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定番ドラマからの脱皮

 何が正解か分からない今、自分の軸というか、自分が何を大切に生きていきたいかについて、自分の頭で考えないといけない時代になっているなと思う。

 パターン化や常識というものから脱して、多様性という自由を手に入れたら、まるで服を脱いで裸になったかのような、裸の自分がどのようなポージングをすればいいのかを自分で決めていかないといけない時代に突入した。新しい不自由の始まりだ。

 裸になるという表現が極端だとすれば、たとえばすでにランドセルの色が自由に選べるようになったこととか、制服の私服化とか、選べることのストレスに、選ぶことに伴う責任という新しいストレスに私たちは晒されている。

 いつも書いている通り、それは良いことでも悪いことでもない。ひとつの大きな時代の変化なのだ。

 今期の連続ドラマ枠は、その変化の流れと戸惑いをテーマにした作品が多いように思う。「リコカツ」はこれからの結婚/離婚観を古い価値基準から問い直そうとしているし、「大豆田とわ子と三人の元夫」はさらに新しい軸から結婚/離婚観、家族のありよう、ワークライフバランス、生きていく上で大事なものは何かをテーマにしている。その二つよりも少し年齢層を下げた「コントが始まる」はいかようにでも生きていける今の時代だからこその不自由さと混沌が描かれている。職業選択、結婚、家業を継ぐ、岐路に立つ友情などなど。「今ここにある危機とぼくの好感度について」というNHKドラマは、周囲に嫌われないよう長いものに巻かれ、部屋の隅で目立たないように穏便に仕事をしていた若者がそのポジションから押し出され翻弄されるという筋立てになっている。少し年齢層を上げたあたりでは「生きるとか死ぬとか父親とか」という不思議なタイトルの連続ドラマがあって、独身アラフォー女性と父親の関係を基軸に、女性の職業観、子どもが親の面倒を見るという役割交換、「こう生きなければならない」という価値観を柔らかに問い直すといったテーマになっている。

 少し長くなってしまったけれど、どれも事件が起きたり、記憶喪失になったり、不治の病になったりするような内容ではない。明らかな悪者もヒーローも出現しない。とことん私たちの肌感覚に合う“日常”に寄り添っている。冒頭に書いた「これまでのストレス」と「新しいストレス」のはざまで右往左往する、等身大の私たちの姿をていねいに描いている。

 「生きていくこと、働くことって大変だよね」というのがベースにあって、だけどそこには少し見方を変えたり、仲間を得たりすることで、希望の種を見出していくことはできるんじゃないか。私たちがともにいる意味、のようなものが(あくまでも説教臭くなく)あいまいに提示されている。

 生きていくことや働くことには、健康の問題や親の介護、育児、いちばん大切な人と分かち合えないつらさが含まれている。人類が始まって以来、ずっと繰り返されているだろうこの問題が、いま一度クローズアップされているのは、繰り返しになるが「新しい自由の中で、正解のない世界の中で、より正解に近いものをどうにか見つけていきたい」という、市井の人々の切実さと健気さなのではないだろうか。

 好きなもの、なんでも選んでいいよ。

 そう言われた時のわくわくした感じと、本当に好きなものを選べるか不安な感じの両方を、いま多くの世代が抱えている。時間をかけて選んだ挙句「これ、いいな」と思って選んだピンク色のポーチを母親に見せると「男の子なのになんでピンクなの」と問われる時代は終わりつつある。しかしそれは無難に青のシューズを選べば、理由を問われずに済んだ時代もまた同時に終わるということだ。何を選んでも理由を問われる(かもしれない)時代は、それはそれで別の大変さがあるだろう。誰からも理由を問われないこともまたストレスかもしれない。

 でも、ぐちぐち言っていても仕方がない。大きな流れはすでに舵を切っているのだ。どんな時代にも“ていねいさ”というのは救いのワードなのではないかと思う。

ていねいに生きる。

 最近、私がはまっているドラマに共通するのは、そのあたりかもしれないと思った、という話。

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