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言語化の功罪

「個の時代だ」、「言語化・発信こそ重要だ」と言われて久しい。そんな中、ふらりと聞いた映画監督の紀里谷さんの言葉をきっかけに、言語化の功罪について考え始めたので、ここに一時的な「言語化」をしたいと思う。

自分で感じとることにしか、意味がない

先日、CX DIVEというイベントに参加してきた。CX DIVEとは、CX、すなわちCustomer Experience(顧客体験)の大切さやCXを高めていくための切り口を、企画やものづくりの大御所であるスピーカー陣が各々の視点から展開するイベントだった。

スピーカー自身も参加者もビジネスパーソンが多く、非常に実践的な内容が多くを占めるなか、異色をはなっていたのが映画監督の紀里谷和明さんだ。
彼が登壇していたセッションは『五感を刺激する演出から学ぶ』。お客さまの記憶に残るためのHowとして「五感を刺激するような演出」を学ぶために集まった我々に対して、開口一番「いまだにこのイベントがよくわかってないし、テーマも知らないんだけど、あなたたち何をしにきたの?五感を刺激するような演出って何?それ知って何をしようとしているの?金儲け?」と痛烈なひとこと。でもそこからはじまった彼の指摘は非常に示唆深かったのだ。

彼がこのトークセッションで話していたのはざっくり以下のような内容だ。

「今の時代は誰も自分で判断しないじゃない。女の子が行きたいっていうから超高い有名フレンチに一緒に行ったけど、そこはご飯が全くおいしくないわけ。そのおいしくないご飯に16万とかかかるのに、みんなこぞって訪れる。みんな自分がどう感じているか全くわかってないだろ。知識と情報ばかり詰め込んだロボットみたいだ。俺が大事だと思うのは、何をみて、何を感じるかだ。モーツアルトの音楽を聞いて、自分は何を感じるのか?青い空を見て、何を思うのか?自分自身で感じろよ。自分でどう思うか判断しろよ。感じようとすることにも努力が必要なんだよ、海が見たいと思って今から海に行くのもすごく大変なんだよ。結果にこだわって、情報とか知識に振り回されるのはだせえよ。俺はここで言いたいことなんて何もない。」

なにか仕事にいかせるインプットはないか、と学びにきたビジネスパーソンが多い場だったと思う。そんな場に対する、痛烈なアンチテーゼ。
そもそも、彼から「五感を刺激する演出」を小一時間で学ぼうという心もちがおこがましいのだ。彼が「五感を刺激する演出」ができるようになるために、どれだけのことにどれだけの解像度で触れて、それを自分のものにしてきたんだろう。

期待していた内容と違った人もいたと思うが、非常に本質的な指摘だった。人が言語化したものを自分の中に取り入れるのではなく、一次情報として何をみて、何を感じるかこそ、自分の血となり肉となる。

読み取った情報を簡単に言語化してしまうことの功罪

「自分自身で感じとること」の大切さは、小林秀雄も指摘している。「美術や音楽を解るようになるためには、何を勉強し、どんな本を読むのがよいのか」という質問に対して、「本を読むのも結構だが、それよりも、何も考えずに、沢山見たり聴いたりすることが第一だ」と応えているのだ。

また小林秀雄は、そこから一歩進んで、言語化してしまうことによる暗面にも触れている。以下は、『読書について』の中にある「美を求める心」という章での一節だ。

菫の花だと解るという事は、花の姿や色の美しい感じを言葉で置き換えて了うことです。言葉の邪魔の這入らぬ花の美しい感じを、そのまま、持ち続け、花を黙って見続けていれば、花は諸君に、嘗て見た事もなかった様な美しさを、それこそ限りなく明かすでしょう。–– 小林秀雄『読書について』

相手に伝えるための言語化だけでなく、自分にとっての言語化すら考えを狭める諸刃の剣となる。

情報やノウハウは、いくらでも手に入る時代になった。文字に落ちたコンテンツの内容はどんどん薄まり、今は個の時代だと言われ、「まずはアウトプット」と発信や言語化の重要性が叫ばれる。

とはいえ、不完全で荒いままの言語化はある種危険を孕む。
一度言語化し、形を与えた言葉に満足をしてしまうと、発した言葉そのものが自分の中の答えとして固まり、考え続けることへ区切りをつけてしまう可能性があるからだ。

わからないことは「わからない」まま飲み込んで咀嚼を続けることも重要だ。

もちろん言語化が悪いと言っているわけではない。咀嚼を続ける中でも、少しずつ言葉という形に残していかないと、何をどこまで咀嚼し終わったのか簡単に忘れてしまう。

今の言語化で満足せずに、考え続けるという姿勢を忘れたくないものだ。

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