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自他の境界

 二日連続で眠れなかった。全国で新型コロナの感染拡大が再燃してきていて、来週にせまった遠方での講義がどうなってしまうのか、それが不安で寝付けなかったのだ。
 そもそもはオンラインで頼まれていた講義。それが新型コロナの感染者数が落ち着いてきて「じゃあ、現地で」となった仕事依頼だった。直前になって、第7波到来か?という状況になってきて、もはやオンラインか現地か、どちらに転ぶか分からない状況になってきた。

 現地でやるつもりで、グループワークもたくさん盛り込んで用意してきた講義。けれど、参加者の安心・安全を考えると、オンラインにすべきなのでは?と頭の中でぐるぐる回る。この不安への手あてとして、自分ができること/すべきことは何かを考えていたら眠れない。

 自分が依頼者ならどうする?オンライン→現地と変更して、直前になってまたオンラインに依頼を戻すのは言い出しにくいかも。じゃあ、私から言い出してみようか。
 いや、待てよ。「どうしますか?」という私の投げかけそのものが『こんな状況になってきて、私は本音を言えば行きたくないんですけど』と受け取られはしないか(←そんなつもりはないのに)。あるいは「学校の判断」を早急に迫る質問として大げさに受け取られないか?翻って「判断が遅い」という批判的メッセージになったらどうしよう。

 ああ。どうすればいいのか分からん。

 そんな感じで浅い睡眠を終えて目覚めた朝。ふと答えが降りてきた。

 オンラインor現地というのは学校が決めることであって、私がすべきことはどちらになっても対応できるように準備しておくことだ。

 当たり前のことと言えば、当たり前のことなんだけど、準備の都合もあって、私としてはどちらかに早く決まったほうが安心だから、自分が学校に対してどのようにふる舞うべきかということばかりに関心がいっていたことに気がついた。その問題について学校と話し合わないでいることに、ある意味、耐えられなかったのだ。

 しかし冷静に考えてみると、他人が責任をもって決めることまで私が背負い込むのは、むしろある種の領空侵犯であり、相手を信用していないということになるのではないか?よしんば、相手が私に気を遣って、言い出せないままに「現地で」という選択をしたとしても、それは(消極的であっても)相手の決めたことであり、相手が責任を負うべきことだ。

 相手が決めるのを助けたり、ともに責任を負ったりすることも仕事に含まれるかもしれないけれど、お金をもらって講義をするということの本分は予測できる事態に備えて依頼内容が変わってもベストを尽くせるようにする。ただ、それだけなのではないか?

 ここで再び依頼者の側に立って考えてみる。もしも私が依頼者なら、「どうしますか」と尋ねてくれる相手よりも、状況が変わった時に「大丈夫ですよ」と二つ返事で答えてくれる相手のほうがありがたい。
 私も組織にいたから分かるけれど、窓口になっている先生に決定権はない。だから講師(私)から「どうしますか」と尋ねられたら、いったん上にあげるしかないし、上にあげたら大ごとになるのは決まっている。
 組織ごとにものごとを決定するスピードというものがあって、そのスピードに介入することになりかねない。私が望んでいるのはそういうことではないにも関わらず。

 お金をもらって講義をするということの本分は予測できる事態に備えて依頼内容が変わってもベストを尽くせるようにする。ただ、それだけなのではないか?

 このことは今後、個人で仕事を引き受けていく上で、重要な気づきであるように思うので、ここにこうして書き留めておこうと思う。

 さて、二日連続で眠れなかった、ということを冒頭に書いたけれど、その前の晩は最近、一緒になったプロジェクトチームのことを考えていたからだ。ほぼ初対面のメンバーが集まったチームの中にいる人のことが気になっていた。ポテンシャルが高そうなのに(会合の時間が短すぎて)自分の考えを言い出せない感じの人がいた。その人の口元には言いたいことが漂っているのだけれど、うまく言えないといった印象を受けた。
 その人だけ他の人たちとバックボーンが違っていて、うまくいけば、その違いを良い影響に変えることができそうな予感がする。その人がこのグループにいることの意味、みたいなものを作り出せそうな。
 どうすれば、彼女のポテンシャルを引き出せるチーム作りができるのか?ということを考えていたら、寝付けなくなった。

 これについても、先の仕事の一件と同じようなことを自分に問うてみる。つまり相手の負うべき問題を自分が侵していないかということだ。私はチームリーダーでも何でもない。いわば平たい関係のプロジェクトチームであり、その中で彼女が自分のポテンシャルを発揮できる/できないは、彼女自身の問題であり、そのことで私があれこれ考えるのは出過ぎた考えではないか?と。

 この二日間、私は他人のことばかり考えている。

 私の適応障害の根幹にあるのは、こういう考え方なのでは?と。自分の課題と他人の課題をごちゃまぜにすれば、他人の問題はコントロールできないから消耗するだけ。自分勝手にヘトヘトになっていく。そういうクセがあるぞ、自分には。と思った次第。

 自分のこういう考え方や振る舞いは、時に周囲から「気が利く人」とか「優しい人」と評価されるので、余計にまずい。自分でそのクセを強化してしまうからだ。

 ただ、ただ、である。

 今回の二つの問題は微妙に違う。私が自他の境界を越えやすいというところに端を発しているものの、後者のプロジェクトチームの場合は彼女のポテンシャルを引き出すとまではいかなくとも、ポテンシャルの発揮を妨げないということについては、私にできることがあるように感じるからだ。
 そこは彼女に対してだけではなく誰に対してでも、チームメンバー同士が少なくともそれぞれに果たすべき役割であり、負うべき共同責任であるように思える。
 私が助けてあげられる部分もあれば、他のメンバーから助けてもらえる部分もあるのがチームというものだ。そうやって自分の領分を少しだけ超えたところに手を差し出し合うことがチームでやることの意義だと思う。

 自分の考え方のクセを整理して、あらためて2つのできごとの違いを眺め直して、ようやく私の考えの整理がついてきた。

 講義の依頼については、決定は相手に任せて、私は入念に準備をする。プロジェクトチームについては、少々のおせっかいも含めて、各自のパフォーマンスの発揮に助力する。こんな感じで。

 さあ課題整理ができたので、後はやるべきことをやれば、今夜は安眠できるはずだ。

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