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#2 心の性質① 自由空間/自然現象


▶︎心の根本的な性質であり基本のベースが【自由】である。

心理的自然現象が発生・(心理法則)がある。

あらゆる感情が発生し、あらゆることを思う、つまりなにを思っても感じてもいい、自由な空間が各々の精神空間・心となる。

基本的に、【自由】の逆である、【義務】や【制限】を嫌う性質がある。

〔わたしたちの心は、(ほぼ)0の状態を持って生まれる。物理空間の情報を認識、(脳の特定の部分が反応することで?)自身による自分の心というものが形成される形となる。(情報反射)
そこに言語などが上乗せされればそれをもって認識可能ともなる。
時間・(学習)によって形づくられる。〕


●自由空間内に起こる自然的現象
自分の心の中に発生する感情・気持ちは自分の意思とは関係なしに生まれてくるものなので、

〇"うれしい・楽しい・好き"などのポジティブとされるもの
○"嫌い・憎い・嫉妬・殺意"などのネガティブとされるもの

どちらも本来良い悪いもない単なる自然的感情であり、これらを、自分の精神空間内で起こる"心の自然現象"のように考える。

それは発生時点で"起こってしまった"ものなので塞き止めることはできない。自然的なものといえる。

この精神空間内の自然現象は、発生条件が人それぞれ変わる。
(おそらく個々で違う脳のつくり、その地点での情報量による思考性、肉体の自律神経、ホルモン分泌などによるバランス変化、置かれた環境によるものなど、要因が複雑に絡み合う)

〔※現実の物理空間も、自由空間に自然現象が起こるしくみがあるが、それとほぼ同じこと〕

(わたしたちがその情報を反射して認識することからそのようなしくみとなるのか、そもそも心がそのようなしくみなのかはまだわからない。が、意識のしくみ【0/1】が関わるかも)
(メモ:"世界はおそらく無矛盾性で成っていて、そこに関係できている個もまたおそらく無矛盾性で成っているのだが、その無矛盾性への理解を得るには矛盾性が必要であるのでこのようなことが起きている。矛盾性を持ち合わせた人間の理解範囲もまた矛盾性で成っているために、理解できるすべての無矛盾性を"おそらく"としか理解できない" のかもしれない。)


●自然的現象を実力行使的に扱う危険
わたしたちは、ネガティブな感情をだめなもの、嫌なものだ、と悪者のように捉えてしまいだが、
このネガティブとされる感情を許さず、『いけないもの』として頭・(意識)で判断していると、心にとってそれは【自由】を奪われたというような認識となる。
それは攻撃・破壊的なエネルギーとなり、その状態が持続すれば脳の形も変わり、現実面・肉体面に影響を及ぼすこととなりやすい。

現実の物理空間の天気、自然現象においても、無理に人間が実力行使し抑えこもうとするとなんかやばい気がするのを何となく感じ取ることができるが、
自然的ななにかについてよくしくみも解明できていないまま人間勝手なことをしてしまうと機能が滞りあとから大被害が起こりやすい。
おそらくこれと同じようなことが、心の中、精神空間においても起こる。

自分の心を支配しているのは主に潜在意識や顕在意識が混ざった・また意識・頭脳を持つ自分自身なので、他でもない自分がそれを「ダメだ」とすると心の自然摂理がやられる。
↳※自分の心・頭・肉体を支配し操っているのは"自分"という"神"のようにいえる〔別項に詳細〕

わたしたちはおそらくずっと、個々で違ってしまう心の自然現象(また、そのしくみの情報不足による認識の誤り)に振り回され悩まされているのではないか。


●【自由】な〈心〉と他者・他
わたしたちは世界を生きるにおいて、物理的にも精神的にも必ず他者・他の存在が必要となるが、〈心〉にとっては自分の【自由】を阻害する邪魔な存在という認識にもなる。

日常(現実の物理空間)に置きかえてたとえると:自由に走り回りたくても物体に邪魔される、好きなことをずっとしていたくても眠くなりできなくなる、など、心のままに自由に好きに生きたくてもこの世界では『自由』に対し『制限』『限界』が設けられている。

このような『制限』が設けられている哲学的な理由のひとつとして、心(自分)を『知る』という作業に必要不可欠なのが他人であり、他であるから、と考える。※前回述べたところ

他人や物理空間から情報を得て心を『知る』という作業をし【自分】を形成していくわたしたちは、時間の経過とともに、人や自然のおかげで自分が成り立っていることを知っていく。

ここで、心的意識(思考)が『「他」は自分の自由の可能性を広げるような存在だ』のように強く認識すれば【感謝】するベクトルに、『「他」は自分の自由を阻害する邪魔な存在だ』と認識すれば【邪魔】とするベクトルに向く。
この両方を意識的にしろ無意識的にしろ両方感じながらわたしたちは生活を行う。おそらく基本的に感謝に向くようになっているんじゃないかと考えている。ただし他から「攻撃」をよく受けたという認識が多くなると【邪魔】ベクトルに向きやすくなる)


●なぜこのようなことがあるのかの考察
"自分の心"を"自分自身が知る"という目的意識が存在し、それには自分の時間を持ち、内観し、思考する必要がある。またそのために、人や世界のことを深く知ろうとして考える必要もある。

これはわたしたちの運命的な流れであり、また、この地球という星もこのような性質がある。それは『知る。・学ぶ』という絶対的な性質で、そのような性質のある星の時空間上に生きているのでこのようなことが起こるのではないか。

話が少し飛躍したように感じるかもしれないが、まずこの地球という星自体、元をたどればすべて許されている自由な空間である。

何かが生まれ、自然的破壊を繰り返す。人は人を殺せるようになっているし、野生動物は殺し合いをして生きており、なんなら人間も動物を殺し食べている。

本来の地球はなんのルールもない自由な空間であり、それに人間勝手にルールを設けているのはわたしたちだ。

わたしたちは自分たちでつくりあげた身勝手なルールに支配されていて、それに義務を感じて囚われながら生きている。

命は尊いものだといいながらかっこいい昆虫であるカブトムシは愛でて、害虫で不快なゴキブリは殺す。かわいい動物は保護し、醜い動物が増えれば殺す。

わたしたちが知っている"ルール"というものはすべて本来、人間が都合のいいようにつくった、実際は曖昧で不確実な、そしていずれ変わる運命にあるものであり、"絶対的正義"なものではない。守った方が安心安全な生活が送れる(よという先人の教えのような)もののはず。

ただ、大半の人間は人からの情報や直感を信じる。考える力もありますが、わたしたちの心はなにかを信じていないと生きていけない性質がある、また本能、脳の仕組みによるものからそれらを信じてしまい、信じる=思考が停止し、そして自らが信じたものを正義とする、という流れが大半の人間のパターンに存在する。

そんな中、ルールを守らない人間や常識的でないことを行う人間を即悪人と決めつけ総叩きしてしまうような人間の行動があるが、
これは"自由を制限された"という、義務を嫌う根本心理によるものが原因のひとつなんじゃないか、と考える。
↳(※)細かくいうと"外発的な義務"。
外発的な義務→外部・親や大人、他人、社会などからの要求や期待に応えるかたちで行う義務
内発的な義務→自身の価値観や信念に基づいてそれを受け入れて行う義務

(ここには人間同士においても敵や異端者をみつけ殺さないと生き残れなかったところからくる原始的な生存本能などもおそらく絡む)

●自由制限を受けたという認識による心理影響
義務を感じる=「自由を制限された」と無意識でも心がそう受け取ると、心はその邪魔な対象(他人・物理・自分)への不快感を覚える。
(おそらく「返報性の原理」による。これはまた、心理的欲求、ミラー理論(自論)とも関係する:メモ)
自分は自由を犠牲にして義務を果たしているのに他の人がそれを果たしていない、などと感じるとその他人を許せないというような気持ちが自然的に湧く。心の性質として、「本当は好きに自由に生きたい」というのが根本にあるが、それはいけないことと思い込んでいる・世界はそのようなものだ、と自ら決定してしまうと好きに生きているように見える人間が許せなくなってしまう。

許せないものがあればあるほど人は自身に不幸を招く(責任を他におくと自分の人生を自分で舵取りできない(という勘違い認識をしてしまう))ので、これもまた心にとって不快なものとなり、負の情報が認識として加算され、脳のしくみにより許せない=悪とした情報を成敗する方へ自動的にベクトルが向き、許すため(幸福になるため)に必要な思考力も奪われるなどする。

↳少しややこしいが、心の自然現象による"許せない"と、それを許可する自由空間の精神そのものがあり、その許可に必要なのが思考(意識)、みたいなイメージ

また、『こうしなきゃいけない、ああしなきゃいけない、こうすべきだ』のような価値観が自身に構築されると、「自分の価値は他人、社会などにおかなければ人は価値はないのだ」という認識に陥りやすい。

そうすると自分(心)の本質である【何者でもない本来の自分】は無視されるので、それを守るために心は邪魔なものを消そうと『他人』『物理(社会など)』『自分』どれかへの攻撃的・破滅的なエネルギーのようなものを発動させる。※おそらく根本で対象はすべて同一となるが、思考・意識の癖で標的は基本ひとつに絞る。

そして、その蓄積が繰り返され一定の限界ライン(自己制限・思考可能容量)を超してしまうと、【邪魔】とした対象である他人を殺すか、社会など物理を攻撃・破壊に走るか、また、自分を殺す。

自分の意識外のところでも認識として心がそう感じていると、心のしくみによりそういう方へ頭が働いていく。ダメだと自意識的にわかっていても、その思考さえ奪う。

これが、愛する自分を守るための精神の力となる。

わたしたちは心を守ろうとするはたらきの絶対エネルギーを持っており、攻撃、受容、拒絶などでそれを行う。


"【何者でもない本来の自分】にこそ自分自身の価値がある"と心は知っているので、それを邪魔するものは必要ない、という認識を行う。その対象は他人・他者だけでなく自分自身も含まれる。(何度も言うが"自分"の生きている本質部分は自分の意識(第三者的自分)にあるため)

おそらく、わたしたちはこのような"当たり前のこと"を忘れる設定で生まれる。心を自意識的に『知る』ためである。

(↳少し細かくいうと:生まれたばかりの赤ちゃんのときの心の状態はそれを知っている=そのままの自分に価値があると信じきっている自己肯定感が100%の状態となるが、それを『知る』というモードに入ると(自意識という線上ができると?)0の位置になり、そこから自己を認識し形成していく、みたいな感じかと思う)

また心は、生きていく活動(自分を知っていく活動)において、自身を価値づけるためならなんでもどんなことでもする、というはたらきをする。

自分の自由(心)を踏みにじったのは人や社会だ、と判断すれば他へ、すべて至らない自分のせいだと判断すれば自分への攻撃を行う。

(自分の自由を犠牲にする形で)『義務を果たす』ということに価値を感じて生きてしまうと、その時点で未来の自分(理想的な幻想上の自分)に価値をおいてしまっているので、自分の資本である現在地点しか生きれない体や精神への意識も疎かになり徐々に肉体の機能も滞りはじめる。
(あとは、加齢や病気などでそれまで自由できていたいう認識であったものが変わり落ち込むのも、過去の自分に価値を置いているとみなすので似たようなことが起こる)


〔(主観的な感想を挟むが、)以上、このような心の性質を踏まえると、いまの社会にある人々に義務を課す(と感じさせてしまう)ようなしくみや価値観は、この心の根本的な性質を無視したものであるといえるので、馬鹿、またはうつ促進社会のようになってしまっており心をもつ人間にとって生きづらいものとなりやすいのではないかと考えている。
個人的には、今自分が見知っている社会的な価値観は正しく当たり前だ、人は課せられた義務を果たすべきなのだ、この世界に絶対的な正義はある、のように思っている人間は全員よくない自己洗脳状態にあると考えていて(情報を固定させないと生きられない頭になっている)この価値観の中で病んでいたりなにかおかしいと思えてる人間の方がどちらかというと正常な状態、洗脳にどこかで気づけている状態なんじゃないかと思う。
ただ、本質では"こうあらなけらばいけない"は自己それぞれの幻想となる。
少なくともこの国は一応ちゃんと自由に生きられるようになっていて、それに意識的にしろ無意識的にしろ気づいている人間はたくさんいて行動に移し好きに自由に生きている。拘束でもされていない限り、この時代にこの国で好きに生きることができていないのは自分の知力不足と固定観念、プライドの高さ、変化を恐れる自分のせいともいえる。
↳なんとなく、日本人において大多数の人が同じような幻想を抱いてしまってる要因のひとつとして、国を宗教的・自分を救ってもらえる神のように捉えがちな国民性があるのではないかと考えていて、人間の<心>はなにかを信じることを生きる主なエネルギー源とするため、その信仰先を国にしちゃってるところがある、あったのかも。宗教文化が特殊だから。それがどことなくずっと続いてるのかもしれない。
あとは社会を生きることと世界を生きることは違う、のような教育がされてないので、義務さえ果たしていればいいと思ってしまい思考しない状態、情報は勝手に頭に入ってるものだ、として脳に定着してる可能性もある。(問題解決能力が養われていない)
(今回は人間がこんな心や思考になった原因などを考えてたらくっついてきたので一応メモ的に書いたけれど、社会的なことに関しては基本無知なのとそんなに興味がないので余計な言及は避ける。ただひとつ言うなら、自由に生きることとと自分勝手に生きることは違うということ)〕


また、小さな日常の中の、『痩せなきゃない』『いいくらしをしなきゃいけない』などもすべて自分が勝手につくり出している義務となる。

痩せたいと思ったなら、それは本来は自分が叶えたいものを見つけたということであってそこに近づいていくのは楽しいことのはずなのに『しなきゃ』としてしまうだけで心にとってネガティブなものになったり、掃除しなきゃ、お風呂に入らなきゃ、なども本来は行えばスッキリして気持ちがいいものであるが、これを義務として捉えるだけで心にとって自由を奪う・負の情報認識となる。

世間では、自身に義務を課し努力する人間やストイックに頑張るような人間が評価されがちだが、これはほとんどの場合直感的に物事を判断して脳の快楽物質に溺れている人間の動物的な行動で、主に精神を司る脳の力が著しく低下する可能性がある。またそれに価値を感じることも同等となる。
(自身の純粋な夢に向かうような場合は精神の本質が伴う、内発的な義務となるのでこれとは異なるが、その中で混在していくケースは多いのではないかと思う)

"『しなきゃ』=よくない自己洗脳"状態に陥る行為であり、『義務』を感じるだけで心がダメージを受け頭がやられはじめる、つまり知能が低くなる行為につながってしまう。(心的な知能指数)

また、心は、『自分の時間が減っている』のように感じたら不自由を、『自分の時間が増えている』または『一定速度で流れている』のように感じたら自由を感じており、『時間が減っている』という状態も酷く嫌う。

復唱となるが、
自分の中の精神空間は自由な空間だが、この物理空間に生きるにおいては制限が設けられている。

※ここで、自分の中にある『自由(心)』を認識している状態のことを『意思』とも言い換える。

この自分の意思を、"人や社会、世界が受け止めてくれている・許されている"のように自分が実感できていると、自由と制限、自分が認識する精神情報と外部の物理情報の循環がうまく作用するので心はそれを邪魔者・敵とはみなさなくなる。

たとえば:親や周りの人間がどんな感情や気持ちでも聞いてくれて受け止めてくれていた。成長とともに自分のわがままや存在で親や人が自分を制限・犠牲にしている、自分のために時間を使ってくれている、などと気づき、学び始め、それでもそばにいて助けてくれることに感謝を覚える。すると自分も制限することを覚える。

心はこのような感謝できる事柄や仲間、環境を認識し、時には自分のために意思を表明・表現、時には人や世界のための制限を行えることで、世界とつながりうまく綺麗に循環するしくみとなっている。
※ここでいう制限とは、『与えること』でもある。
(ここでまた制限することに義務を感じてしまう=自分は我慢している のように捉えると循環障害が起こる)
↳・そのように"感謝"を認識するためには思考力、なにより想像力が必要。これを持てない、育っていない、脳のこの機能(高次脳機能?)のはたらきが弱いことがおそらく人間が賢くない行動をしてしまう根本の原因
・また別項でやるが、心は自分の行いで人を幸福にしたときに幸福を感じ、また人になにかしてもらったと感じると幸福と感動を覚える

この自由と制限のバランスが50:50に近ければ近いと実感できているほど心にとっていい状態かなと思う。

そしておそらく、この"自分の意思(心・自由)を表現"がものすごく大切で、ひとりひとりが自分に見合った、できれば他人の評価に重きを置かなくても貫けるような自己表現法をみつけられることがまずなによりの心の安定につながるのではないか、と考えている。

↳日本においては、思ったことや感情をそのまま直で外にぶちまけるべきではない、社会の秩序は保つべきという認識を持っている人が多いので、それはいいけれどその心に発生したものの表現方法がわからなくてそこでストレスになってる、っていうのが結構多いのではないか。でもその国民性に伴ってか、また教育や文化の色んな環境要因とかも重なってか個人に備わる芸術・文化レベルはとても高い(心の繊細な揺れ動きみたいなものを感知し、芸術や仕事などに落とし込む能力がすごい)から、なにかみつけてしまえばその習得も早いんじゃないかなと思う。
ちなみにわたしたちが主に自分の表現をするのに使用している『言語』は実は主な自己表現法とするには相当頭がよくないと難しいものなので注意が必要。おそらく世の中の言語を使っていると思ってる人の7〜8割が扱えていないし、私自身も扱えていない。文字の読み書きは大多数にできてもそこから文章となると実は大半の人が中身を読解できる能力がなく、さらにそこから自己表現に使うとなると数学でたとえるなら大学の研究者が扱うレベルの数式を理解できてるかいないかみたいな話になる。(数字や四則演算は理解できても微分積分はちんぷんかんぷん、みたいなことに近い。)言語はれっきとした学問なので専門の頭や心がないと理解できないし扱えない。
※ただ、その自己表現法をみつけるための前段階を必要とするならやはり言語が一番有効なのではないかとも思う。けれど最近のテクノロジーの進化速度とそれに伴う人間の流れをみるに言語領域が別のものになる可能性もある)


では、ここでまた簡単に【自分】が形作られる流れとして、↓

男も女も名前もない、前提として(また常に)0がベースにあり、自身のみが観測可能な精神空間に情報を入れることで自分が形成されて、自らそれを選択・決定して【自分】を認識している。

ただし、感情・感覚含むあらゆる直感にわたしたちは騙されるようにもできており、本当の自分を知るには内観し思考する必要性がある。
↳おそらく9割以上の人間がここで世界を見誤る

で、その自分を知ることや表現には外部の情報(人・他・言語や数など)を用いる必要がある。

まとめると、心にとって真に根本的な、本質のところでは性別も名前も年齢もなにもなく、常に現地点で自分が知り得ている情報にて決定した【自分】がいつでも【自分】となる。

本来は自由だが、『知る』という性質のある絶対時空間に生きていて、自由を知る、感じるには制限・人や他が必要である。

『知る』という行為に必要なのが表裏性。


次、表裏性の原理について ▶︎


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