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手放して与えられた命

 過去の記事にも書いたように僕の人生は薬を中心に回っていました。使うために生き、生きるために使うことの繰り返しでした。薬を使うこと、より多く手に入れることに執着していました。頭の中は薬を使うことでいっぱいで大切な人たちまでも巻き込んでいきました。僕の生活の大部分は薬で占められていたのです。

 僕は薬を使った時、パズルのピースが嵌るように心に空いていた大きな穴が埋まった気がしました。痛みを伴う空虚さを埋めようと必死でした。薬を使ってようやく普通の感覚になれたのだと思います。

 でもその感覚は長続きしませんでした。人生はどんどん破綻していき他の人たちのように生きることも人生を楽しむこともできなくなっていったのです。大切な人たちをそっちのけにして薬を使い続けました。少しづつ自殺していたのです。

 人生がどうにもならなくなっていたにも関わらず、薬を手放したら僕には何も残らないのではないかと思っていました。薬を使って埋めていた空虚さにまた飲み込まれるのではないかと思っていたのです。

 でも幸いなことに命を落とすことなく長い時間をかけて薬から解放されて行きました。仲間や家族のサポート、回復のプログラムに取り組んだおかげで薬を使うことはなくなり生活は穏やかさを取り戻していきました。空虚さもありましたが仲間と共に歩くことでその大きな穴が埋められていったのです。

 ダルクや自助グループでは薬をやめて一ヶ月、二ヶ月、三ヶ月、六ヶ月、九ヶ月、一年…と区切り区切りで仲間が祝ってくれます。一人でやめていても辛く虚しいだけですが仲間と共にやめていると励みになりますし、やめ続けていこうという力をもらえます。

 僕は薬を手放して本当にたくさんのものが与えられました。手放すのにも、新しい生き方を獲得するのにも長い長い時間がかかりましたが。今では薬を使うことに占められていた時間やお金や場所を他の有意義なことに使えるようになりました。人との関わりも大切にできるようになりました。今まで興味のなかったことにも関心を持てるようになりました。絵を描いたり写真を撮ったり音楽を作ったり。薬を使っていた頃には考えられなかったことです。そしてその新しい生き方は薬を使っていた人生よりも何倍も素晴らしいものだったのです。手放すことは失うことではなかったのです。

 薬をやめた今でも色んな意味での囚われや強迫観念はあります。でもあれだけ止められなかった薬から解放されたのですから、この新しい生き方、回復のプログラムを続けていれば、他のアディクション、囚われや強迫観念、執着からも必ず解放されると思っています。薬から解放されてそこに新たな空気が流れ込んだように粘り強く続けていればいつか解放されて自由になれると思っています。

 そのためにも新しいものが入る空間を作ってあげる必要があるのだと思います。たぶん器の大きさは決まっていて、いっぱいいっぱいになったら不要なものを手放さないといけないのだと思います。

 しがみついているものを手放すことができると、そこに新しいものが入ってきます。しがみついていることに使っていたエネルギーを別のことに使えるようになります。今までとは違った行動が取れるようになり、そこに新たな道が開けます。しがみついているものを新しいものに置き換えるには、勇気をもって新しい行動が必要でした。


 ここまで書いてきて今更何を言うんだと思われるかもしれませんが、ふとこのめばさんの言葉が頭に浮かびました。


 めばさんのこの言葉にもあるように何かを抱きしめたことのない人に手放せと言うのは酷なことだと思います。僕も薬を手放した結果、家族に手放された結果、自分でなんとかしようと自立の道を歩むことができましたが、手放して手放されて死んでしまう仲間もいました。手放して新しいものに置き換えていく過程は慎重に丁寧に歩まなければならないと思います。僕も下手をしたら手放す過程で死んでいたかもしれません。死んでしまうくらいなら手放さなくてもいい。そう思います。

 最後に真逆のことを書いてしまいましたが手放すと一言に言っても人それぞれ様々な形があると思います。手放して新しいものに置き換える作業は慎重にやっていきたいと思います。ただ手放しただけではそこに虚しさが残るだけですから。

手放したところに温かい穏やかな風が吹きますように。

 読んでいただきありがとうございました。

絵も描いているよ♡

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