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ひげ剃りと日傘

「手始めに、髭剃りなどはいかがでしょうか?」

 丘の上の理髪店主は、白い布を巻き付けながら、そう尋ねた。初夏の風が草波を立て、最近になって生え始めた髭や、ぼさぼさの髪の毛を青い香りで包んだ。私は、鏡の中の自分を見て、ちょっと緊張しながらもうなずいた。

「では、お願いします」
「かしこまりました」

 晴天だった。眩しい日差しが、雲の隙間から差し込んで、どこまでも広がる草原に黄色い光を投げかけていた。時折草原を駆け抜ける風の音だけが聞こえていた。それは、いつもここで行われているのであろう、昔ながらのしきたりのある儀式のようだった。私は、ぽっかり浮かぶ鏡に映る自分をじっと見つめて、「この鏡はどこに取り付けられているのだろう」なんて思ったりした。ニス塗りの椅子も、さっきから青い風に吹かれて、きいきいいう音を立てていた。

「お髭を剃られるのは、初めてですか?」
「あ、はい。実は、そうなんです」
「そうですか。ちょっと緊張なさいますでしょう?」
「ええ、まあ……」

 暖かくも柔らかい豚毛のブラシで、頬に泡が塗られていく。理髪師は、それを両手で伸ばしながら、「はじめての方は皆さんそうおっしゃいます」と言った。そんなものなのだろうか。私は、自分の顔に泡を塗ってもらっていることを意識して、頰が赤らむのを感じた。理髪師はそんな私を見て少し微笑むと、「すぐ慣れますよ」と言った。

 雄大な雲が刻々と姿を変えていくのを、目に焼き付けた。地平線の果てがチラチラと光を跳ね返しているのを見て、「あれが彷徨える湖だろうか」なんて考えた。手前にあるホーローの洗面台を、じっと覗き込んだ。

 ひんやり冷たいカミソリが、ぺたっと頬に当てられた。そのまま、ジョリジョリという音を立てて剃り始める。私は、その感触に思わず身をすくませた。ああ、案外平気なものだな、なんてことを思いながら、そっと目を閉じて、遠くの道路を歩いているであろう白い日傘や、黄色の車のことを考えた。

「お客さんは、どちらからいらっしゃったのですか?」

理髪師が話しかけてきた。

「ああ、ぼくですか。えっと、東京からです。といっても、ずいぶん田舎の方ですが……」
「そうですか。東京から」
「電車とバスを何千キロも乗り継いだのですが、実は歩いてすぐのところにあったのですね。なんだか、拍子抜けしてしまいました」
「はは。案外そういうものかも知れませんよ」
「そうかも知れませんね」

 ホクホクの蒸しタオルで、顔を拭われた。あんまり暖かいから、思わず手に取ってギュッと顔を抑えた。理髪師はそんな私を見て、また少し微笑んだ。ガラス戸の向こうに、影が立った。薄藍色の影は、ちらちらと背伸びして、観葉植物の上を行ったり来たりした。

「お迎えですよ」

 白い日傘が、まっすぐこちらへ向かってきた。傘に溜まっていた光の束が、少しずつ地面にこぼれていくようだった。日傘はゆっくりと角度を傾けて、影を脱いだ。私は、ちょっと照れながら、髭を剃ったばかりのあごをツルツル撫でて、腕時計を見るふりをした。ざわっと風が立った。

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