僕ってなに?(僕の読書遍歴1)

 ふと、僕の読書遍歴を振り返ってみようという気になった。普段からたまにSNSなんかで、あのころは何を読んでいて、というようなことを断片的に追憶してみることはしていた。そういうことを考えるのは、たいてい僕がどういう人間であるのか、つまりは僕がどんなことに関心を寄せて来て、どんなものに影響を受けたのか、ということが分からなくなったときであったように思う。僕は自分が何が好きなのか分からない、とまで言ったら言い過ぎかもしれないが、これまで「あなたは何が好きですか?」という質問を投げかけられるたびに答えに窮してきた。「これが好きです」と言えるほどに、何かに強い思い入れを持つということができない質なのかもしれない。あるいは、好きなものが多すぎてどれを答えるべきか決めかねているのかもしれない。それすら分からなくて、この問いかけにはいつも困ってしまう。もっとも、僕だって会話の便宜ということを考えてみたりもするわけで、「何が好きですか」という問いに対する「答え」は用意している。実際、その答えに相当するものが好きであることに間違いない。けれども、いつもどこか不安な気持ちになりながら、その答えを口にしている。僕という人間をその「答え」によって表象してしまうことへの暴力性におびえているのかもしれない。事実、「私はなになにが好きです」という表明は、会話において、キャラ付けとしての役割を果たしているように思う。たしかに、僕自身、そうしたキャラ付けを積極的に自らに対して行う時もある。たとえば、「好きなバンドは筋肉少女帯で、好きな漫画は『惡の華』です」と「サブカル」を演じてみる。こうやって挙がるのはもちろん僕の思い入れがある名前であることは間違いない。けれども、僕がどういう人間であるか分からない不安感を慰めるため、便宜的に自分という人間に対してキャラを与えようとしているだけなのではないか、という冷めた視点も同時に持ち合わせている。だから、名前を列挙するだけではなく、自分の追憶をたどり返しながら、自分を捉えなおしたいと思った。そのために有用な糸口はやはり読書遍歴である。こういった事情であるから、読書遍歴を振り返ると言っても、読んできた本を年表的に並べ上げるだけというわけにはいかない。ゆっくりと、過去に向き合いながら、ときには本を読み返してみたりなんかもしつつ書き進めていくことになると思われる。こういった努力を僕が最後まで続けられるかどうかは微妙なところだが。
 追憶を始める前に、僕がどういった読書の仕方をしているか、簡単に述べておかないといけないかもしれない。まず、僕はあまり本を読み返さない。僕にとって本を読むというのは気力と体力を相当に必要とする営為で、一度読んでしまったものをもう一度読もうという気を起こしそれを実行に移すためには高い高いハードルを越えなくてはならないのである。だから、内容に記憶違いがあるかもしれない。けれども、僕の中ではその本はそういった形で記憶されているのだということの記録として、内容の間違いにはあまり厳密にならないこととする。それから第二に、僕が本を通読できることは稀であるといってよい。これには先に述べたように、僕にとって読書が相当に労力を必要とするものであるという事情に加えて、気が変わりやすいという性格が理由として挙げられる。読み終わる前に、他の本に目移りしてしまうのだ。とりわけ二巻以上に分かれている作品で通読できたものはごくわずかしかない。それゆえ、今後名前の挙がる作品であっても僕が通読しているとは限らない。「あれのあの部分が~」みたいなことを言われても、僕がおろおろして困ってしまうからやめてほしい。あらかじめ述べておかなくてはならないのはこれくらいだろうか。また思い出したらその都度書いていこうと思う。
 これから書いていく読書遍歴は、大きく六つの時期に分かれると思う。第一にまだ児童書を読んでいた小学校中学年まで、第二に食指の動くままに本を選んでいた小学校高学年から中学生の前半まで、第三にオタクにあこがれていた中学校の後半から高校のはじめまで、第四に澁澤龍彦の影響で耽美に心惹かれていた高二から浪人の時期まで、第五に読書を捨てた学部前半、最後に学部後半から大学院生である今現在に至るまでのどうやってまとめたらいいのか分からない時期である。この最後の、関心が迷子になっている今現在の自分を知るための追憶の旅なわけだ。それに、まとめようがないのは、関心が雑多であるからでもある。元来僕は読書のスピードは遅く、また一時期はまともに本が読めなくなっていたこともあり、ごく最近読書量が急激に増えた。自分を見失っているというよりも、慣れない読書の大海で溺れかかっているのかもしれない。

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