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勝手に書評|松村圭一郎|小さき者たちの


 この本に出会ったのは、北杜市にある「のほほん」というカフェが併設された小さな本屋さんだった。タイトルを見た時、すぐに〈小さき者〉が何を指そうとしているのかピンときた。著者である松村圭一郎さんの他の著作『くらしのアナキズム』などを呼んでいたから、それはきっと〈名もなき者〉〈普通の、ありふれた人びと〉〈歴史物語の中では取り上げられることのない人びと〉そういう人たちを指すんだろうと思った。そういう本を読みたいと思った。

 本屋でこの本を購入し、同じ場所でアイスコーヒーを注文して椅子に座り、この本を開いた。予想外だったのは、本書が公害である水俣病をメインに取り上げていたことだった。水俣病に関する本は様々に出ており(知り合いの家の本棚の一角が水俣病に関する本で埋まっていたから余計に)、なぜ水俣なのだろうと思ったが、数ページ読んでみてすぐにその意図が分かった。

 水俣病の当事者である被害者やその家族、時に加害者や公害運動の主体、みんなが〈小さき者〉なのだ。彼らは声をあげ、時に協力し、時に内省する。大きな制度や組織という、目に見えず実体すらないようなものに対して、問いを投げかけ続ける。その背景には当事者であること、その現実を見てしまったこと、という逃れられない事実がある。考えないわけには、動かないわけには、いかないのだ。もはや自分の意思とは関係なく動く運命の歯車に乗っかってしまっている。


 人びとは〈あたりまえ〉が何かを考える暇もなく、移ろい変わる〈あたりまえ〉の生活を送っていた。そこに不意に、不穏な因子がやってくる。人びとはそんなことなど知る由もなく〈あたりまえ〉の生活をする。そして、ある時異変に気づく。しかしもう遅い。その時にはすでに別の〈あたりまえ〉が形成されており、人びとと不穏因子は運命共同体になっている。その中で人びとは何を考えどう動くのか、ただの一人間に何ができるのか、彼らは何をしようとしたのか、そういうことを当時の資料から追いかけていく。この本の主役は、もちろん戸籍上の名前はもつものの、歴史の中では名前をもたない、歴史家や専門家の目や手からはこぼれ落ちていった人たちだ。


 とはいえ、この本には構造的な問題もある。まず、ある程度水俣病や公害運動の知識がなければ、読んでもその真意には到達できないということだ。先述したように、この本はいわゆる〈歴史〉からはこぼれ落ちていった人びとに主眼を置いている。少なくともそう意図している。しかし本書を読んだだけでは、水俣病の構造的な理解は得られず、どこからどこまでが一般的な歴史知識で、どこからどこまでがそこからこぼれ落ちてきた部分なのかが判断できない。もちろん本書で扱われているのはほとんどが後者なので、特に背景知識がなくても具体的な物語として読むことはできる。実際に私はそうだった。ただ、もう少し自分に知識があれば、水俣病のことをあるいは水俣病に関するメディアや報道のことを知っていれば、もう少し違った角度かつよりピントのあった状態で本書を読めるのではないかと思った。


 いずれにせよ本書を読めば、世間や社会、いやむしろ国家によって作られる歴史はあくまで1つの物語でしかなく、その世界を作っているのは登場人物ではないその他99%の人たちだということを、否が応でも認識させられるだろう。

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