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05 倫理観のドア

「自分に優しさがあるかどうか、それを判断するのは他人だな。ほかの事柄でもそうだ。強さ、弱さ、合理的、論理的、倫理観、モラル、偏見――何かにつけて自分の性質というものは自分だけでは判断できないものということになる。となると自分に持っているものというのは人の定規でしか測れないのだろう。それって寂しくはないだろうか。寂しいものだよなぁ」

 白い壁、白い天井、白い床。机も椅子も真っ白で、窓なんてしゃれたものはない。ドアももちろんない。密室空間で一人、俺は言葉を紡ぐ。ひとりぼっちの空間に俺の声は大きすぎるようだ。言葉を切ると切っ先がそのまま俺の喉元に突き刺さる。なるべく間隔を開けずに話し続けなければいけない。

 ここに来た理由はわからない。ずっとここにいたのかもしれない。ずっとここにいなかったのかもしれない。気がついたらこの部屋の中で立ち尽くしていて、何かをしゃべり続けなければいけないような使命感に駆られているばかりだった。しんと静まりかえる部屋。俺の声。気が狂いそうだ。

「倫理観、そうそう倫理観。これは厄介なものだな。倫理観というものはいつどこで誰が言い出したものなのか、それすらもわからない。けれど、みんながみんな持っている倫理観。これはどうしようもないな。一人の行動はこの倫理カントやらに基づいていると言っても過言ではない。人を殺してはいけないのは法で縛られている以外の理由があって、弱きものを助けるのは偽善以外の理由がある。それが倫理観の在り方なのだろう。哲学的に考えてみよう。倫理観の成り立ちを考えてみよう」

 そうはいったものの、俺には哲学なんてものはさっぱりわからない。哲学的、哲学的って何だ? 言い淀んだ俺の喉元に先ほど発した声が突き刺さった。声、といってもビー玉みたいな丸っこいものが。壁、天井、床、どこかへ飛んでいった俺の言葉はその重さのまま俺に跳ね返る。

 うう、と呻いて一歩後ろによろめいた。痛い。質量のない言葉のビー玉。的確に喉仏をぶち抜いて痛みで何も言えなくなる。ピストルで撃ち抜かれた方が幸せだったのかも知れない。しかしこの痛みを受けてもなお俺は生きていた。しゃべり続けなければ、しゃべり続けなければ。俺の脳はどこから湧き上がってくるのかそんな強靱な強迫観念がぐいぐいと首を絞めた。

 どうやらこれは俺の幻覚だけではないようだ。この部屋はそういうシステムで構築されているらしい。発した言葉、特に語尾の句読点。それが俺に向かってはねかえってくるらしい。区切りはきっと俺が少しでも口をつぐんでいるとき。俺の様子をうかがいながら、それでいて容赦なく俺の喉元を狙い撃ちするのだった。

 倫理観。俺はこの言葉と確執があるみたいだった。どうもこの言葉は好きではない。いや好きになれない。そっちの方が正しいように思えた。

「どこからきたんだろうかその言葉は。昔から、遙か昔からあるように思える。日本が犯罪大国にならないのはこの倫理観とやらがいろんなものを妨げているような気がしてならないな。とんでもない事件が少ないのは倫理観のおかげだろう。しかし、しかしだ! 偉大な成功が少ないのは倫理観の生にならないだろうか! 法を破れと言うわけではないが、チャレンジ精神がないように思える。そうじゃないか?」

 クエスチョンマークは、クエスチョンマークのまま俺を通過する。いや確かに感触はあった。ふにゃんと優しい肌触り。俺の喉を軽くタッチするとふわふわとどこかへ消えていってしまった。句読点よりも大きくてカーブしているからだろうか。いやきっと関係ない。しかし、痛みはなかった。そうか、誰かに問いかけていけば間も怖くないだろう! いや、ここで話をやめればいいんだ。そうだ、そう思って椅子に座ろうとするがからだはうごかない。俺の意思に反して再び大きく息を吸い込んだ。やめろ、もう話したくない。枯れた喉に乾いた空気が通り過ぎ、ひりひりとひりつく。もう何時間も水を飲んでいないのだ。俺の脳は声を出すようにと喉に指令を送る。酷使しすぎた喉はヘバることなく、再び声を出す。

「やはりおかしいな、倫理観とは。俺は嫌いだ。倫理観とやらが。だって、それのせいで人間は面白おかしく生きられない。そうだろ?」

 ふたたび喉を優しくタッチ。問いかけること、なんだこんなにも簡単なことなのか。声は出さなければいけないが、話す内容は俺の自由らしい。そうやって俺は言葉を稼いだ。息が切れても、もう誰も攻撃はしない。優しく喉をなでられ、むしろ励まされているようにも思えた。これでもう苦しまない! あとは水があれば最高だけれど、そこまで贅沢も言えない。気分は最高潮。自分の中で扉がぱあと開いた。ような気がした。これが活路だ。

「俺は、倫理観が嫌いだ! そうだろ!」

 気分が最高潮に達し、俺は言い放った。一瞬の静寂。そして俺は後悔した。

 ビックリマークは、刺さりやすい。

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