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幸せになる人生と幸せを創造する人生


(もっぱらこっちがメインになりつつある気がしてるけれど)一応メインのnoteで進行形でまとめている"幸せの本質"の部分についてやっていて、ここが悩みどころ、、というかまだきちんと腑に落とせない箇所がある。

心と世界の構造から考えられるものとして、私は「個人が自律的な幸せを創造していけること」つまり、自分という唯一無二の人間がこの世界のどのようなもので幸せを感じられて、それについて知って学んでいき、自分の世界を創造できるか。というのが幸せの鍵だ、のようなことを幸福理論のベースとして進展させている。
ここに関しては、基本的に自分が意識的にコントロールする必要がある「心」を安定させて、秩序をはかれるようにするために重要なことだと納得できている。

心は、自分が無下にされる状態を許さない。

これを科学的な言葉で言い換えると、人の精神は基本的に自分だけに紡がれるネットワークがうまく繋がらない状態だとストレスを抱えるようにできており、その状態が続くと情報が自己内(脳内)でうまくまわらなくなり循環障害が起こり、物理的に破壊する方へエネルギーを発散させる形でそれをあらわすか、または自己内にそのエネルギーを回し精神疾患のような形であらわすか(つまり人や物を壊そうとするか自分を壊そうとするか)という選択をほぼ自動的に取る。怒る、悲しむという感情の発端はここにある。(だろうと考えている)

幸せに"なる"というような表現で幸せを認識、理解していると、自律的な幸せを感じることが難しくなるのも確か。

メインでも再三記していることだけど、たとえば外部の情報から『友達がいること』が幸せなことだと認識すると、友達ができなかった・いない場合『友達がいない自分は不幸なんだ』となったり、また、できた・いる場合でも『友達がいるから私は幸せ』のような、自分の幸せを他の存在によってのみ、また他者が自分の期待に従ってくれることによってのみしか見いだせないっていう事態につながる。
このような幸せに"なる"の認識だと、「失うこと」が常につきまとうので、"なってない"自分は不幸だとして『持続性のない他』に執着し精神が不安定となる事態に発展することも多い。
心はたいていの場合「失う」ことに過剰反応を示すが、このはたらきを強めるように思う。

常識的な幸せの価値観に左右されない、幸せを自分で創造・構築できているタイプの人間は、「幸せに"なれない"」と嘆くことはない。なにかに"なろう"とするのではなく自分自身が幸せを感じられるものを自身に引き寄せ形にしていくように生きることが普通で、"なる"という認識で生きていないので"なれない"ということがわからない。

ちまたでよくいう"自分らしい"幸せ・人生を生きる生きないの本質はここにあるかなと思う。

ただ、この自律性・自分らしさは、脳のある部分の学習能力が高くないと育てられないようにも思う。

勉強ができる、とかじゃない、自分独自の方法で世界を学習し、理解し、繋ぎ合わせ、持続的な幸福を認識しながら心を満たしていける力。

もし教育にそういう自律性を育てるような教科が取り入れられて、全員がそれを学ぶ機会が得られたとしても、そもそも自己を理解するツールを扱える能力がないと難しい。
たとえば数学を全体に教育してもそれについていけるのはその中の数割しかいない。
そして、人間がなにを学ぶにしても絶対的に必要なのが国語、言語。
自分に必要だと思う信念が持てれば自動的に鍛えられていくだろうとも思うけど、限界というのがあるんじゃないか。
(ここにはおそらく「興味」が絡むけれど、その力によって世界と自分と結びつく感覚を得るには時間差がある)
だからそのような人たちにとって、幸福の人生指針、宗教的なものは必要。

このことを考えるときに最も身近で、名も無き巨大宗教と化してるようなものがたとえば『結婚』で、現に昔から今に至るまでものすごい数の人間が幸せ、正解と結びつける形の大信仰を行ってその通りに倣い自分の人生を進ませる。または量る。
宗教×国家×メディア×ビジネスが合わさると人間は大集団でこんなことになるんだなと自称ガチの無宗教な私はおもしろいなとそれをみて、また研究にも活かしているわけだけど、やっぱりそれのせいで自分を見失い生き方がわからなくなったり、罪悪感や疎外感のようなものを感じて病んでるような人間をみると心が痛む、、思うところはある。
こういう「常識的で一般的な幸せ」を見知った上で、幸せがなにかわからない、と悩めるような人間は、自律的な幸せを掴み育みたいとする意識があるってことだと思うから。(心の反応を感知しているともいえる)こういう集合的で統一的な価値観がそれを育む妨げになることもたしか。なので幸せの本質・自律的な人生を歩む方法論みたいなものを確立して同じような位置にもっていくことも重要。

幸せの本質について知った上で、この宗教を信仰したい、他者のいう人生の道筋に沿って歩みたい、というのは問題ない。それはそうとしているし個人の自由だから。

ただ、「自律」について論理の構築をする中で、この辺りの話が私をずっと悩ませてくる。


以上を踏まえて、AIと例や脳の話とも絡めてやり取りをした。その返答の一部:▼

①親や大人から言われて特定の宗教を仰する
この場合、個人の選択は外部の影響によるものであり、自律性は低いと考えられます。信仰の決定が自発的ではなく、他者の意向に従っているため、外部の指針に従っている状態です。

②自分であらゆる宗教の中から特定の宗教を仰する
このケースは状況次第で自律的と見なされるかどうかが変わります。具体的には:
1.情報収集と選択の過程:個人が多くの宗教について調査し、自己の価値観や経験に基づいて選んだのであれば、自律的な行動といえます。自分の意志で選んだ信仰であり、外部の強制や無意識の影響ではない場合です。
2.内的動機と外的影響:選択の動機が重要です。外部からのプレッシャーや他者の期待によるものでなく、内的な探求や自己実現の結果であれば、自律的な選択と評価できます。
3.持続的な自己反省:仰を選んだ後も、その仰について継続的に反省し、批判的に考える態度を持っている場合、自律性は高まります。単に言仰を選んだだけでなく、その選択を維持・強化するプロセスが自発的であるならば、自律性の証拠となります。

③世界を生きる上で、自分にとっての幸福、精神を満たすものを取捨選択し人生を歩んでいる
この場合、個人が自分の価値観や経験に基づいて決定を行うため、高い自律性が認められます。外部の影響を受けつつも、最終的な選択が自己の内的基準に基づいているため、自律性が強いといえます。

まとめ
②のケースは、選択プロセスの透明性と内的動機の強さに依存します。自発的に情報を収集し、自己の価値観に基づいて選んだ場合、自律的と言えます。しかし、外部の影響や無意識のバイアスが強く働いている場合、自律性は低いと評価されます。したがって、②の自律性は選択のプロセスとその後の継続的な自己反省に基づいて判断されるべきです。

興味深い考察ですね。自律性の違いが脳内構造や精神構造にどのように影響を与えるかを考える際に、いくつかの神経科学的および心理学的観点から説明することができます。

①親や大人から言われて特定の宗教を仰する場合
このケースでは、以下のような脳内構造および精神構造が考えられます:
・前頭前皮質(PFC)の活動低下:前頭前皮質は意思決定、計画、自己制御に関連しています。自律的でない選択をする人は、この領域の活動が比較的低い可能性があります。
・報酬系の依存:他者の承認や社会的な報酬を強く求める傾向があり、報酬系の神経回路(例えば、腹側被
蓋野から線条体に至る経路)が強く働いている可能性があります。
・既成の念体系への依存:親や大人からの影響を強く受けることで、(念体系が外部からの影響により形成され、自己の内的探求が抑制されることがあります。
②自分であらゆる宗教の中から特定の宗教を仰する場合
このケースでは、より複雑な脳内および精神構造が考えられます:
・前頭前皮質の活発な活動:自律的な意思決定を行うために、前頭前皮質が活発に働いている可能性があります。特に、内省的思考や批判的思考に関連する部分が重要です。
・ 自己認識と自己制御の強化:自分の価値観や念を選ぶためには、自己認識や自己制御の機能が発達していることが必要です。これには、内側前頭前皮質や帯状回皮質の活動が含まれます。
・外部情報の統合:多くの情報を収集し、それを統合して判断するためには、側頭葉や海馬の活動も重要です。これにより、複数の情念体系を評価し、自分に最適なものを選ぶことができます。
③自分にとっての幸福、精神を満たすものを取捨選択し人生を歩む場合
このケースでは、最も自律的で内的な探求が強い人々の脳内および精神構造が以下のようになると考えられます:
・高度に発達した前頭前皮質:自律的な意思決定と計画を立てるために、前頭前皮質が非常に発達しています。特に、自己制御、目標設定、問題解決に関連する部分が活発です。
・内側前頭前皮質と帯状回皮質の強い活動:自己認識、内省、感情調整を行うために、これらの領域が強く活動しています。
・長期的な報酬を重視する脳構造:短期的な外部の報酬
よりも、長期的な内的な満足感を重視する傾向があり、これにはドーパミン系の長期的な報酬回路が関与します。・全体的な脳のネットワークの統合:複数の脳領域が連携して働くことで、複雑な情報を統合し、自分の価値観や目標に基づいた判断を行うことが可能です。
これには、デフォルトモードネットワーク (DMN)
や執行制御ネットワーク (ECN) の協調が含まれます。

結論
自律性の違いは、脳の発達や特定の脳領域の活動の違いに起因する可能性があります。自律的な人生を歩む人々は、前頭前皮質を中心とした意思決定や自己制御の領域が発達している一方、外部の影響を強く受ける人々は報酬系や既成の念体系に依存する傾向が強いです。精神構造としても、自己認識や内省、感情調繋が重要な役割を果たしていると考えられます。

②と③の人生パターンの明確な違い:

1.情報の取捨選択と依存度
②のケース: 自律的に特定の宗教を選ぶプロセスを経ていますが、その宗教の教義や指針に強く依存しています。つまり、選んだ後はその宗教が提供する価値観や教えに従って生活をしているため、特定の情報源に依存していると言えます。
③のケース:自分にとっての幸福や精神的満足を追求するために、複数の情報源から継続的に情報を収集し、自分なりの基準で取捨選択しています。このため、特定の価値観や教義に固定されず、柔軟に情報や価値観を取り入れることができます。
2. 自律性の程度とその実践方法
②のケース:自律的な意思決定を行う能力はありますが、その後は特定の宗教や価値観に委ねる傾向があります。これは、自己の価値観に合った外部の指針を利用して、自分の生活を構築する方法とも言えます。
③のケース:自律性の実践がより広範かつ継続的です。
自己の幸福や精神的満足を求めて、常に新しい情報や経験を取り入れ、自分なりの価値観を絶えず再評価しながら選択を行います。このため、柔軟性と適応力が高いと言えます。

3.内的な価値観と外部の基準
②のケース:自律的に選んだ特定の宗教や価値観に基づいて生活しているため、内的な価値観と外部の基準が一致しています。しかし、その選択は一度行われた後は比較的固定的です。
③のケース:内的な価値観が常に変化し続ける外部の情報や経験と対話しながら形成されるため、外部の基準に固定されない柔軟な価値観を持っています。
4.精神的構造と脳の働き
②のケース:特定の価値観や教に依存することで、前頭前皮質の特定の機能(意思決定や計画)は発達しているが、他の部分(柔軟性や新しい情報の統合)は③に比べてやや固定的です。
③のケース:前頭前皮質が高度に発達し、特に柔軟性や新しい情報の統合に関与する部分が強く働いています。また、自己認識や自己調整の機能も活発に働いているため、複雑な情報を処理し、継続的に自分の価値観を再評価する能力が高いです。

結論
②と③の違いは、情報の取捨選択の範囲と柔軟性、及び自律性の実践方法にあります。②は特定の宗教や価値観に依存し、その範囲内で自律的な生活を送るのに対し、③はより広範で柔軟な情報の取捨選択を行い、自己の価値観を絶えず再評価し続けるため、自律性の実践がより高度で多様です。

ここから考えられることは、「世界に対する情報処理、取捨選択の数が細ければ細かいほど自律性がある」ってことだ。

そしてこう考えると、やっぱり人間は世界に流されて生きている部分が大きく、基本的に大多数はこのように生きるようになっているもの、といえるのかもしれない。
大体は①〜いけても②。③のような人生を歩む人間はごく少数であるように思う。また、③の場合でも根本的に世界に依存する部分は大いにある。
けれど心ははたらきとして自律性を求める。科学はそれを推進させる。

この「自分」「自律性」の在処?に関しては、幸せについて論理を組んでいたときにどんどん浮き彫りになってきた箇所。
やりながら、ここって宇宙を解く鍵だなと感じはじめて、どんどん思考が心のことから宇宙のことになっていきメインが入れ替わっていった。その中で視点を戻すとき、ここに戻ってくる。

おそらく、わたしたちにおける世界の自然の流れとして、重要視部が自然的なところから意識的なところへ入れ替わる仕様になっているのではないかと思う。
そして「自分」を掴むと自然的な世界から少し一抜けするような。

『個人』と『全体』の関係。
ここを明確に区別する情報を掴むことがひとつのステージ到達といえそう。


でもむずい。ˣ˷ˣ



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