彼からふわっとシャンプーの香りがした瞬間、「抱きしめたい」と思った。
自分から好きな人に触れたいと思ったのは多分その時が生まれて初めてだった。
男の人が苦手になったのは高校生の頃。帰り道に痴漢にあったことがきっかけだった。
触れられたのはだった0.数秒。それでも5年近くたった今も鮮明にあの瞬間がフラッシュバックする。
当時、付き合っていた彼氏はいたが、キスどころか手を繋ぐこともなかった。それでも一緒にいるだけで楽しかったし心が満たされていた。
だから誰かから「性的な対象」として見られているのがたまらなく気持ち悪かった。
大学に入り、ジェンダー系の授業を取ったことをきっかけにそういう性的指向を持つ人が「ノンセクシャル」と呼ばれていることを知った。
自分だけじゃなかったんだ。
それは救いでもあり、自分がマイノリティに属していることに対する絶望にもなった。
小さい頃からお母さんみたいなお母さんになりたかった。
大人になったら自分もなれるのだと思っていた。
でも、セックスなんてしたくない。
何よりも、自分が普通じゃないことが自分で許せなかった。
近くに男性がいると思うと心が落ち着かなくなった。
あの数秒間が永遠にフラッシュバックする。
やだ、触らないで。近寄らないでよ。
次第に、男の人が畏怖の対象として写るようになった。
別れてから毎晩、前より広く感じるようになったシングルベッドで寝るのが寂しかった。
夜中目が覚めると、誰もいないはずなのに、彼の温もりが恋しくて隣に手を伸ばしていた。
目を閉じても、湧き上がってくるのは彼への罪悪感ばかりで、心穏やかに眠すことすらできない。
自分でも自分がわからなくなった。
あんなに今まで男性への接触を避けて生きていたのに、彼を求めてしまう。
これが普通なのだと自分に言い聞かせても、どこか納得したくない自分もいた。
今まで恋愛感情と思っていたものはそうじゃなかったの?
それとも彼に向けるこの感情は恋愛感情じゃないの?
私はノンセクシャルじゃなくなったの?
彼に嫌われたくないがためにそう思い込んでいるの?
私は、一体何なの______?
セクシャリティは流動性のあるもの。一生同じものではない。
悩み続けていたからこそ、そうなのだと思っていても、伝えた時に彼もそう思ってくれるのか、私を受け入れてくれるのかが怖かった。
「自分と無理にそういう行為をして欲しくない」
「同じセクシャリティの人と付き合った方が楽だよ」
別れ話の前にしたカミングアウト後に言われた言葉は、ずっと私が恋人に言われるのだろうと想像していた言葉と全く一緒だった。
だからこそ辛かった。優しさゆえに言ってくれているのだとわかっていても、どうしても涙が止まらなかった。
どうして普通に生まれてこれなかったんだろう。
なんで好きな人に謝らないと、謝られないといけないんだろう。
ごめんね、ごめんね。
ごめんね___________。
「りんには幸せになって欲しいから」
カミングアウトの後、彼に言われた言葉が今も耳に焼き付いている。
「俺にできることはなんでもするよ」なんてことも言っていた気がする。
「ずっとそばにいて、」
あの日言えなかった言葉を伝えられる日がくるのは、多分もうちょっと先。
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