見出し画像

花占いからのアンガージュマン

 好き 嫌い 好き 嫌い
こんな言葉をぼやきながら、花びらをちぎった経験、皆さん一度はあるのではないでしょうか?
花占いもお国柄が出るようで、フランス流はこんな感じ。
 好き 少し好き とても好き 情熱的に好き 熱烈に好き 全く好きじゃない

 最近これを知って一人感嘆してしまったが、基本的に「好き」がベースになっていて、八割強の確率でポジティブな結果となる。好きか嫌いの二者択一ではなく、好きにも段階が設けられていて、この段階制については非常に適切だと思われた。人の感情は二項対立的に捉えられるものではなく、嫌いは好きの裏返しである程に複雑なのだ。 一方、私は子供の頃から日本の花占い的にゼロイチ的思考をする傾向があり、それがかなりの悪癖だと気づいたのは大人になってからだけど、この癖のせいでこれまで随分と大きな過ちを繰り返して来た気がする。

 先日「私は女性であることで随分損をした」とさらりと語る女性と出会った。彼女はいわゆる名誉職に就く配偶者がいらっしゃるが、自身のキャリアに関しては、不満を抱えておられるようだった。フェミニストの第一人者上野千鶴子も「女であることで損をしたと思ったことのない女性はいないのではないか」と語っていたが、実の所、私自身はそういう意識をしたことがなく、自らの不成功の原因を自身の性に求めることはなかった。しかしながらそれはあくまでも「意識していなかっただけ」なのかも知れないと最近思うようになり、責任転嫁ではないが、それで気が楽になったのも事実だ。
 いまだ男性ホモソーシャルな世の中において、女性は「半身」で社会に関与することが「正気のあり方」と語る上野千鶴子の言葉にひどく感銘を受けたが、それは積極的諦観であり、(納得の行かない)既存の組織でのそつなく生きるための処世術なのだと思う。番組制作に真摯に取り組む某放送局員全てが、受信料システムに納得している訳でもないだろうし、ロジカルにSDGs掲げつつ戦車を作る企業の従業員の中にも内心葛藤があるだろう(そう願う)。今の仕組みではそんな風にしか生きていけない気がする。だもんで私はしがらみなくベーシックインカムで生活したいのだけれど(この辺りがゼロイチ思考のなせる業…)、導入もされてないし、されそうにもにないし、「生きること自体に意味がある」とか言われるこの世ではとりあえず(老後のために)稼ぎ続けないといけないことになっている。
日本よりも中庸という概念が薄いであろうフランスではしばらく前から年金制度改革で大揉めしているが、アンガージュマン(「社会問題への参加」)が賛美される国ならではのスト、デモが繰り広げられ、路上には収集されないゴミが溢れているらしい。(私も六十歳定年で安心して暮らしたい!) また、人が組織の中で生きることを優先させたことによって、多くの犠牲者が生まれた歴史などを踏まえると、「ガチャガチャ」などと言って燻ってるよりもアンガージュマンする方が健全な生き方なのだろうと、半身どころか五里霧中に身を潜める私なども思ったりする。

 LGBTQIAという言葉も広まっているが、女/男の二分法から脱し、ジェンダーの細分化も進む。これに倣って世の中を見る解像度を上げ、「好き/嫌い」や「成功/失敗」という枠を超えて生きて行きたいワ。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?