ゆいの部屋🌸日々 こころ 日記🌸
私が思う、いろんなこと。雑記帳。
いろいろ雑文、私のお仕事関係の事をゆるーく書きます
コロナ禍で選別されたかのような職業の中で、生き残れる仕事とは、、、人の役に立つ仕事なんですね、、
私は、小学校の頃から少し個性的だった。なんとなく、自分の違和感を感じつつ、時々、男子とはトラブルもあったけど女子からは、可愛がられてきたので、そんなに苦労せずに学校生活は送ってきた。 小学校高学年で両親が離婚し引っ越し。転校先の中学校は、不良の巣窟。しかし、そこでも順応性良く、おっきなトラブルなく卒業。高校では、イケてる女子との違和感を感じつつも、無難に卒業。家族の進めもあり、人と接する仕事がしたいと感じて看護学校に進学。急性期病棟で仕事するが看護師としての適性はあんまりない
私が24歳の頃、ネットで知り合ったオフ会の後、別の日にカラオケに誘われた。 女の子が、別の男の子から私を誘うように言われたと聞かされた。 彼は2つ下の大学生だった。就職先は証券会社に決まっていた。私はフラフラしていた頃だったので、カラオケに参加し、皆で歌っていた席で、彼は隣に座り、私の手の上に手をおいてきた。帰りの電車で、また会ってほしいと言われたが、私は真剣に付き合う気は無くて、ダークで良ければ。と返した。 その後、何回か遊んだ記憶はあるが、面白くなくて退屈で、他に会っ
気分の波を自覚すると、つくづく、アップダウンしている自分に気づく。 休み前は、ワクワクして寝不足になる、今しなくても良い事をひたすらしてしまう。このイラストも、コパイロットで作成した絵ですが 2時間くらいかけてしまいます。 日曜日の朝も、いろんなカフェのモーニング食べに行きます☺ この、日常の気分転換が、波がある人は大事で、SNSでアップしたり、自己発信します。行動が活動的で露出が高めの人は、気分の波を高めている行動なんだと思います。 まだ、こういう小さい波は、全然良いのです
朝7時 贅沢なモーニングを食べなから 久しぶりにノートを書きます。 先週は仕事で2回グループワークがあり、同じようなメンバーで、話し合うが、また同じ面子だよねーって、言いながらもそれが、楽しい。 私の仕事はエッセンシャルワーカーなので、同じように、自分のことより、社会の事を考えた人が集まっている。 今の仕事は、11年、同じ系列の仕事を合わせると24年になる。思えば遠くに来たもんだ。 元々、保健師になりたかったが、今になると、行政の枠からはみ出てしまうので、今の立場でよかった
私には、気分の波があり、不安が強く長年の不眠症で、軽い睡眠導入剤は処方を受けている。 若い頃の気分の波はひどく、一時は、人格を乗っ取られているかのような時期があったと振り返る。 私が習った躁うつ病というのは、昔ながらのⅠ型で、Ⅱ型という概念は記憶に無く、それを知ったのは最近の事。 亡くなった父はうつ病の診断を受けていたが、若い頃からの周期性鬱だったので、双極のⅡ型に間違いないと思う。 私たち家族には、全員感覚過敏がある。聴覚、嗅覚、視覚、触角、味覚等。 それ故、好き嫌いも発生
久しぶりの投稿です。ぎっくり腰になってしまい、毎週日曜は、近くの安いスーパー銭湯に通い、温めて、運動してマッサージ器しています。やっとnoteを書けるくらいには回復しました。 私の腰痛の事はさておき、私は、12歳から19歳までの7年間、風呂が無い 二間の文化住宅の2階に母と姉と3人で生活していた時期がある。 思春期に、家の風呂が無いという貧乏生活を送り、二度とそんな生活は送りたくないと思っている。 双極性障害であっただろう父は、仕事が安定せずに、転職を繰り返し、おかげで私たち
毎年毎年、12月は忙しい。仕事も私生活も。 それで、私は冬が始まると、すぐに環境に馴染めなくて、必ず体調を崩す 年末に入院したことが2回ある。 1回目は、火傷、2回目は扁桃炎をこじらせて化膿してしまった。救命救急病院に入院して、年末年始は病院で過ごし、ペースト状の食事を食べた。絶食期間が3日ほどあり、体重は数キロ減った。 その後から、あすけんで、食事と栄養について記録をつけるようにした。他にも、睡眠アプリ、体組成計アプリ。健康を維持するために毎日記録している。 その甲斐あって
高校の同級生が亡くなった。癌で3年闘病生活を送っていた。 美人で優しくて、穏やかで怒る顔は見たことなかった。 実家は裕福で両親も人徳があり、幸せそうな家庭に育った彼女 大人になっても交流があって、職場結婚して子供ができ、子育てに専念し 子どもたちも大きくなって、趣味の手芸やダンスなども楽しんでいた。 何時までもきれいで、前向きでいつも輝いていた彼女は、その人生を最後の時まで一生懸命生きていました。素晴らしい人で非の打ちどころがない私の自慢の友人でした。 喪中の葉書を受け取り
著書「うつ病新時代」著作者:内海健(勉誠出版) この書籍は、言葉が難解で私は何度も繰り返し読み、線を引くなどしてBPⅡを理解するために勉強した。その中の、いくつかの文章を引用する。 所感 ①に関して:人生そのものが波乗り。この言葉通りなのだ。私は20代半ばの時に、他人から、普通に生きる事を勧められた。 ②変化・行動的・波乱・変更・ロマンス・才人・創造性。これも、この言葉通り。私は、この書籍を読み、父の事が書かれているかと思うくらいピタリと当てはまった。それと同時に、父の転
長らく、日記を書けずにいましたが、久しぶりに少しだけ書いてみます。 私は、幼少期からいろんな事があって、山あり谷あり波乱万丈でした。 好むも好まざるも、この家系に生まれた為に、いろんな体験をする運命だったのだと、今は思っています。 亡くなった父は、自分の生き辛さを、異母兄弟がいたからだとか、父親が跡を継がせなかったからだとか、家族のせいにしていた節がありました。 私は、もちろん、自分の複雑な生い立ちは父親のせいだと思っていました。 そして、前夫のせいで、自分のせいで、こんな苦
私は、地域福祉を仕事としています。昭和30年代に繁栄した団地群は、今はもう、老朽化してシルバータウンになっています。高齢化率は40%を超えて高齢者を支える世代が少ししかいない状態です。そのシルバータウンでは、孤立して亡くなっていく人が後を絶ちません。この長い夏場で、熱中症も原因の一つでした。自宅で亡くなる事は自然な事だと思いますが、誰も気づかずに時間が経過してしまう事が1番問題だと思います。 家族機能は崩壊しており、子どもであろうと、「知らない」「関わりたくない」と言えば拒否
あまりに忙しくて、体もきつくなっています。来週が終われば仕事の山を越えるので、それまで休みます。
今まで生きてきて、気分の波という概念を知らず、そこに自分の謎の鍵があることも知らなかった。 私は一体何者か?父は?子どもは?うちの家族、、家系を辿って、何かあるけど、何かがわからなかった。それが、2年前にわかった。気分障害、双極スペクトラム。私たち一族が翻弄されてきた謎は、そこにあった。 一見すると、他者と何ら遜色なく、むしろ、真面目で優秀。なのに、何か違う。 一貫性が保ちにくい、周囲から離れたり、周囲に近づいたり、熱量が高いけれど、出力がコントロールしにくい。熱量に反比例し
私は、幼いころから、父の繰り返す「鬱」を間近に見て、家の中は荒れて精神的に病んだ父が怖くて仕方なかった。 私は自分が同じように「鬱」にならないように生きてきたが、私の考えていた鬱は、いわゆる大鬱で、布団に寝て起き上がれないような状態が幾日も続く事だった。気を付けて生きてきたからか?大鬱にはならなかったけれど、「躁」や「軽躁」は防ぐことができず、イライラや不眠、不安、寂しさ、落ち着きの無さ、生きる事への無気力さ等、小さな「鬱」は、今もある。 「鬱」と聞いただけで、怖くて逃げて
気分の波がある私は、ちょっとしたマイブームがいろいろある。朝散歩・ネイル、まつげなど、周期的に収集したり、動画見たりして、2ヶ月くらいはそれにはまる。 継続していることは、睡眠アプリ・栄養アプリ・家計簿アプリ・各種サプリメント・図書館通い。これに加え、夏場はやはり躁傾向なのか? 行ける範囲のカフェ巡りを日曜限定でしている。 ランチは、あまり興味がない(少食で胃腸が弱い)ので、モーニングかアフタヌーンタイムに行っている。星乃珈琲店やコメダ珈琲店は、前からよく通っていたが、最近は
亡くなった父は、私が物心ついたときから、うつを繰り返していた。2年働いて、半年真っ暗な部屋で寝ていた。両親は、私が12歳の時に離婚。その後、住むところを失った父は、住み込みで働き、2年後に母とよりを戻すが、父が退職するまで両親は別居していた。父はその後も、ちょいちょい寝込んだが離職するほどではなかった。 今思うと、双極性障害だったと思うが、鬱だと聞いていたので、私は、自分は鬱にならない!仕事は続ける!という誓いの元、今まで転職は数回しているが、離職期間は産前産後の1年だけで