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過去からの手紙

  退職してから、もう医療職には就かないと決めて、これまで取っておいた資料をほとんど処分してしまった。その後、遠方での学校の講義依頼が来て「さあ、準備しよう」と思った時、ほとんどのものを捨てたことに気がついてがくぜんとした(笑)。

 ただ片付けそびれたコーナーがあって、そこにわずかに昔の講義資料が残っていた。なるほど、この頃の私はこういうことを考えていたのね、と我ながら感心する。その中にG県に講義にいった時のお礼メールがでてきた。たぶん自分でも嬉しくてプリントアウトしておいたのだろう。

 講義の後、数日経って届いた依頼者からお礼のメールだった。その中に繰り返し出てきたのが「COCOAさんがイキイキと話をされているのが、とても印象的でした」という言葉だった。「私が後輩たちに話す時、COCOAさんのように自分の仕事を熱く語れているだろうかと反省しました」と依頼者は書いていた。熱量が伝わったのだろう、と思った。

 そうか。遠方から講師を呼んで、目の前で話をしてもらうことって、そういうことなのかもしれない。地域や背景が違うので、講師と同じような実践はできないかもしれない。それでも、こんなにイキイキと仕事をしている人がいて、自分たちの仕事の魅力や可能性について楽しそうに話してくれている。その姿そのものに背中を押されるってことがあるんだろうな。

 私はずっと自分の仕事が好きで、夢中だった。そのことを鮮明に思い出した。多くの患者さんたちから教えてもらったことをたくさんの人々に伝えるのが自分の使命だと感じていた。だけど、新型コロナがやって来て、私だけでなく医療従事者は長期の疲労困憊状態に陥った。研修は中止になり、交流会もなくなり、対面でのアウトプットの機会がほとんどなくなってしまった。機会だけでなく、そこに注ぐだけのエネルギーも消耗してしまった。

 管理職として現場を守ることに神経を使い、収入の激減した病院経営者からはプレッシャーをかけられ、現場の人員が削減される中で、私はダウンした。新型コロナ自体は誰のせいでもない。全てがどうしようもないことだったとは思う。けれど、私はもう医療従事者を辞めたいと思った。だから、退職する時に思い切ってこれまでの仕事の成果物を捨ててしまった。

 でも、わずかに残っていた資料からお礼のメールがひょっこり出てきて、私はあの頃の自分と思いがけず再会することができた。

 占いとかで「うれしいニュースがやって来るかも」とか「吉報が届きます」というような文言をよく見聞きするけれど、それってもしかしてコレなのか?とか思う。正確に言うと「こういうものも含まれるのかな」って感じ。過去から自分に対して贈られるメッセージ。とても素敵なプレゼントだ。

 とはいえ、医療機関に再就職するとか、そういうダイレクトな話ではなくて

多くの患者さんたちから教えてもらったことをたくさんの人々に伝えるのが自分の使命だと感じていた

↑ここの部分に関すること、その部分の明かりが再び自分の胸に灯されたような、そんな気持ちになった。

 あちこちで話をさせてもらう機会がこれまでもたくさんあったけれど、私は自分のしていることを「どうだ、すごいだろう」と思いながら話したことはない。むしろ、患者さんたちの持っている力を見せてもらったことの対価として、恩返しのような気持ちで話をしてきた。「こんなすごいこと(彼らの回復)に立ち会わせてもらったのだから、私の記憶にとどめておくだけではもったいない」というのが動機だった。

 そのメールはそういう純粋な動機を思い出させてくれた。久しぶりの講義の準備をしている私にとって、いま一番たいせつなメッセージがやって来た。ありがたい。多くの資料を捨ててしまったからこそ、その一通のメールが光り輝いていて、見つけることはできたのかもしれない。そう考えると、古いものを捨ててしまった甲斐があったというものだ。

 さあ、講義資料の準備を再開しよう。

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