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感情を得ること


1.感情を買うこと

どうも。MIZU(@3477Mizuku)です。

久しぶりの更新だ。

なかなか気持ち的に落ち込んだりと書く気持ちになれなかったからだ。

この世のことというか、根本的に思ってみたのだが、結局のところ行動の結果は、「感情を得ること」と思ったのだ。

お金が欲しい理由も、つまるところ「不安」を払拭するためであり、「安心」が欲しいからと思うのだ。

将来の年金額が気になるのも、年金が貰えない「不安」「不平」を払拭したいのかもしれない。

ひとの意見に批判的になるのも、その人に内在する「善悪」「批判を持つ自分を否定する気持ち」を払拭するため、無いことにするために、行動を起こしているかもしれない。

旅行に行くことも「感動」「快感」「喜び」をお金で買っていると言い換えることができるかもしれない。

美味しい外食をいただくことも、食欲を満たすこともあるが、

食を通じて、「喜び」「暖かさ」などを買うことなのかなと。

パートナーとの時間、映画、ドライブ、スポーツ、趣味もそうだろう。

快楽や愉快な感情を得るために、お金を得る=仕事をすると言い換えると、

より具体的に「何のために?」が浮き出てこないだろうか?

こう目の前の現象を分解、微分化していくと、

感情のヒダや動機まで見えてきたら、日常がまた違った景色に映るかもしれない。

映えた時を過ごせるかもしれない。

こう、自分の胸に手を当てて、得られる感情にスポットを当ててみることもワクワクするかもしれない。

ただの日常に彩りを加えたいのだ。

こういう視点でみると、お金=感情を買う、得るために交換するものと捉えると、、

単なる欲望を満たすだけでなく、人生の経験値を増やしたり、情緒豊かに生きられるスパイスにもなり得る。

ほんとうに、お金ひとつとっても、使う人の自由意思に委ねられているわけだから、

よくも悪くも諸刃の剣と思うのだ。

2.そんなこと言ったって感情よりお金が欲しい

今の人間として生活を維持するためには、お金が必要だ。そんなの当たり前だけど、お金が必要だ。

お金の起源は、詳細はGoogle先生にお任せするとして、物々交換、余剰経済から始まっている。

富裕層が強欲だとか、一部の支配者が富を握っている、ということに不平不満をもらすことも自由だし、

ツイートにはそういった思いの吐露が目に入ることもある。

人間は誰しも強欲で欲張りだから、ピラミッド構造を合法化して、少数の一部の人が差別化するために、

ピンハネ多重構造、官僚支配構造などを利用して、自分たちに不平不満をこないように身代わりを立てて、逃げ道を作っているのだ。

僕だってお金が欲しい。

それはきれいごとではない。

強欲=悪と言いたいわけでもない。

その人の動機によって行動したことなのだから、その人の自己責任だからだ。

単純に、誰々が言ったから、社会がこうだからお金が必要という風に、思考停止として捉えたくない。

しっかりと自分で考え抜いて、結論を出したいのだ。

なぜ、僕も含めて人間が強欲なのかは、今の地球環境、格差社会を見ればわかると思うのだ。

とどのつまり、誰かのうえに立ちたい、誰かより優れたい、誰かより上の地位に居たいという発想は、

地球では人間にしか通用しない理論だ。

宇宙から見ればチリにも満たない我々が、富とか名誉とか地位といった価値観を競争させることで奪い合っているのが現状と思うのだ。

お金があること=善

お金がないこと=悪

ではないのだ。

僕だって、必要十分に生活させていただけるだけあれば良いと思っている。

なぜなら、持ちすぎたら失う不安が増えるので、貯金にも力を入れてはいない。

何かのニュースで、年収10億の人が、投資で富を失い5億になったことで正気ではいられないという記事を見たことがある。

結局、お金に思考や心ごと支配されているといっても過言ではないと思われる。

お金に支配される生き方をするのが、お金と欲望と上手に付き合って行くのかは、その人次第なのだろう…

これにも、こうだ!という答えはないので、ひとりひとりが正解を出すしかないのだ。

それに答えのない問いは意外と楽しいのだ。

3.そもそもなぜ感情を得たいのか?

お金や人との繋がりなどを媒介にして、感情を得るということは、生命活動、経済活動、人間として活動を行なっていくためには不可欠だと思う。

表題の件、、、

僕が思うことなのだが、究極は行動、活動を経て、「じぶんを知るため」と思うのだ。

お金を得て、何かに使う。

習い事に使う、旅行に使う、プレゼントに使う、

それを経て「あぁ……こういうことで自分は喜ぶのか…」「これは嫌だなぁ」「こうしたのに返ってこなくて悲しい…」

お金にまつわる悲喜こもごもは誰しもあると思うが、

特に貯金や投資が趣味の人を除けば、必ず何かに使うと思うのだ。

経験や時間を買うことによって、自分の感情を知る=自分自身を知ることにつながる。

今はびっくりするほど、情報も無料で手に入る世の中だし、SNSの普及で清濁入り交じる情報があふれているが、短時間で得ることが出来ることは間違いない。

この傾向は、今後も続くと思うのだ。

…………

……

では、なぜ感情を知ることが自分自身を知ることにつながるのか?

感じたことであるが、心や魂の声なのだ。意外と自分自身を見ていないし、知らないので、

他者との関わりを通じて、自分の感情を知ることで、間接的に自分を知ろうとしているのではないだろうか?

なぜなら、自分=心・魂であるということを自分自身が知っているからではないだろうか?

自分=肉体としがちだが、

肉体=父母、両親が作ってくれたもの、DNAが踏襲しているものであるが、

ほんとうの自分は心・魂側にあるのではないだろうか?と仮説を立ててみる。

そうすると、肉体=五感(見る、聞く、話す、触れるなど)

感情=嬉しい、悲しい、怒り、妬み、感謝、喜び、不平不満など

五感と感情は必ずリンクしないということがわかってくる。

例えば、それほど親しくない関係の人と食事をしたあと愛想笑いをするときに、

『楽しい時間ありがとうございました!』

と口では言っても、

腹の中では(全然楽しくない…嫌だったなぁ)

など、内と外で言ったことと思ったことが、チグハグな経験をされたことはなかっただろうか??

楽しくない、と思ったのが本音なのだ。

本音こそ、私の本体にならないだろうか?

本来、本音を大切にしていくことが大切だと思うのだ。

建前と本音に差があれば、あるほど、ほんとうの自分から遠ざかっていくので、距離感が出来てくる。

皆さんは、建前と本音が違ければ違うほど、気持ち悪さというか言葉にできない違和感など無かっただろうか?僕はその言葉にできない気持ち悪さがうずうずと腹に残っていた感覚を思い出すのだ。

あぁ…本音で生きたい…と思う。100%は無理でも、

建前一色で生きればこれほど辛いことはない。難しいんだけどねっ!

感情を発生させる原因が心とか魂の形、、

人格形成にあることは心理学でも知られていることだが、

その人格形成を知ること=自分の感情を知る=自分を知ることにつながる。

自分を知ることで他者を知るキャパが増える。

他者を知る=また自分のキャパが増える。

と善なるスパイラルが起こってくるのではなかろうか?

お互いが自分を知り、他者を理解することがあまりにも出来ていないから、その食い違いが大きければ大きいほど、ケンカや争いが起こると思うのだ。

話を戻すと、お金は愛にも欲にもどちらにも使うことが出来るが、

それならば、せめて相手を理解するためや喜ぶため、自分を元気にするため、などポジティブな動機で使わせてもらうと、お金にも意味や意義が生じてくると思うのだ。

もう、欲望で使う時代は終わりを告げるような気がするのだ。

コロナという共通認識が出来た今、ピラミッド型で物事を考える以上に、皆でどう共存、共栄していくか?に意識を注ぐことも大切と思うのだ。

こう全体のことを考えられる人、若者が増えてくることを願ってやまない。






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