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まさかね、、、


私は二次救急の看護師をしていま
した。
夫とは別居中で実家に帰り3歳の娘と暮らしていました。


「今日の瑠衣の保育園のお迎え宜しく」

母は最近どんどん痩せて食欲もなく忘れる事が多い私の事を心配していました。

「頭のCTでも取ったら」

「大丈夫、ちょっと疲れているだけだから」

瑠衣(3歳)の夜泣きが酷く私は1日3時間位しか寝れない日々が続いていました。

また、夫の問題と職場の問題や一部の人からモラハラを受けていたので常に頭痛を起こしていました。
なので他院で精神安定剤を処方してもらい飲みながら仕事に行き疲労と食欲不振があったので時々点滴をしていました。

だから私の不安が瑠衣に伝わって泣いてしまうのですね。

結婚と出産したのに働かない夫 全て初めてばかりの1年で悩みましたが離婚の選択をしました。

瑠衣ごめん。

でも翌日、私は脳内出血で倒れました。

前兆は頭痛、顔面麻痺等ありましたがストレスのせいと思っていましので、まさか脳内出血とは思いもしませんでした。
でも、私の脳の症状は既に始まっていたのです。

その後、私の意識がなく3日後に気が付いたらベットにいました。

後から色々な話をドクターに聞かされてやっと自分は左側頭部の脳内出血をおこし緊急オペをした事を理解出来ました。

脳の1/3の出血で原因は不明です。また出血源が分かりませんでした。

29歳で脳内出血ってなに?
右半身不随で言語障害…なんで?私が?

右半身の麻痺と言語障害は残りましたが1年後なんとか独歩になりました。

言語野のダメージはかなり酷く内容を理解出来ますが例えば箱という文字を理解してもイメージ通り書けない、言えないのです。

どの科に行っても言語障害が引っかかりました。

原因不明の痛みがあるので整形に受診をしました。
そこでブロック注射を勧められましたが私は不安で躊躇していたら

「早く、決めてくれないかな僕の診察を待っている患者さんが沢山いるから暇じゃないからいい加減なんとか決めて」

そのドクターは厄介者扱いし強制的に診察室から私を追い出しました。
悔しくて涙が出ました。


そして1年後やっとペインクリニックで私の原因不明な右足の痛みがわかりました。

痛みが始まると剣山の上を歩く様な激痛を起していたのが

オペ後の中枢性疼痛(ちゅうすうせ
いとうつう)でした。

この病気は今の医学では治らないと言われましたが痛みの緩和は出来るとの事。

ただ、大なり小なり痛みがない日はありません。
なので痛みは私の一部と考え、
多少の痛みには慣れ、治療を受けながら生活をしていました。

ペインクリニックでも言語障害がある為ドクターが1ヶ月の病気の経過をノートに書いて下さいと言われ、小学生のあいうえおから勉強をし、このノートでドクターと診察をしていました。

ドクターはペインの先生であり小学生の先生の様でした(笑)


その頃から母の様子が気になっていました。
父は単なる物忘れだと言うのですが父を説得して母と病院へ行きました。

母はアルツハイマー型認知症と診断されました。


母のショックが大き過ぎてその翌日から夜中の12時になると泣きながら父を蹴り、母から見える物を壊したり投げたりしていました。

父母は共に当時65歳でした。
元の会社ではあまり女性はいませんでしたが次の会社は女性が半分位いましたので母は父が浮気をしていると思い込んでいました。

「お父さんのせいで私の脳がダメになったのよ‼︎」

と何度も叫びながらお父さんに暴力を振るっていました。
父は母に手を挙げる事もなくただ受け止めるだけでした。
それが1ヶ月続いて母の暴力は止まりました。


ある夜、母はゆっくりと仏壇の前に布団を敷いて座りこんで私に言いました。


「なんで私がアルツハイマー
  なの?」


私も言ったなそれ

「なんで私なの?」

それが現実、恥ずかしい病気なんてないと思いたいですが、人からどう見られているのか不安、聞いた事に自信を持って言えない自分。
先の見えない恐怖が襲うのです。

不揃いな手足、自分の思いを伝えられない言語障害を抱えている私には自分を見る様でした。


母にとってはママさんバレーボールは週一回の大好きな趣味でママさんバレーを楽しんで行っていました。

ですがアルツハイマーになってからママさんバレーの友達と会わなくなりました。
友達と笑っていた母の姿はもう消えてしまいました。


その代わりに毎朝8時になると私が住んでいるアパートに来る様になりました。

母は最初 祖母とそして父と母の話を始めました。

父は母と結婚する前に才色兼備な人とお付き合いをしていたそうです。
ですが祖母とのそりが合わなくて彼女との結婚は祖母に反対されました。
父は彼女に号泣されましたが結局はお別れをしてしまいました。

きっとその人とはご縁がなかったと思います。

私の家は祖父が亡くなった後に空き部屋を下宿所として貸していました。 
その部屋を借りていた1人が母だったので、この出会いは必然だったと思います。

母(准看護師)と父(鉄道会社勤務)はお互い夜勤がある職業で帰りの電車で偶然会いおしゃべりしながら同じ家に一緒に帰ってくる事が多々あった様でした。

そこで店子として祖母が慣れ親しんだ母を嫁にと勧め結婚したようです。

2人の結婚を勧めていたのに祖母と母は嫁姑の問題を抱えていました。

祖母は祖父を直腸癌で早くに亡くした為に父を母ではありますが夫のような対応をしていました。

父が帰って来る前に真っ赤な口紅を付けている祖母を私は何回か見ていました。

祖母は決して母を嫌いではないのですが祖母も女でありその女を捨てきれない複雑な気持ちを抱えて居たのでしょう。
また母も祖母の気持ちを分かっていたと思います。

祖母はとても情が深く頭が良く優しい祖母で私に沢山の知恵を残してくれた人でした。

でも、私が小学校5年の時 祖母は胃癌煩い老人性の鬱を発症し自ら命を絶ってしまいました。

その時の母の悲しみや絶望感は計り知れないでしょう。

私は呆然として泣き狂う母が忘れないられないです。

だから母は

祖母が母の夢に出て来て何故か渋谷駅の空から母にありがとうと言って天に昇って行く姿を見たと穏やかな顔つきで言っていました。

口ではどうしても母に言えなかった祖母は夢の中でありがとうを言ったのでしょう。

母は今まで封印されていた思いを解き放たれる様に言い続けました。

母が毎朝、私の家に来るので母が好きなモンブランを1個用意したのですが父と一緒に食べると言って毎回お菓子を必ず持って帰りました。

そして12時の昼時にご飯が出来たから帰って来てと父から電話があり母は笑顔で帰って行きました。


アルツハイマーになる前は父と母が手を繋いで歩くとか腕を組んで一緒にテレビを見るなんて考えられなかったけど父と母は恋人の様に接していました。

ただ、来る度に

「あの家にいていいの?」

と申し訳なさそうに言う事だけか気になっていました。

「何言っているの、お父さんとお母さんの建てた家なんだから当たり前でしょ」

私は言いました。

段々と病気の進行が始まり実家から5分で着くはずの私のアパートに来れなくなりました。

朝8時〜12時の母とのおしゃべりはここで終わってしまいました。

それは母とまともに話を出来た最後の思い出になりました。


私の母は不思議な人でした。

私も不思議な体験がありました。
看護学校の友達が遊びに来て不意に頭過った話なのですが

「私、脳の病気になるかもしれない」

と言った事がありそして本当に脳の病気になりました。

何より苦手だった脳の勉強をする事になるとは思いませんでした。

私は看護師であり患者であり介護される側であり介護する側になりました。

これも必然だったのでしょうか?

ある日、父が母のオムツを履き替えいる時に母はママさんバレーボールを思い出したのか目の前にいる父の頭をおもいっきり叩きました。

その瞬間の光景があまりにも可笑しいので私は笑いが止まらなくなっていました。

また何もなかった様にしらっとしている母の姿が更に可笑く私は息が出来ない位笑った事を思い出します。

母は笑いのセンスがあったのですね(笑)

はたから見てもかなりの力で叩かれてたので流石に、

「いてーよー‼︎」

と言っていましたが父も何も無かった様に母の世話をしていましたのでちょっと笑えました。

お風呂の時は夫婦で一緒に入ります。
病気じゃなかったら夫婦水入らずで堂々と一緒に入るなんてないと思います。

介護と考えると重いですが考え方一つである意味素敵な事と思います。

髪も洗って貰い髪を乾かしているのでサラサラヘアーです。

お父さんに洗って貰うのは気持ちがいいよね。

靴下はお父さんが洗濯板で洗って最後は洗濯機で洗っているからとっても綺麗でしょ。

お母さんは自分の事より家族の事ばかりやっていたので、今度はお父さんに甘えていいと思います。

不謹慎だけど病気も悪くないでしょう。

ねぇ、そうでしょ?お母さん✨

私も出来る事はやるよって言っても俺がやるからいいと言って母の身の周りの世話は全て父がしていました。

「俺はいつもササッと食べているからまともにご飯が食べられないから大変だよ‼︎」

俺は頑張っているアピールをしたかったのでしょうか(笑)

その通りです、お父さんがいないとダメなんです。
だからお父さん宜しくお願いします(笑)

母の通院に行く時には3人行きます。
外来の椅子で落ち着かない様で病院の廊下でウロウロとしているので一緒にいないと病院の中で迷子なります。
女子トイレには私が一緒に行きます。

1人で介護をするのは容易ではありません。

下の世話では母は勝手に動いて廊下が汚物で汚れても母の着替えをして周りの掃除を綺麗に整えていました。

「俺は鼻が悪いみたいでお母さんの下の世話は平気なんだよね」

と言って笑っていました。


看護師の私には下の世話は仕事上慣れていますが普通の人は難しいと思います。
父の介護は大事な人だからこその介護でした。

朝はデイケアなのでバタバタです。支度が整うとお迎えが来て立ち上がるとトイレに行きたくなるみたいで大変でした。
幼稚園の子供が朝に行く時のバタバタに似ています。

デイケアに送り出したら家事等済んだらソファで父は口を開けて寝ちゃうのでたまにお客さんが起こしてくれます(笑)


でも父はいつも夜になると起きてしまいます。
不安で熟睡出来ない日々が続いてました。

「俺さ2時になると色々考えて起きちゃうんだよね」

経済面も含めてなるべく節約していました。

私の実家は祖母から母にそして私にと3代に渡ってあんこを鍋いっぱいに作ります。
最後は父が4代目で作る様になりました。

「買ったら直ぐなくなってしまうし、作った方が安いから俺も作ったよ」

あんこは私の家族が大好きなので
そのまま食べたりパンに塗って食べたりしてあっという間になくなります。

父は母に

「お父さんのあんこは美味しいだろ?」

と話しかけて食べさせていました。

父があんこを作るなんて思いもしなかったです。

私も美味しく作る自信がありますが、一番父のあんこが何故か美味しいのです。


介護される人も介護をする人もいつまでするかわからない。

父は最期までお母さんの事を俺が面倒を見れるのだろうかと言って心配していました。


父の仕事は忙しく祖母が亡くなってからは俺が一番って感じで私にも弟にもあまり関心がないと思っていました。

小学生にとっては19時のアニメが外せない物でした。
ですが19時のニュースになり喧嘩ばかりしていました。

「家族の中でお父さんが一番優しいのよ」

以前母は言っていました。

どこが ‼︎
父のどこが優しいなんてと思っていました。

家の中では自分勝手で短気で口も悪いし自分が一番正しいと思っている父なので私と喧嘩すると永遠に終わらないだろうといつも思っていました。


そんな父と母の介護について私と色々な事を話し合ったり親戚の用事で母の代わりに私が父と同行する機会は多々ありました。

叔母の葬式後、帰りの道中で母の兄弟は(男4、女4の4女は母)
女性は皆痴呆でした。
痴呆になった兄妹は最後の顔は同じ様な顔つきでした。

そんな車中で父が急に弟の話をしました。

長男が結婚をして貰いたい(弟もいい歳なので)そして

「お父さん、夕食ができましたとか言って貰えたらいいなー」

と父もきっと疲れて居たのでしょう。たまには解放されたいと思って当然だと思います。
今日も明日も介護は続きますから。


お互い、お疲れ様と言って実家を
出ました。

私が住むアパートは直ぐそこなのに私はなんとなく駅の方に歩いていました。

夜の8時なのでスーパーに行く人や飲み屋もやっていてこれから飲みに行く人や家に帰ろうとする人や様々です。

今日の1日を何の為に生きているのかなんて普通考えないでしょう。

葬式後のせいかわかりませんがふと家族と私について考えていました。

私は病気をする前は家族にあまり関心がありませんでした。
特に父に対してはどうも反りが合わなくて会えば喧嘩ばかりでした。

私と夫は夫婦関係が上手く生かず子供を抱えて財布だけ持ってタクシーで実家に帰って来ました。
母は娘を抱きしめ香織は横になって少し休んだらとソファを指差しをしました。

私は産後6キロ痩せてしまい、
娘の夜泣きが酷くてロクに寝る事が出来ない。
子供が抱いていないと泣くので食事を取る時は抱っこ紐で立ったまま食事をした事もしばしばありました。

ただただ涙が止まらないのです。頬をつたった涙はぼろぼろと流れるだけでした。

私が病気をして初めて夫が借金をしている事を知りました。
夫はあちこちと借金があり借金取りから逃げ周っていました。

だから私の両親がやっと夫を見つけて私の代わりに両親が離婚届けと娘の養育権を取ってくれたのです。

父は仕事を退職したら母と夫婦でヨーロッパ旅行に行こうと決めていた様でした。
出来る物なら行かせてあげたかった。

でも私の病気と母の介護で最後の夢は泡となりました。            

父は面白く情に厚いので皆んなからOB会来いよと言われるのですが欠席していました。

母の介護や私の病気で話す事が辛かったと思いました。

恒例のOB会は父の楽しい行事だったのに。

お父さん、ごめん。

祖母が父に良く言っていた言葉

「ボロは着てても心は錦」

たとえボロボロな衣服を着てても心の中は錦を着ている様に美しい外見よりも内面が大事だと思って生きていたのだと思います。
正に父の生き方を象徴している様に感じました。


私は病室のベッドでなんでそのまま逝かせてくれなかったのと何度も思いました。
こんな身体になって生きる意味などないと。

「生かされた私の意味」とは

脳内出血した看護師だからこそ出来る母の看護と介護する事。

だから私は看護師になったんだと
思いました。

ある日、父は母の入浴介護をした後に具合が悪いと父からの電話があり急いで実家に行ったら父の血圧が下がっている様に見え不整脈がり、めまいやふらつき等が合った為に救急車を呼び母は弟に任せ、私は父と一緒に救急車に乗りました。

父が救急車で搬送された時は血圧が上は60下は45でいつ死んでもおかしくない数値でした。

父の病名は心房細動

とりあえず父の状態が落ち着いたので私は母のケースワーカーに連絡をして母をロングステイ等の介護施設で面倒を看てもらえるようにお願いしました。

最終的に父の病気はカテーテルを使ったオペで治療をして回復しました。

母の介護をしている父の健康の管理をする事で父にも私がいる意味があると思いました。


私には脳内出血をした時に娘(3歳)
子供がいました。

娘が産まれてから社会人まで共にー過ごし紆余曲折ありましたが娘と一緒に私自身もやっと大人なりました。

もし、病気になっていなかったら娘と向き合い育て自分も見つめ直す時間が充分取れていただろうかと思います。

娘が中学生の時に母を見て何も言わず避けていた時もあり母は娘を怖がる様になりました。

子供の瑠衣が母の病気を理解するには難しかったのでしょう。
ですが大学生になる頃には理解が出来ていました。


花が大好きな祖母、花が大好きな孫になりました。

弟とはあまり子供の頃から関わる事はありませんでしたが私の病気と母の病気を経て色々と会話が多くなりお互い協力して生活が出来る様になりました。

私はやっと生かされた理由の呪縛から解き放たれました。


父のオペ後母の在宅介護をするのは厳しいので母のケースワーカーさんが特養を勧めくれました。

丁度特養に空きがあったのでそれから母は特養で生活する事になりました。


母が特養に入った直後、父は魂が抜けた人の様な姿で私のアパートに来ました。
父は憔悴しきった顔で、、、、

「俺はお母さんに何が出来るのだろう」

「もう、何が何だかわからなくなった」

「お母さんの病気がわかった時から最期まで見ようと決めたのに
、、、」

いつも、テーブルにも座らないで用件だけ言って直ぐに帰る父が椅子に座り込んでボッーとしていました。
今まで、こんな父の姿を私は見た事がありませんでした。

「まだまだお父さんにはやるべき事は沢山あるよ」

「特養に毎日行ってお世話しておしゃべりしたりしないとお母さん寂しい思いをするから毎日お母さんの所に行かないと」

「お母さんがいる場所が変わっただけだよ、でも一緒に居れるでしょ」

「それにお父さんか健康じゃないとお母さんを誰が面倒をみるの?頑張って、私も出来る事はするからさ!」

妙に納得した顔をして父は

「そうだな!」

と言って私のアパートを出て家に帰りました。

翌日から父はもう固形の物を食べられない母に見切り品ではありますが状態が良くて旬の果物をミキサーにかけて毎日持って行く様になりました。

私は足が悪い為週末に父の車に乗り毎週12〜15時位行っていました。

入浴の日は特養のスタッフと一緒に入浴介護をしていました。

「今日はお母さんとお風呂の日だから大変なんだ」

父の大変は口癖みたいなものです。

特養のスタッフと一緒に母の入浴
介護をする時お風呂に浸かった母
を観て父は

「気持ちいいか?」

と言い母は言葉にはならないけど
母は気持ちいいと言っている様でした。
そして父も笑顔で母の介護をしていました。


ある日特養で誤嚥性肺炎(ごえんせいはいえん)を起こし緊急搬送となりました。

父と私は救急車に乗り救急隊員の人に父と私との関係性を聞かれました。

「綾瀬さんの奥さんですよね?」

と言われてどこが奥さんなのよ‼︎
思いました。

「奥さんではなく娘です‼︎」

と全否定で言ってしまいました。

その時、母の顔をもう一度を見ました。

真っ白な毛 窪んだ目 痩せこけた顔あの生き生きとしてた母の面影は何一つもありませんでした。

病室で寝ている母は病院で生かされている人でした。

点滴とクーリングと酸素マスク 定期的に吸引。母は吸引された時だけ苦しい顔をします。

それ以外は何も動く事はありません。

その後2週間は何も変わらない毎日が続きドクターから看取りの話が出ました。

ドクターからの話では病院を退院後、特養で看取りを勧められました。
父は承諾し明日病院から特養に戻る事となりました。

私は自分の家に戻り、夜2人掛けのテーブルで父と母の事を考えてました。

看取りになったら医療的な処置はありません。

ただ身体を拭いてたりクーリングやマウスケア等そして寄り添いながら見守るだけなのです。

どんどん衰弱し身体から水分が抜けて出る物は最期は無くなってしまいます。

父はその看取りに耐えられる事が
出来るだろうかと思いました。
そして母は病院に居れば最低限の命を守られますがそれが母にとってもいい事なのかと私は考えていました。

答えはわからないけれど夜中の1時病院に私は電話をしていました。

「大変申し訳ございませんが父の考えと私の考えが一致しないので
明日の退院を取りやめて頂けませんか?」

と言ってました。

病棟の看護師さんはとりあえず朝一番にドクターに伝えますので明日病院に来て下さいと言われました。

当日一足早く父が病院に行っていて父はドクターから家族の意見が一致してないと退院は出来ません、娘さんからお聞きしました。

とりあえず今日の退院は辞めましょう、娘さんとよく話合って一致しましたら退院しましょうとドクターに言われました。

「何考えているんだ!」
「特養の車も手配しているし皆んなに迷惑かけてどうするんだ‼︎」

父はカンカンで私を怒鳴り付けました。

「看取りって半端なく辛い事だよお父さんに耐えられる?」

「特養に戻ったらお母さんは医療的な処置は出来ないし限られた事しか出来ないんだよ、本当にお母さんもお父さんも辛いんだよ‼︎」

父は黙った.........

でも母の看取りをする事に自信が持てないと思っていたのは私だったかも知れません。

それから1週間本当に病院を退院しました。


特養に戻った母は点滴、酸素マスクもなくバルンカテーテルのみ装着され日中は看護師がいる為痰の吸引のみ出来ました。

特養に入った時から父は朝の11〜17時迄いました。
父の車で私も同行しました。

父は11〜17時迄いるのに自分の飲み物や軽食もとらず母のベッドサイドで椅子に腰を下ろしていました。

私がせめて水分位は取らないとと言ったら、ちょっとでも離れたらお母さんが亡くなった時に居れないから行けないと言って片時も離れない父。

毎日、父と私で必ずマウスケアと顔から足先と清拭をして髪を整え着替えをして体位交換クーリング等してベッドサイドにいて父が母の側から離れなかったです。

父は今の母を見て何を考えているのだろうと思いました。
母の手は拘縮があり父は手を重ねてずっと母顔を見つめていました。

看取りを始めてから1週間父の疲れは顕著に見て取れるのでちょっと休んだらと私が言った時
父は激怒して

「お前は夫婦ってものを分かってない、お母さんが可哀そうじゃないか」

と言い放っていました。

私は夫婦とはが本当に分かっていません。

でも、いずれわかる日が来ると信じたいです。
父が言う夫婦をわかりたいです。

母はごく稀に目が開く時もあり、その時は父と母は炭坑節を一緒に歌っていました。
声も出ないけれど母は小っちゃい口で頑張って歌いました。

「お母さん17時になったから帰るね。明日も来るからね、待っててね」

と言い特養を出ました。

「お母さん、大丈夫かなぁ?」

毎日帰りは父のその言葉でした。

14日目私はやはり母の専用の看護師だったのでしょう。

17時になり父に

「お父さん、今日はまだ居よう」

と言いました。

19時過ぎ父が炭坑節を歌い出しました。

そして

「香織、お母さん死んじゃった。」


母は父が歌う炭坑節を聴きながらその腕で亡くなりました・・・

私はもうただの娘であり看護師ではなく死を受け取る事が出来ず
子供の様に泣いていました。

父が母を肩に寄り添う様にずっと抱きしめていました。


看取りは辛いだけでは無いと思いました。
最愛の人の死を受け入れる準備の時間、最期まで愛する人と一緒にいたい。

どんな姿になってもいたいそれだけなのです。

亡くなった母を抱き寄せ父がただ
何も言わず母の顔を見つめる。

父と母には心に切っても切っても切れない糸があり亡くなっても夫婦と言う絆あるとそう思いました。

葬儀は桐ヶ谷で行われました。
出棺の時父は何の前触れもなく父と母がいつも歌っていた炭坑節をずっと歌っていました。

親戚は父の気が触れたのかと思った様でした。

父と私には深くそして胸に突き刺さる思い出の歌になりました。

桐ヶ谷の葬儀場で出棺時大きな声で炭坑節を歌った人はいないと言われました。

私は父から母への鎮魂歌と思いました。

きっと祭壇の前で母と話しているのでしょう。

だれも居ないところでぼろぼろと泣く父。
アパートで泣く私。
やはり親子であり血は争えないのですね。

葬式がひと段落した時に娘が

「家族揃ったのって久しぶりだねババがそうさせてくれたんだんだね」

代償は大きかったけどそれ以上の実りがあり家族の一人一人をわかった気がします。

私の病気の発症が10年後だったら
車椅子でしょうとドクターに言われました。

母も10年後発症したら父との幸せを感じる死を遂げらげなかったと思います。

父の為に母は頑張り続けていたのでしょう。

苦しかったね、精一杯生きてくれてお母さんありがとう。



そうそう、孫の結婚が決まりまし
たよ。

お母さんが買ってくれた青紫の着物で成人式 大学の卒業式は緑の訪問着。

今日の両家の顔合わでは訪問着を着ます。

お母さんに瑠衣の晴れ姿を見せたかった。

両家の顔合わせの写真にお母さん
もいて欲しかった。
そしてお父さんの隣は私ではなくお母さんでしょ。

お父さんもだいぶ身体が小さくなりました。
お母さんも生きていたら同じくらい小さくなっているでしょう。

お父さんもお母さんと一緒に出たかったと思っているはず。

夫婦ってお父さんとお母さんみたいな存在なんだと思う。

それ当たりでしょ‼︎























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