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悲しくてやりきれない、フォーククルセダーズ。

68年3月21日リリース、オリコン6位

このレコードを買ったのは30年程前だと思うが、フォークルは知っていたものの「イムジン河」の経緯は知らず、ただアングラっぽいものに惹かれてたまたま買っただけだと思う、ちなみに「悲しくてやりきれない」の曲自体は矢野顕子のアルバム『愛がなくちゃね。』収録のカヴァーで聴いたのが最初

67年末、社会現象的に「帰ってきたヨッパライ」が何百万枚のバカ売れ、翌68年のセカンドシングルは「イムジン河」が予定されて盤まで出来ていたが、発売直前になって中止に

急いで代わりの曲を加藤和彦は強制的に作らされる、そこで「イムジン河」のメロディを逆さにして作曲したという逸話があるが、これはネタで、実際は「イムジン河」のコード進行をなぞりながら、時には解体しながら改めてメロディを構築していったというところだろう、そもそも似た曲を作らなくてもいいのだが、何せ急に作れと命令され、そんな状況を押しのけてまでの特別なアイデアもなく、そもそも何で発売中止になるんだ、と半ば納得がいかないまま、そんなに遠くない曲調で仕上げる他なかったと思われる

そもそも急遽新しい曲が必要ならば、まだシンガーソングライターという言葉もロクにない時代、歌謡界の作曲家先生も待機している時代に、1曲だけヒットを出した若造(加藤和彦)に曲を作らせるより、先生方にあたった方が無難だったんじゃないかと思うのだが、実際問題今日中に作ってくれ的な無茶な注文を先生方に出来るわけもなく、かといって「帰ってきたヨッパライ」1曲の大ヒットをもって、こいつは天才と思われていたのか、もちろんその後の活躍をみれば凄いのだが、あくまでこの時点での話、加藤和彦の能力がどのくらい買われていたのか、わかりそうでわからない

わかりそうでわからないが、兎に角ミリオンセラーの次を急げという会社命令で軟禁され、渋々と、そして軽やかにやってのけ、あの素晴らしい曲が完成

そして、出来た曲を作詞家先生のところへ持っていく、やはりここで先生だ、何故先生だ、北山修はどうしたんだ、曲は加藤和彦が書いたんだから、詞もメンバーに書かせればいいのではないか、しかしそうはならなかった、おそらく北山修は「イムジン河」発売中止の件で怒っていたのではないか、ありえねー俺はもう知らねーと、或いは「イムジン河」の作詞は松山猛なので、北山修ではなく松山猛に新しい詞を書かせればいいのではないか、しかし松山猛こそ発売中止に怒っていたかもしれない、という流れで何の脈略もなくサトウハチロー大先生へ飛躍する謎

ジャケのコピーにあるように、フォークルは「アングラの旗手!」なわけだから、20歳そこそこのメンバーの作品に対して当時60代半ばの大先生に作詞を頼むという案件、年の差40以上、何故そんなジジイに頼む?と思ったとしても何ら不思議ではない、サトウハチローといえば「リンゴの唄」、もう戦後は終わったのではないのか? アングラはどこへ行った (Where have all the Underground gone?)

しかし戦後はまだ終わってはいなかった、サトウハチローは広島の原爆で弟を失う、その思いを詞にしたのが「悲しくてやりきれない」、詞を受け取ったスタッフも戦後は終わったと思っていたので、最初はピンとこなかったらしいが、メロディと合わせてみたら皆納得、流石の大先生、会議では作れない奇跡の名曲が誕生、最近では『この世界の片隅に』にも使われ、再び「リンゴの唄」になる

しかし問題は終わってはいなかった、レコードにはB面というものがある、真っ黒にするわけにはいかない、もう1曲必要だ、いやいやそもそも「イムジン河」が問題なわけだから、そのままB面になる予定だった「蛇に食われて死んでいく男の悲しい悲しい物語」でOKでしょ、誰がどう考えてもB面はそのままでよい、A面だけ差し替えればいいはずだ、ところが、いやいやA面B面どんだけ「悲し」いんだよ!カブってるから変えろ、当初のB面を知らなかったハチロー大先生によるまさかの「悲し」カブせ、大先生の方は書き直しとかもう無理だからB面を変えろ、もう1曲新曲! 結局まさかの2曲ともボツ? これだからメジャーはよォ〜(怒)と、フォークルの解散を早めた一因となっても仕方がない

軟禁されて1曲作るだけでも大変だったのに、もう1曲作らなければならなくなった、A面は「イムジン河」に劣らぬ名曲が出来たから、B面はもう適当でも何でもいい、ここでやっと北山➖加藤コンビの登場である、速攻で出来ました!「コ〜ブのな〜い〜ら〜く〜だ〜」

あの「帰って来たヨッパライ」に続く、第2弾シングル「コブのない駱駝」、これこそがフォークルの真骨頂である、ラジオの深夜放送で流れた「帰って来たヨッパライ」に「戦後は終わった、ついに俺たちの時代がきた、アングラだ!」と狂喜した若者に対するレスポンスは「コブのない駱駝」であって、意図せず生まれた名曲「悲しくてやりきれない」には「まじめかよっ!」というツッコミが入ったとしてもおかしくはなかった

ちなみに「蛇に食われて死んでいく男の悲しい悲しい物語」は「大蛇の唄」と改題され、後にシングルA面曲となる、いやだったら最初から改題して「悲しくてやりきれない」のB面に入れとけば話は早かったんじゃないでしょうか⁉️

追記
最近読んだ当時の制作スタッフによる本に、
まるでこの記事を読まれたかのような、何故「イムジン河」に代わる曲を北山修が作詞しなかったのか、そして何故サトウハチロー先生になったのか、の答えが書いてありました、興味がある方は一読を


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