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サンリオいちご新聞 〜「女の子」って?〜

女の子にとって、結婚はひとつの夢。でも、結婚だけが人生じゃない。自分の才能を広い社会の中でためしてみたい。キャリアウーマンとして生きるのもいい。
また、しばらくの間仕事をしてみたいっていうのも、その人の考え方。どれが良いなんて決められない!(「いちご新聞」昭和五十五年二月一五日「女の子のしごと」より引用)

 先日、京セラ美術館に行って来た。個人的に高度経済成長期の大量生産文化みたいなものに関心があり、「フーン」とか言いながら有名なキャンベルスープの缶を眺めたり、「なるほど」と思える作品解説を読んだりしながら、「アンディ・ウォーホール・キョウト」展を「観ました!」的に鑑賞し、続いて「サンリオ展」へ向かった。

 実の所「カワイイ文化を学ばないと!」という軽い義務感に駆られ、空腹を堪えて潜入したのだが、そんな「サンリオ展」では思いもよらずトキメイタ! 子供時代、私は「ゴロ・ピカ・ドン」と「けろけろけろっぴ」のファンだった。当時のその感性にやや疑問すら感じるものの、彼らを観てあまりの懐かしさに空腹を忘れかけそうになり、存在すら知らなかったけど、サンリオショップで販売されていたという「いちご新聞」にはマジで心奪われ、展示していないものも全部読ませて欲しい程に酔心し、巨大なノスタルジーが空腹を満たしてくれそうな勢いだった。
「いちご新聞」とは読者からの投稿(恋愛、学校生活紹介など)と専属の編集者が書いた記事(サンリオの新キャラ紹介、女の子のためのマナー講座など)とで構成されているのだけど、中には「今日を生きるために」という自殺に関する投稿コーナーもあり、テーマが非常に幅広い。そして女の子の憧れみたいなものが随所に散りばめられて「女の子ならこうでしょう!」が連発の、昭和の名作と呼びたい新聞だ。冒頭で引用した「女の子のしごと」では人気職業(ちなみに一位はスチュワーデス)と共に、これから注目される仕事として、通訳(比較的知的な女の子像が設定されているメディアなのでまあ納得)、モデリスト(昭和五十五年当時、「パタンナー」と言う言葉は無かったのだろうか)、トリマー(なんで?とも思うが私は小学生時代動物園の飼育係になりたかったので、良いとこついてる気も)、ドライバー(「アメリカではバスの女性運転手もめずらしくありません」ということだが、ここだけ妙に男女平等意識的チョイス)。そしてそれぞれの職業に月収が記されているというやたらと現実的な内容で、全体を見ると編者のエゴや迷いも垣間見れたりする不安定な「女の子」ペルソナ設定にもなかなか引き込まれてしまう。

 確かにポリコレ強化中の昨今の状況を鑑みるとツッコミ所山盛りなのだけれど「いちご新聞」における「女の子」とは、男子と対比される性別の女子を超えて一つの趣味嗜好カテゴリーの記号的象徴として捉えた方が良いように思われる。つまり「女の子」とは老若男女が参加出来る、「永遠の乙女」的な尊重されるべき存在であり、ダイバーシティーの一形態なのだ。各方面の識者から指摘を受けそうだが、私にはそんな風に思えたのだ。

 そんな矢先、友人から「量産型女子」と「地雷系女子」という日本的なムーブメントを教わり、さらに「女の子」考察が深まりそう

ゴロ・ピカ・ドン
巨大キティちゃん
けろけろけろっぴ

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