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金子みすゞ~月に響く雲雀のうた~

浜に立つとびょおと風が吹き、髪がなびいた。
サンダル履きの足を砂にめり込ませ、グッと力を入れて踏ん張る。
海に向かい、風に逆らうように上体を倒したら、何か叫びたくなって、でも言葉は出なくて、みすゞは口をぱくぱくさせた。
風が口に入ってぐるぐる巡り出て行く。

銛で突かれ、血を流しながら浜に転がった鯨を思い浮かべた。村の大人が総出で解体して、あっという間に骨になった。村の人たちは喜んでいたけれど、この海のどこかに、父か母を喪くした子鯨が鳴きながら漂っている。

「鯨法会」
鯨法会は春のくれ
海に飛魚とれるころ
浜のお寺で鳴る鐘が
ゆれて水面をわたるとき
村の漁師が羽織り着て
浜のお寺へいそぐとき

沖で鯨の子がひとり、
その鳴る鐘をききながら
死んだ父さま、母さまを
こいし、こいしと泣いてます
海のおもてを、鐘の音は
海のどこまで、ひびくやら

わたしはあなたの父か母かしらないけれど、その肉を食べる。
鳴いたってもう戻らない。
だからもう鳴くのはやめて、素知らぬ顔でこの海を泳いでいて。

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1926年下関。
みすゞは叔父(義父)松蔵の家の奥座敷で初めて宮本啓喜と対面した。
文学青年のように色白で切長の目元が涼しげだ。
きっちり七三に分けた髪と首元までしっかりボタンを留めた白シャツは清潔感がある。ただ、何度も細い顎に手をやる様子は、神経質そうだった。
女癖が激しいというのも、不安だった。
けれど、松蔵の経営する上山文英堂の出世頭だという。ならばこの人についていけば、安心して好きな詩作が続けられるだろう、そう思えば多少のことは我慢しようと思った。

ふっと、向き合う自分と啓喜の間を、鰯が横切った。ハタハタハタと尾鰭を振りながら、群れとなって追い越したり追い越されたりしながら中空を泳いでいく。
こん鰯はどこから来るやろ。
視線をずらすと、障子の隙間から顔を出す鰯と目が合った。頭を激しく振って、にゅるっと座敷に入り込み、そのまま目の前を横切って、縁側に通じる引き戸の隙間をすり抜け、庭へ出て、空へのぼっていく。
あぁ、と思った。
鰯の弔いがあるのだろう。

「大漁」
朝焼小焼(あさやけこやけ)だ
大漁だ
大羽鰮(おおばいわし)の
大漁だ
浜はまつりのようだけど
海のなかでは何万の
鰮(いわし)のとむらい
するだろう

「あの」
品定めするように、出された鯛を箸の先でつついていた啓喜にみすゞは声をかけた。
「今、なんぞ、見えますか?」
みすゞの問いに啓喜は箸を置き、みすゞを見据えたのち、ゆっくり四方に視線を巡らした。
「いえ、何も」
ほうですか。ならええんです。
そう答えて、胸に広がったのは寂しさと安堵、両方だった。
わかり合えないこと、わかり合えない何かがこの胸にあるからこそ、わたしの詩はわたしの詩になりえること。
「でも僕は、金は稼ぎますよ」
そう言って啓喜は初めて笑い、みすゞは一瞬の戸惑いのち、ゆっくり頷いた。

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部屋の窓際に座り込む啓喜の背後から、外灯が差し込み、その頬に陰影をつけていた。
みすゞと啓喜は上山文英堂の2階を間借りして新婚生活を始めていた。
みすゞはそっと啓喜の様子を伺うと、暗いですき、そう言って灯りをつけた。
灯りをつけられ、沈んでいた物思いからやや脱したか、啓喜は取り繕うようにみすゞに笑いかけたが、何も言わなかった。
共に上山文英堂で働く、みすゞの弟、正祐と啓喜が上手くいっていないことは聞いていた。
「彼は僕が嫌いみたいでね」
正祐は1歳の時に松蔵の家へ養子に出された。
いわば、上山文英堂の生え抜きだ。
そこに期待のホープとして啓喜が入ってきたわけだ。
今まで、上山文英堂の跡取り候補として松蔵からの信を一心に受けてきたのに、一転、仕事振りを比べられるようになっては面白くないだろう。
しかし、正祐が啓喜と対立するのはそれだけが理由ではないことを、みすゞはわかっていた。
だがそれは、啓喜に言えるようなことではない。
「あの子も聞かん気なところがありますき、あんまし気にせんことです」
啓喜は顔を上げるとじっとみすゞを見つめた。
「今、何か見えますか?」
「いえ」
みすゞも啓喜を見つめたまま短く答えた。
なら良かった、貴女が僕に見えんもん見とる時、僕は貴女に触れられんき。
啓喜は手を伸ばすと、そっとみすゞを抱き寄せた。
「わたしは水ですよ」
その言葉に啓喜は、子犬のようにスンッと鼻を鳴らすと、なら僕の形になってください、そう言ってみすゞの着物の袖に手を滑り込ませた。

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松蔵が煙管を盆にタンッと叩きつけると、灰とともに小さな雑魚がくるっと尾鰭を丸めて飛び上がった。
その幻想に、思わず笑みが漏れそうになり、あわてて口元を引き締めた。
みすゞは、松蔵に呼び出されていた。
「正祐が家、出るゆうてな。わけを聞いたら啓喜が気に食わんという。あげな遊び人、店に置いとったら他のもんに示しがつかんゆうてな」
「はぁ」
話の行方が見えず、みすゞは曖昧に頷いた。
「啓喜も切れ者よ。実家はかき氷屋らしいが、戦後のどさくさに博多で売り捌いてひと財産作ったらしい」
「それを、女遊びで使ってしまったんですよね?」
みすゞの言葉に松蔵は目を細めてこちらを見た。
開け放った庭に目をやり、煙管から煙を吐く。
「あいつとの見合いの日な、おまん、なんぞあいつに言うてたな」
みすゞも庭に目をやる。今日は何も空へのぼっていない。
「何のことでしょう?忘れました」
みすゞはとぼけた。
松蔵はみすゞの言葉に頷くと、啓喜にな、店を辞めてもらおう、思っとる、そう言って再び煙を吐いた。
みすゞはしばし考えた。
それをなぜ妻のわたしに言うのか。
わたしから啓喜の言動を諌めて欲しいのか。
だとしたら無理だ。
わたしの言うことを聞くような人ではない。
庭の椿が赤く咲いていた。
「椿が…」
言いかけたら、松蔵が言った。
「首の落ちるように花の落ちるもん、縁起が悪い、その前に切ろう思うとる。持って帰るか?」
「いいえ」
どこにも死は転がっている。弔いもされず。
切られ、包まれ、転がされ、なす術がない。
椿は、わたしか。
「お仕事の話なら、啓喜さんに直接してください」
立ち上がると、松蔵が見上げて言った。
「いつまで"お花畑"に隠れとる?とっくにおまんも、商売人やぞ?」
隠れたかった、文学という花畑なら、とうに踏み荒らされている。
みすゞは微笑んで頭を下げた。

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正祐はみすゞが出した茶をせわしなく飲むと言った。
「最近、書いてますか」
みすゞは頷く。
家のこと、店の手伝い、なかなか詩作をする時間がないが、それでも時間を見つけて書いている。
みすゞは今から3年前、上山文英堂に来た20歳の頃から詩作を始めた。
「婦人倶楽部」や、西條八十(さいじょう やそ)が選を務める「童話」、野口雨情の「金の星」などへ投稿を続け、4つの雑誌に童謡と詩が5作も載った。特に西條八十からは高く評価され、「おとむらい」は「英国のクリスティ・ロゼッティ女史同様だ」と絶賛された。

「おとむらい」
ふみがら(古い手紙)のおとむらい
鐘もならない、お伴もいない
ほんに、さみしいおとむらい
(略)
涙ににじんだインクのあとも
封じこめた花びらも
めらめらとわけもなく燃える
焔が文字になりもせで
過ぎた日の想い出は 
ゆるやかに 今、夕暮れの空へ立ち上る

「あの人と一緒になってテルさん(みすゞの本名)は堕落しました」
正祐とは20年近く離れて暮らしていた上に、わたしが上山文英堂に来た時、正祐は松蔵から、わたしのことを「いとこ」と説明されていたらしい。そのせいで、今でもわたしのことを名で呼ぶ。
「僕はあの人を認めませんよ」
「大丈夫よ、もう辞めるから。ここも出ていくわ」
「出て行くならあの人だけ出て行けばいい」
「そういうわけにもいかないわ」
「何でです!?」
みすゞは正祐の手を取った。小さい頃、教えてやった影絵遊びだ。両手を使って色んな動物や魚の形を作る。
正祐は手元に視線を落として、しばらくされるがままになっていた。
「障子に映して指ば動かすと、テルさんの作る魚はほんに生きとるようでした」
覚えてる?教えてあげたの。
みな、忘れました。でも、こんあたたかさは覚えとります。ぬくくていつも安心したんです。僕は…母さんを知りませんから。
「テルさん、僕は何ですか?」
正祐は顔を上げるとみすゞを見つめた。
「大事な弟よ」
「テルさん、あの人をほんまのほんま、すいとりますか?」
みすゞは正祐から視線を外した。
「ええ」
短く答える。
「だから、あの人が辞めるんやったら一緒に出て行く、そうゆうことですか?」
「ええ」
「僕が、止めてもですか?」
「ええ」
息を止めるように、そう答え続けた。

正祐は帰り際、玄関で振り返った。
「何ぞ、僕がテルさんを嫌いになれるようなこと、言うてください」
みすゞは少し考えると、お腹に手をやった。
「今、あの人の赤ちゃんがいるの」
クッと唇に力を入れ、あえて微笑んだ。
驚いたように目を見開くと、正祐は玄関を飛び出て行った。
それを見届けると、みすゞは崩れるようにその場に座り込んだ。
大切なものが、ハラハラと自分から剥がれ落ちていっている気がした。

「露」(つゆ)
誰だれにもいわずにおきましょう

朝のお庭のすみっこで
花がほろりと泣いたこと

もしも噂がひろがって
蜂のお耳へはいったら

わるいことでもしたように
蜜をかえしにゆくでしょう

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首筋を吸われ、啓喜の着物の襟元からツンと白粉が香った。
知らない女性(ひと)の微かな汗と甘い香り。
思わず身を引くと、ぐっと抱きしめられた。
「不潔です。花も枯れます」
力を込めたが、逃げられない。
何とか上体だけ反らして、抱きつく啓喜を間近で見つめた。目の下にくまができている。
「お店遊びはもうやめてください」
「君が悪い」
「わたしが!?」
その唇を塞がれた。
何も、酔えなかった。
幼い日、正祐と上の兄と3人で見た雪を思い出した。
庭の雪を3人でかけ合って遊んだ。
途中、転んで頭まで雪まみれになった正祐が、犬のようにぶるぶると体を振るわせて、わたしに抱きついてきたことを思い出す。
雪にまみれたのに正祐の身体は暖かくて、トクトク心臓が鳴っていた。
どこにも行かんで。
なぜあの時、そう言って正祐はわたしにしがみついて突然泣き出したのだろう。
大丈夫、大丈夫。
頭を撫で続けるわたしにも、再び降り出した雪が積もりだし、そんな2人に兄が着ていたコートをかけてくれた。

「積もった雪」
上の雪
さむかろな。
つめたい月がさしていて

下の雪
重かろな。
何百人ものせていて

中の雪
さみしかろな。
空も地面じべたもみえないで

中で突かれるたび、微かな痛みがあった。
その痛みで歪める顔を、啓喜はどう解したか、動きを早めた。本能で必死に身を捩ったが、熱いものが溢れる感触があり、わたしは力を抜いた。
啓喜の重さを感じながら、天井を見上げたら、ここがどこかわからなくなった。あの時、正祐が泣いた意味が突然わかった。
ぐったりした啓喜を身体を押しのけ、目元を触ったけれど、涙は出ていなかった。

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関節の痛みや、下腹部の痛み。
はばかりで1人、着物の裾をめくって確かめると、指にべとりと膿と一緒になった澱物がついた。嗅ぐと酸っぱい匂いがした。
啓喜の女遊びでうつされた淋病だった。
指についた澱物をしばし眺めたあと、これを首筋に塗っても、啓喜は喜んでわたしを抱くだろうか?そう思った。
澱物を紙で拭って捨てると、はばかりを出た。

みすゞが淋病にかかってから、啓喜の女遊びには拍車がかかった。仕事を終えるといそいそと着物を換えて廓へ出て行く。
自分が妻として女の勤めを果たせぬのだから仕方ないとはいえ、寂しかった。そもそも、啓喜にうつされた病のせいなのだ。
そんな日々の中で、娘、ふさえの誕生はみすゞの希望であり、生きる支えだった。

そんなある日、みすゞは西條八十から手紙を受け取った。
八十はみすゞの詩を雑誌に取り上げ、好意的な評をくれた、恩師のような存在だった。
八十は、フランスに留学中であったが、一時帰国しているようで、用事で下関まで来るという。
ぜひ、会いたいと思った。
しかし、長時間、家は空けられない。
結局、八十の列車の乗り換えまでの間、駅の待合室で会うことになった。
当日、みすゞはふさえをおぶって駅まで出かけた。
クマゼミのむせびなく、暑い夏の昼下がりだった。

麻のジャケットに中折れ帽子を被った八十が電車から降りてくるのを認めると、みすゞは背中のふさえを忘れて思わず駆け寄った。
「先生、お久しぶりです」
中折れ帽子を手に取り、八十は微笑んで、しばらくみすゞを見つめた。そして、そっとみすゞの頬に手を伸ばした。
突然のことにみすゞはびっくりしたが、自分より10も歳上の八十の穏やかな目つきに安心し、動かずにいた。
伸ばした手を、みすゞの頬に触れるか触れないかのところで引っ込めると、苦労したね、八十はそう言ってみすゞの目を見て小さく頷いた。
いえ…そう答えようと思ったのに、自然と口からは、はい…と言葉が漏れていた。慌てて打ち消そうと思ったら、涙が滲んだ。
「あの、違うんです」
慌てれば慌てるほど、涙は止まってくれなかった。
それからしばらく駅のベンチで話した。
「詩も頑張ろうと思ってるんです」
八十は頷いた。
「あなたは、もう充分頑張っている。これ以上頑張れば、壊れてしまう。私はそれが心配です」
別れ際、八十はみすゞの目を見つめて言った。
「貴女の目は黒曜石のようだ。何にも汚されてないし、誰も汚すことなどできない」

上山文英堂を出た啓喜は、同じ下関で雑貨屋を開き、みすゞもそこで暮らしていた。
店に戻ると啓喜に声をかけられ、店の2階の住居スペースへと上がった。
階段を上がり切ると、啓喜は振り向き、思い切りみすゞの頬を張った。
階段から転げ落ちそうになり、壁に爪を立て、何とか踏ん張る。
啓喜はみすゞの腕を掴んで階段から引き上げると、部屋に投げ飛ばした。
「いい身分や。亭主に働かせて男と逢い引きとは。よそに男もおりゃ、そりゃおめこも断りよーわ、この雌犬が!」
起きあがろうとしたみすゞの肩を足で蹴り、着物の襟を掴んで身体を起き上がらせ、パンッパンッと再び頬を張った。その間、みすゞは一言も発しなかった。
これがこの人の本性なのだろう。
今まで、わたしの前では、この人なりに取り繕っていたのだろう。そう思えば、この人も苦しかったろう。わたしたちは、お互い不幸だ。
「何ぞ、言い訳のしてみぃ」
泣き出したふさえを背中から下ろすと、抱いてあやした。
ふさえの好きな小唄を口ずさむ。

「なかなおり」
げんげのあぜみち春がすみ
むこうにあの子が立っていた

あの子はげんげを持っていた
わたしもげんげをつんでいた

あの子がわらうと気がつけば
わたしも知らずにわらってた

げんげのあぜみち春がすみ
ピイチクひばりがないていた

「あまり大きな声の出さんでください。この子が怖がりますき」
啓喜は足音荒くみすゞに近寄ると、もう一度頬を張り、そのまま押し倒してのしかかった。

「雀のかあさん」
子供が子雀つかまえた
その子のかあさん笑ってた
雀のかあさんそれみてた
屋根で鳴かずにそれ見てた

みすゞは天井を見つめながら、歌うようにゆっくり口ずさんだ。

啓喜はその後、みすゞに詩作と、詩友たちとの交流を一切、禁じた。

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その後、啓喜の女遊びはさらに酷くなり、1930年、2人の離婚が決まった。
夫を支えられなかったのは無念だったが、これでやっと楽になれるという安堵もあった。
上山文英堂に戻り、一生懸命店を手伝い、ふさえと2人で生きていこう、そう思った。
しかし、啓喜はふさえを自分に渡すように要求してきた。
みすゞにとっては飲めない要求であった。
松蔵を仲介にして、話し合いの場が持たれた。

まず、松蔵がみすゞに言った。
「この男にはおまんも苦労させられたやろ。娘の1人、くれてやったらどうだ。それで縁の切れるなら安いもんやろ」
みすゞは正面の啓喜を見た。
部屋でわたしを抱く時の荒々しさはなりをひそめ、ハンカチで額の汗を抑えて無表情を保っている。
これも、この人なのだろう。
人は弱い。だから自分の中に何人もの自分を作る。
わたしだってそうだ。
わたしが出会ったあの人は、あの人の中のどのあの人だったろう。あの人が出会ったわたしは、わたしの中のどのわたしだったろう。2人、見知らぬまま出会って、知らぬ間に産まれた卵は、カッコウに落とされて割れてしまった。
「断ります」
「貴女は譲るということを知らないようだ。わたしは貴女が一方的に突きつけた離縁も飲んだ。その上で娘は譲って欲しいと頼んでいる。それも渡さぬとはいささか、都合が良すぎないか」
そう言って、何も食べたわけでもないのに、ハンカチで口元を拭うと微笑んだ。その余裕っぷりにイラッとした。
「この離縁もあなたが原因です」
「言いがかり甚だしい。経済力もない貴女に子が育てられるわけもない」
「毎晩、違う女性(ひと)の匂いをさせてるあなたの元にふさえはやれません」
「貴女だって文学、文学でろくに母親らしいことなどしてないだろう。いつだかは、ふさえを背負って、よその男に会いに行ってたじゃないか。貴女こそ、母親に相応しくない。いやむしろ、ふさえがいない方が貴女にとっても都合が良いんじゃないか。好きな詩作でもなんでもやればいい。ふさえには大きくなったら僕から説明しておこう、お母さんは、お前より詩を取ったと」
そう言って、啓喜は楽しそうにクククと喉を鳴らして笑った。
「よく動くお口ですこと。そうやって、どこにもいかで、毎晩、わたくしとお話してくだされば良かったのに。夜、あなたがおうちにいる時は、わたしを抱く時だけ。思い出して鳥肌が立ちます」
みすゞも啓喜に向かってニッコリ微笑んだ。
啓喜は顔を紅潮させると、黙れ!と一喝した。
そして松蔵の方を見ると早口で言った。
「あんたんとこの娘はたいしたもんだ。なかなかこう人を面罵できるもんじゃない。ふさえが寄越せぬなら、金でも貰いましょうか。どうです、松蔵さん、あんた、出す気、ありますか?血も繋がらん娘のために」
松蔵はパチリと持っていた扇子を閉じるとみすゞを見た。
「諦めろ」
「わかりました。失礼します」

松蔵の家の玄関で下駄に足を通していると、正祐が見送りに来た。
「元気にしとる?」
さっきの話し合いのことも忘れてみすゞは声をかけた。
自分がどんな状況だとしても、正祐は大切な弟だ。気にかかる。
正祐は何も言わずに、黙ってみすゞが下駄を履くのを見ていた。
「姉さん…」
小さく呟いたその声に、みすゞは顔をあげた。
今、姉さんと言ったか。
「金ば僕が出します」
みすゞは微笑んで、ありがと、そう言った。
「その気持ちの嬉しいけん、そげなお金のあるなら、大切な人に使ってやって。あんまし、女遊びのするんじゃなかよ」
正祐の頭をポンと叩くとみすゞは背を向けた。
玄関の引き戸に手を掛けた時、後ろから抱きつかれた。みすゞはしばらくそのままじっとしていた。
懐かしい唄が頭に浮かんだ。
それを小さく口ずさむ。
覚えとる?雪の日。
あんた、雪だらけになってなぁ、楽しかったなぁ。
またお兄とわたしとあんた、3人で雪遊び、したいなぁ?
歌い終わると、みすゞは静かに言った。
「人が来るき」
帰り道、正祐に抱きつかれた腕の部分が、ジンジンしていた。みすゞはそっと自分で自分を抱きしめた。

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啓喜からうつされた淋病は確実にみすゞの身体を蝕んでいた。病院にはかかっていたが、特効薬はない。
最近では、少し動くだけで体がだるかった。
ふさえは手放したくない、でも、この体ではふさえを育てることはできないだろう。かといって、啓喜のところへはやりたくない。

1930年3月9日。
啓喜との離婚が決まってからは、みすゞは上山文英堂の2階に身を寄せていた。
明日、3月10日に、啓喜がふさえを引き取りに来ることが決まっていた。

みすゞは久しくしていなかった化粧を入念にすると、ふさえにもおめかしをさせ、家を出た。
そして、近所の写真館でふさえと一緒の写真を撮った。
帰り道、ふさえにねだられ、桜餅を買った。
帰って、ふさえと、母ミチと、松蔵の4人で桜餅を食べた。
ふさえは松蔵にも良く懐いており、松蔵もふさえに首に抱きつかれると満更ではなさそうだった。
けれど、この孫娘を守るために金は出してくれないのだ。
ふさえが、松蔵の本当の孫なら※、また違ったのだろうか。

※松蔵は元々、ミチの妹と結婚していた。その妹が亡くなり、同じように夫を亡くし、未亡人であったミチを後妻として迎えた。みすゞはミチの最初の夫との子供

今更、考えても詮無いことだ。
人にはそれぞれの"閾(いき)"がある。
優しくできるのも、歩み寄れるのも、その閾の範囲内でのことだ。だから冷たそうに見える人も、ほんとは皆、優しいのかもしれない。閾の中で精一杯、歩み寄っているのかもしれない。けれどもしそうなら、それでもこんなに亀裂のある世界は、やっぱり少し、神様の設計ミスかしら。それとももしかして、寝っ転がってお菓子を齧ってさぼってる、誰かがいるせいかしら?
そう思って、みすゞはふっと笑った。

「私と小鳥と鈴と」
私が両手をひろげても
お空はちっとも飛べないが
飛べる小鳥は私のように
地面(じべた)を速くは走れない

私がからだをゆすっても
きれいな音は出ないけど
あの鳴る鈴は私のように
たくさんな唄は知らないよ

鈴と、小鳥と、それから私
みんなちがって、みんないい

夜、ふさえをお風呂に入れて、綺麗にしてやった。
身体を拭いてやると、くすぐったいのかキャッキャッと笑って足踏みする。
洗い立ての着物を着せてやり、丁寧に髪を梳かしてやる。
ふさえは気持ちよさそうに目を閉じて唇を少し尖らせて、何か歌ってる。

松蔵とミチにおやすみの挨拶をすると、ふさえの手を取って2階へ上がった。
ふさえを寝かしつけ、引き出しから用意していたカルモチンの小瓶を取り出し、中身を一気に煽った。
次第に薄れゆく意識の中で、隣りで眠るふさえの布団をトントン叩き続けた。
いい子いい子、お眠りなさい。
きっと明日は楽しいことが待ってるわ。

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金子みすゞ 享年26歳。
枕元には遺書が残されていた。
遺書には、ふさえを母ミチに預けて欲しいことが懇願されていた。
また、今まで書いた500首近い詩を手帳に清書し、正祐と八十に託していた。
その後、金子みすゞとその作品は、長らく世の中から忘れられることとなる。
けれど、混沌とする時代がみすゞの詩を求めたか、1984年に詩人矢崎節夫によってみすゞの作品が紹介されると、一気に人気に火がついた。

生と死を超えて、全ての生き物の垣根を超えて、今もみすゞの詩は鳴り続ける。リンリンと(終)

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