人見知りの勇者、村人に会いに行く

 30年間、続けてきた仕事を春に辞めて、無職になってからおよそ4ヶ月が経った。初めは将来が見えていない状況に慣れず、焦って、アレコレ思索を巡らしていた。その間に大学の社会人履修コースが始まり、オンライン上ではあるものの多くの出会いがあり、その後、単発の仕事をひとつ引き受けたことで忙しくなり、将来のことを考える時間が取れず一時停止(棚上げ)になっていた。

 その履修課程もあと一ヶ月足らずで修了というところまで来て、単発の仕事も終わったので、一時停止を解除して、そろそろ次のことをまた考え始めるフェーズに入った。

 一時停止にしていたとはいえ、何も用意していなかったわけではなく、これから会うべき人を見極めていたというか、その時期を見極めて待つフェーズにいるという風にとらえていた。急がば回れじゃないけど、時機を見るということはわりと大事な気がするから。

 今週末、その会うべき人(と自分が勝手に定義した人)に初めて会うことになっている。メールでは何度かやり取りしているのだけれど、私の思惑(この出会いに自分勝手に意味づけしていること)は先方にまったく伝えていないし、その他大勢的なイベントで会う予定。

 「この人だ」という自分の感覚が正しいのかどうかは、会ってみないと分からない。だからこそ会ってみようと思う。

 これから私がやってみたいと考えている仕事に直結するかもしれない。そう感じる人にはまず会ってみる―今はそういうフェーズに入ってきている気がする。

「この人に会ってみたいと感じる人には、会いに行ったほうがいいよ」
この前、授業で学生たちに話した言葉だけれど、今は私自身にかけたい言葉だ。

 一週間おいて、別の人にも会うためのオファーを申し込んでいる。いま約束の日時を調整中。初めての相手に会うのに緊張しないか?と問われれば、当然、緊張する。

 前にも書いたように、私は過剰適応の傾向があるので、相手に好かれる必要がさほどない時であっても「良い人」をやってしまう。良い人であることは悪いことではないけれど、ここでいう「良い人」はあくまでも自分がそう思っている良い人像であって、相手にとって良い人なのかどうかはあまり吟味されていない。そういう意味では、あまり意味のない非効率的なふるまいであることが頭では分かっているのだけれどやめられない―まあ、それが過剰適応の本態なのだ。

 そんな自分の傾向が分かっているだけに、初めて会う相手への緊張は大きい。それでも頑張ろうと思えるのは、RPG(ロールプレイングゲーム)と同じで、前へ進むボタンを押さなければ何処にも行けないことを知っているからだ。
 どれだけ課金してアイテムを集めたところで、前進して村人たちに話しかけなければ宝の持ちぐされ。前に進めばライフを落とすリスクがあるけど、ライフを維持するためにずっとスタート地点に立ち続けるのは本末転倒。

 私は頭でっかちなのでアイテムを万全にしてから出かけたいタイプだけれど、今はアイテム集めじゃなくて、ひとに会ってヒントをもらうフェーズにすでに入っているのだ、と自分の中のもう一人が伝えていている。その声が聞こえる。

 だから自分を奮い立たせて、前進のボタンを押そうとしている。

 時は来たれり
 叩けよ、さらば開かれん

 大丈夫。ゲームと違ってライフを奪われることはないから。
 
 メールの送信ボタンを押す度に、私は小さな私を勇気づけている。そのことをnoteにも書いて、お守りにする。

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