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価値観の琴線

 ↑の記事で書いた実家の賃貸契約のために一時帰省する。ゴールデンウィーク前に帰省して、遺品整理をしてきたばかりのタイミングで思わぬ縁が借り手を運んできたことはある意味、幸運だったと思う。

 帰省でいつも頭を悩ませるのは手土産問題だ。田舎に帰ると、野菜やら米やらお菓子やら、いつも山ほどもらって帰るので、手ぶらで行くわけにはいかない。しかも突然、誰が訪ねてくるのか分からないので、少し多めに用意しておかなければならない。10軒ぶんくらい買って帰ることになるので、行き帰りの交通費と併せるとまあまあの出費になる。

 「春に帰ったばかりだし、買って帰らなくてもいいんじゃないの?」と夫は言うが「そういうわけにもいかんだろう…」と思って、いつもよりは少なめだけど買っておいた。

 で、今度、うちの実家を借りてくれることになった人には小さな子どもが3人いるので、私の住んでいる地域の銘菓を食べてもらいたいなぁと思ったんだけど、夫曰く「向こうが大家(私たち)に手土産を渡すならわかるけど、こっちが用意するもんじゃない」とのこと。そうかなぁ。私がおかしいのかなぁ。

 家を借りるに至った経緯を聞いてしまったからかもしれないけど、つらい経験の渦中にいて、肩身の狭い思いでいるだろう人にちょっとした“ウェルカム感”の表現として手土産を渡すことはいけないことだろうか。つらい時って、誰かのちょっとした心配りに救われるってこと、あるんじゃないかな。

 こんな風に感じるってことは、おそらく私自身もつらい時に誰かのちょっとした心配りが身にしみた経験があるからだろう。ひとは誰かからの好意をもらいっぱなしではいられないので、何かの機会に別の誰かにそれを渡すことで(相殺するというと味気ないけど)恩を回しながら生きているんだと思う。

 ただ気を付けないといけないのは、心配りが“施し”のような形で、相手に惨めな思いを与えないようにするってことだ。ひとはありがたいと思うと同時に惨めさを味わうということがある。だから心配りは適度でないといけないと思う。過度な心配りは相手を居心地悪くし、傷つけることがあるから。

 とても返せそうにないと相手が感じるほどのことをしてしまうのはNGだ。

 そのあたりのセンサーは個人差があるので、実際に会ってみて、その雰囲気で判断するしかないかなと思う。私が用意した手土産はほんとにささやかなものではあるのだけれど、量とか金額とかではなく、そういうことをされること自体が嫌だという人もいるから。

 とくに今回は大家と借り手という、ある種の上下関係がある中でのやり取りなので、相手が受け取りを拒否しにくいという要素は無視できない。

 長らく精神科で働いていて、こころが疲れている人たちをたくさん見てきて思うのは、相手の親切を受け取るにもエネルギーがいるということ。相手のこころが閉じている時には親切ですらうっとおしいというか、ありがたいけど迷惑みたいなこともあって、「いま思うとあんなに無下に断ることもなかったけど、あの時はああいう対応で精一杯だった」みたいなことを後になって打ち明けてくれる人もいて、私もそういうことを学ぶことができた。

 だからもしかすると、夫の言うことのほうが正しいのかもしれない。でも、そうじゃないのかもしれない。両方の可能性を頭に置きながら、もし受け取ってもらえる感じだったら、渡してみようと思う。というのも、私が渡す相手がどう感じるのかだけでなく、その手土産の向こうにいる彼女の子どもたちの顔が浮かぶからだ。

 子どもたちは、自分の母親に優しくしてくれる人を本能的に味方だと感じる傾向がある。「自分たちは本当にあの家に住んでいいのだ」ということがモノを通して承認されるという意味合いにもなるだろう。子どもたちにとって、こういった承認や肯定、受け入れられている感じを住まいに対して持てるというのは、暮らしの安心感につながる大事な要素だと思う。

 手土産1個で大げさな!と思われるかもしれないけど、実はこういう私たちの一つひとつの振る舞いが私たちが安心して暮らせる基盤を作っているんだろうと私は考えていて、とくに大変な体験の渦中にいる人たちについては私は慎重になりたいし、センシティブでいたいし、温かな気持ちでいたい。

 よく考えること行動にあらわすことの両方を大事にしよう。この手土産話はそんな私の価値観の琴線にナイーブに触れることなんだと思う。

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