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ひとりのクリスマスと、ロン毛の朝青龍ことハラグチさんについて

クリスマスイブ、一人で恵比寿の街を歩いていて、ハラグチさんのことをふと思い出した。

まだ大学生だったころ、私は都内の漫画喫茶でアルバイトをしていた。900円の時給は相場からすると少し安かったが、客がほとんど来なくて暇だったのと、好きな漫画を読みながらドリンクバーのジュースを飲めるので、割と気に入っていた。

ハラグチさんとはじめて会ったのは、その漫画喫茶に面接に訪れたときだ。
入り口のドアを開けて受付で名乗ると、店長らしき男性は、客のいない奥の席へと案内してくれた。

「少しここで待ってて」

そう言ってまた受付の方へ戻っていき、彼は傍にいた誰かに声をかけた。

「ハラグチさん、俺面接に入るから、レジお願いね」

はーい、と言いながら、ドリンクバーを清掃していた彼女が振り向いた。つややかな黒髪をなびかせて。そして、大きなゴムボールのような巨体を揺らしながら。

「ロン毛の朝青龍だ」と、私は思った。

店長と無事面接を終え、ハラグチさんと私はめでたく同僚になった。
私が入っていたのはもっぱら日中から夜までのシフトだったが、24時間営業の店には、早朝や深夜のシフトもあった。そういった時間帯に入っているのは、ずっとフリーターをしながら年を重ねてしまったような、社会からほんの少しあぶれた人たちだった。
ハラグチさんもその一人だ。

主に早朝から夕方までのシフトに入っている彼女は、二十九歳を迎えても今だ実家で暮らしながら、月に20日近くを漫喫で働いていた。
七時に出勤して深夜の担当から引継ぎを受けた後は、泊り客の早朝退店ラッシュをやり過ごし、昼食にカップ麺を食べ、夕方までのんびりする。そうして稼いだお金を少しだけ実家に入れて、残りをアニメのグッズや若手俳優のミュージカルにつぎ込んでいた。

「住民税ずっと滞納してたら、差し押さえ通知?みたいなの来ちゃった」

そう言って笑っている彼女を見て、私は心底ぞっとした。

漫喫で働いていると、「かわいいね。なんで漫喫なんかで働いているの?」と、ときどき客に聞かれた。

私は誰もが振り向くような美人ではない。だけど、化粧をしてマツエクとカラコンをつけて、茶色に染めた髪をワンカールさせれば、わりとかわいいと、自分でも思う。

化粧をしていない寝起きは、だいぶうすぼんやりして、少しだけオラウータンの赤ちゃんに似ている。自分自身ではそんな姿も何となく愛おしく思っているのだけれど、私が素顔で外に出ることはない。

なぜか。

男に好かれたいとか、女友達とのマウンティングに勝ちたい、という気持ちがないといえば嘘になる。でも、それがすべてではない。

自由に生きていくには、ある程度美しくなければならない、と私は常々考えているのだ。

漫喫で働く。それは、私の「選択」だった。私はいろいろな選択肢の中で、あえてそれを選んでいた。少なくとも、私になぜこんなところで働くのかと聞いた客たちは、そう思っていた。
しかし、ハラグチさんがそういったたぐいのことを聞かれることは、一度もなかった。

漫喫の電話には、時々いたずら電話がかかってきた。

「部屋ではオナニーができますか?」
と、荒い息で男は聞いた。
「できますけど、完全な密室ではないので、他のお客様のご迷惑にならない範囲でお願いします」
ハラグチさんは、変態にも淡々と応対した。

「変な電話かかってきたら、いつでも私に回して」

そう胸を叩いた彼女は、強くて、悲しかった。

「彼氏とか、そういうのは今はいいかな」
とハラグチさんは言った。
「私にはケンティーがいるから」

ケンティーが誰なのか、私は知らない。きっと彼女の鞄に山のようにつけられたキーホルダーのうちの、どれかに描かれているのだろう。

彼女は、「彼氏がいない」と言っても、「意外」とも「理想が高いんでしょう?」とも言われない。そうだろうな、と誰もが思う。ロン毛の朝青龍と好き好んで付き合う男は、そうそういない。

自由に生きていくには、ある程度美しくなければならない。

例えば、一人で牛丼を食べるとき。

映画『モテキ』で、主人公に振られた麻生久美子が、吉野家で大盛の牛丼を二杯平らげるシーンがある。周りの男性客は、圧倒されて見つめている。
その食べっぷりはとてもすがすがしく、美しい。

しかし、これがハラグチさんだったら、どうだろう。きっと、「デブが牛丼食ってるよ」と冷たい目を向けられるに違いない。あるいは、「やっぱりデブはよく食べるんだなあ」と感心されるか。

「おひとりさま」なんて言葉が使われるようになり、一人で外食をする女性も増えた。けれど、それはそれなりにかわいい女に限った話だ。それなりにかわいい女が一人でラーメンをすすれば、もちろんそれなりにかわいい。餃子や半チャーハンをつけても、「よく食べる気持ちのいい子だな」となるだろう。しかし、デブが半チャーハンをつけていれば、店員は顔に出さないまでも、「だから太るんだよ」と思う。そう思われてまで、牛丼やラーメンを食べる勇気が、私にはない。

私たちは、醜ければ何も選べない。「ひとりでいること」さえ。他に選択肢がなければ、それは選んだ結果ですらないのだ。

私が大手企業に就職すると聞いた時、ハラグチさんは言った。

「あそこ、時々営業の電話かかってくるよ。大変そうだね」
それを聞いても、私はなんとも思わなかった。そこがハラグチさんには逆立ちしても入れない会社だとわかっていたからだ。彼女たちは、この漫喫でしか生きられないのだ。

私はハラグチさんのことを考えながら、ひとり恵比寿を歩く。

あの後、一年ほど経って、一度だけ店の近くを訪れた。古いビルの八階は、見慣れた漫喫から安っぽい居酒屋に変わっていた。

ハラグチさんたちは、一体どこへ行ったのだろう。今もどこかの漫喫で働いているのだろうか。それとも、あの漫喫と一緒に消えてしまったのだろうか。

カップルだらけの人混みの中、ショーウィンドウに自分の姿がうつる。ボーナスで買った薄いグレーのコートは、我ながら正解だった、と思う。大丈夫、私はまだ選べている。

約束はないクリスマスイブ。
だけど、寂しくはない。私はどこにでも行けるし、なんだってできるのだから。



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