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「多様性」を信じ切っていたあの日。頭の中にある謎の一枚絵。

フットボリスタ最新号に掲載された、ささゆかさん×北健一郎さんの対談を読んで、5年前のTEDxKOBEに参加したことをまざまざと思い出した。

それは二十を少し超えた頃の自分が、「ほぼ完成された」と浅はかにも勘違いした己の価値観をものの見事に粉砕し、今後の人生をかけてそれを再構築することを余儀なくさせた。

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当時のテーマは"Dive into Diversity"
世界各国で様々な活動を行っている方々が一同に会し、プレゼンを行う。
使用言語は日本語、しかしプレゼンのクオリティは本家TEDに勝るとも劣らず、今まで国内で、生で聞いてきた中で最高レベル。

会を追うごとに次々出てくる知らなかった分野の話、特に興味もなかった世界の話にどんどん引き込まれていくのを全身で感じていた。
この段階では、会を楽しんでいるだけの人間だったと思う。

プレゼンターの1人で、片山真理さんという方が椅子に座って登場した。

プレゼンが始まると思い待っていると、彼女は「始まる前に、すみません」と一言添え、観覧席から注目を一点に浴びながら、太ももから自分の両脚を外した。

「義足美術家」だった。
先天性脛骨欠損症で、両足は不自由、かつ左手は2本指で生まれた。
9歳の時、彼女は温存していた両足を切断、義足に切り替えた。

流麗な彫刻を施した義足に両足を換装し、壇上に綺麗な立ち姿でゆっくり話し始めた彼女に、観覧席は完全に目を奪われていた。

アーティストとしての彼女は、両脚の義足とそれを着ける自分自身をモチーフに、セルフポートレートで作品を発信するなど芸術活動に邁進する傍ら、その一環として義足でハイヒールを履くという運動を広めていた。

彼女自身の生い立ち、義足をアートにするまでの経緯、その志…自らの身体、境遇、バックボーンと徹底的に向き合ってきた経緯を語ってくれた。
それらを美しくも静かで、しかし迫力のある立ち振る舞いを通して訴える。
圧巻のプレゼンだった。

聴き終わってふと、元のテーマに還って考えている自分に気がついた。

「自分はこの人を"Diversity"の中に
どういう形で組み込んでるんだろうか」

こういう志もあるんだ、
こういう活動もあるんだ、
こういう生き方もあるんだ、
そういったパーソナリティーとしての多様性。
そんな見た目キレイな話ではなく、
「『障害』も"Diversity"だと本気で思っていたか。」

自分は思ってもいなかった。

想像さえしなかった。

なぜそうなったか。

他人を見る、他人を認めることにおいて、人間は各々のバイアスを持っていると仮定してみる。
つまり、ある人の要素を「そういう個性」と勝手にカテゴライズし、自分の中の多様性に組み込む作業の最中、捨てられていくものがある、としてみる。

すると「多様性のある場」というものがあったとして、それは各個人が「これは個性だ」と持ち寄って認めたものだけしか存在していない場であるとすれば、これは相当バイアスがかかった「多様性」ということになる。

そういったことは凡そあるのではないか。

「多様性」という言葉の抽象度が高いせいで捨象が起こる。
どういう基準で捨象されているかは、多様性を構成する「個性」を各々どの基準で選び寄って来たかによる。
しかもその「個性」すらも、人を構成する様々な要素のうち「個性」だと認められているものの集まり。極めてポジティブなバイアスがかかった集合体。

選んで(捨てて)いる側に悪意はない。
フットボリスタの対談で、ささゆかさんが拒食症の友人の件で仰っていたように、どこで刷り込まれたアンコンシャス・バイアスなのか分からないからだ。

自分の頭にはなぜか、「多様性」と聞いて思い浮かべる謎の一枚絵があった。
様々な国籍、人種、性別、性格…自分が「個性」だと認めている要素を持つ人たちが、想像できる範囲で集まっている場面。

教科書で見たのか、ポスターで見たのか、誰かに教えられたのか定かではなく、ひも解くのは不可能に近い。
それでも、あらゆる全てが含まれ、それらが絶妙に混在している状態を指して「多様性」と呼ぶのが当たり前だと思っていた自分は、頭の中の一枚絵に一切疑問を抱いてこなかった。

そこに全く加味されていなかった要素が、自分にとっては「障害」だった。

認識の全体に何の要素が混在していて、どう融合しているのか、もしくはそうでないのかを判断することは、「厳然たる存在として何を含めているか」を要素分解的に見るということ。

「女性らしさ」と聞いて、頭に思い浮かぶ謎の一枚絵がないだろうか。

あるとすれば、それはどんな要素で構成されているだろうか。
それに近しいものとの関連性を、勝手に排除していないだろうか。

対談を読みながら、そんなことを考えていた。

それが悪いとか、改めるべきとか、説教じみた話ではない。
「無意識(Unconscious)」である以上、外的要因が関わらなければ自力では気づくことすらできないかもしれない。
少なくとも自分はできなかった。

ただ、きっかけ一つで自分の無意識で囲っている領域があることを意識的に捉え続け、価値観を変えていけることが人間の強みであり、何より大切なことだと思う。

サッカーには、それこそ様々な周辺要素、社会的要因が含まれる。
政治、宗教、国籍、出自、性別、経済状況が、スタジアム内外で混在している。

世界中いろんな人が見て、熱狂し、楽しめるコンテンツを愛している人たち、その環の中から無意識に排除される人が出る事態は望ましくない。
だからこそ、きっかけとしても、「ジェンダー」や「多様性」に一度向き合ってみることが大事なのだと思う。

自分の"Diversity"の認識から考え直す必要があるかもしれないと気付かされたあの日から、一枚絵はもう出てこない。

それを白紙から描いてみようとすると、
世界は思っていたより広くなる。

今号、「ジェンダー」というテーマで巻末7ページを割き、
沢山の言葉を交わしたお二人の対談を掲載した
フットボリスタへ、最大の敬意を表します。



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