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藤田嗣治〜風の行方、猫の足跡〜

浅草寺の伽藍の鋭い傾斜の先に、明け方の月が浮いている。吉原からの帰りはいつも物憂い。
23歳の藤田嗣治は俯いて、草履のつま先を見つめたまま、法蔵門を横切った。
さして期待して入った学校(東京藝大)でもなかったが、それにしても酷かった。
誰も、メートル※の提灯持ちだ。
※黒田清輝のこと。生徒からメートルと呼ばれていた
気に入られて、良いポジションを得ようと、物真似合戦をしている。俺はそんなものに加わらない。認められずとも俺の絵を描く。
そうは思うが、実際はくさくさした気持ちを遊郭で晴らしているだけ、情けない。
そこまで思って嗣治は顔を上げた。
まぁ、いいか。
学校も行かず、絵も描かず、遊郭で遊んで朝帰り。
褒められたものじゃないが、品行方正な芸術家など気持ち悪い。
ついでにどこかで一杯やって行こう。
ふざけても、真面目でも、どのみちあの学校にいるうちは、メートルの掌の中だ。勝手にやらせてもらうさ。評価されずとも良い。むしろ、一昔前のパリ帰りの価値観を後生大事にしているメートルに今、評価されたら、そっちの方が問題だ。
嗣治は浅草寺の境内を突っ切ると、飲み屋街目指して懐手で歩き出した。

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予想通り、黒田の意向が強く反映された文展には全て落ちた。今は運が向いてない、いずれ、風が吹くこともあるだろう、慌てずそう構えることにした。
それに、落ちたことはたいして問題じゃない。出したことが大切だ。評価されないであろう展覧会へは出さない、それでは画家として小さい。評価されずとも平気で出す、自分の主張を作品でぶつける、画家とは胸につけた勲章ではない、精神の在り方だ。

卒業制作も、黒田の嫌う黒を多用した作品を出した。当て付けのつもりはなかった。そんなところで喧嘩する気はない。ただ自分が良いと思うものを描いたらそうなっただけだ。

「自画像」(卒業制作)

卒業制作も済み、気晴らしに木曽へ旅行に出た。
そこで1人の女性と出会った。向こうはグループで来ているようで、同じ宿だった。
朝、温泉に入り、廊下で外を眺めていると声をかけられた。
「まるで「大はしあたけの夕立」ですね」
外は、曇天で激しい雨だった。
「だといいが。止みそうもない」
女性は小さく頷いた。紺青の着物から覗く襟足が、格子窓から差す朝の光に鈍く光っていた。
「友達と旅行ですか?」
「はい」
「昨晩は随分、楽しそうでしたね」
「あ、うるさかったですか?」
女性が申し訳なさそうにはにかんで頭を下げる。その拍子に八重歯が覗いた。
「いや、別にそういうことじゃない」
「あの…友達が酔っ払っちゃって。まだ寝てるんです。わたし、飲めないから早く目が覚めちゃって」
それから、しばらく2人で雨を眺めていた。
「わたし、鴇田登美子って言います。トキタトミコ。変な名前ですよね。だからいつも名乗るの、嫌なんです」
そう言って登美子はふふっと笑った。
「藤田です」
嗣治も名乗ると、登美子に聞かれた。
「藤田さんは、1人旅ですか?」
「えぇ。失恋旅行です」
登美子が驚いたようにこちらを見た。
嗣治は登美子の方を向くと言った。
「冗談です。本当は、東京で沢山借金をこしらえて、いよいよ身動きとれなくなったんで逃げてきたんです」
登美子は嗣治をじっと見つめていたが、耐え切れなかったように吹き出した。
「おかしいわ。逃げてる人がのんびり写生だなんて」
今度は嗣治が驚く番だった。
「わたし、昨日、山道でお見かけしたんです。気づかなかったでしょう?随分熱心に描いてらっしゃったから」
そう言うと、登美子は自分も美術教師をしており、絵に関心があるのだと言った。
「そうでしたか。いや、恥ずかしいところを見られました」
「藤田さんは、画家なんですか?」
「いえ、この間学校を卒業して、本当はパリに行きたかったんですが、成績が悪かったもので…」
「官費留学ですか?」
「そうです。まぁそれに漏れまして、で、今、木曽でこうして貴女と話してるわけです」
「そうですか。だったらわたし、藤田さんが成績悪くて良かったです」
そう言って、登美子は俯いて笑った。
それが何故か、泣いてるように見えて、嗣治は登美子の揺れる襟足を見つめていた。

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木曽での出会いから2年後、嗣治と登美子は結婚した。
26歳になった嗣治は、新宿百人町にアトリエを構え、画家としてのスタートを切った。
パリへの憧憬は消えなかったが、もう26だと思った。
おたおたしていては、パリどころか画家として何も為せずに終わってしまう。この際、場所へのこだわりは捨てよう。日本で頑張っていれば、いつかパリへ行くチャンスも来る。
そう自分に言い聞かせたが、今ひとつ、心は晴れなかった。学生時代に何のツテも作らず、文展にも入らなかった嗣治に、仕事はほとんど来なかった。
頼まれれ仕事は何でもやったが、金にはならなかった。
「参ったな」
ある日の夕食に、思わず呟いた。
「参りましたか?」
登美子が上目遣いでこちらを見た。
悪戯を仕掛けた子供のように、何故か楽しそうだ。
「いや、まぁ…」
その様子に戸惑って、嗣治は言葉に詰まった。
「パリ、行かれたらどうです?」
何でもないことのように言うと、登美子は嗣治の皿から高野豆腐をさっと摘んで口に入れた。
「だって」 
高野豆腐を飲み込むと登美子は言った。
「顔に描いてありますわ、行きたいって」
「……そうは言っても金がね…」
「お父様に頼んでみたらどうです?」
「それはまぁ…。どのみち、焦る話ではないんだ。それにパリに行くとなったら登美子さんはどうなる?行けても僕1人だろう」
「近所の猫でも撫でて待ってますわ」
登美子は胸をそらすと、やや、嗣治を見下ろすように言った。
「わたし、嫌なんです。嗣治さんが元気なさそうにしてるの。そんなんじゃ、一緒になった甲斐がありません」
嗣治は登美子の皿から高野豆腐を1つ、自分の皿へ移すと、じっと見つめた。
「わかった。親父に頼んでみるよ」
「それがいいです。ただし、3年です。それ以上は待てません。猫も毛が禿げますわ」
そう言って、登美子は嗣治の皿から高野豆腐を奪い返した。

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こうして、父親に金を工面してもらい、27歳の時、嗣治はパリへ渡った。
しかし、すぐに第一大戦が始まり、日本からの仕送りも途絶えた。
モンパルナスで借りたアパートの屋根裏は、冬になると隙間風が凄く、外にいるのと変わらなかった。毛布を頭から被り、風の当たらぬ部屋の隅に体育座りをし、硬いフランスパンを齧って耐えた。パン屋から、破棄する予定のものをタダで貰っていた。
いつか状況も変わるだろうと、チビた木炭で、クロッキーを繰り返した。心の支えは、時折り届く登美子からの手紙だった。

「藤田嗣治様
昨日、今年初めて雪が降りました。
今朝起きたら、雪の重さで庭の椿が1つ落ちていました。
それで、矢も盾もたまらず、手紙を書いています。
そちらは、戦争も激しくなっているようで、心配です。

日本でも、兵隊さんが中国で頑張っています。
この間、わたしも千人針を頼まれました。
兵隊さんの武運長久を願おうと思ったら、何故か、パリで描く嗣治さんの姿が浮かびました。

どうか、お身体に気をつけて。
また手紙を書きます。

登美子」

何度も書き直した跡の残る、皺の寄った便箋が、書かれてないことの方を多く伝えているようで、書き直さなかったのは、書けなかったことの方を伝えたいから。それがわかって何度も読み返した。
戦争はなかなか終わらなかった。
ドイツに攻め込まれたフランスは、徐々に盛り返していたが、早々、そんなことはどうでも良かった。
戦争が終わらない限り、前に進めない気がした。
登美子との手紙のやり取りは続いていたが、渡欧して3年が過ぎる頃には、登美子からこんな手紙が届いた。

「嗣治さん

今年も、種から育てた朝顔が咲きました。
種は去年の花から取りました。
去年は一昨年の花から取りました。
今年も種が取れました。
手紙と一緒に送ります。
1人で朝顔を眺める夏に、飽きてしまいました。

登美子」

約束は3年だったが、戦争のせいで思うような活動は何もできていなかった。これで帰ったら、何をしに行ったのかわからない。もう少し待って欲しい、そう送ったら、短い返信が届いた。

「藤田嗣治様

朝顔の種、届きましたか?
紺青の花が咲きます。
夏だけでいいから、わたしを思い出してください。

登美子」 

何と返信しようか、考えているうちに時間が経った。
結局それが、登美子からの最後の手紙となった。
別れたくはなかったが、これ以上、何の約束も出来ぬまま、待たせるわけにはいかなかった。
離婚届が入った封筒は、登美子の父親の名前で届いた。
封を切っても、半分記入の済んだ離婚届が1枚折りたたまれているだけで、他は何もなかった。
離婚届の登美子の名前を眺めた。丸く、柔らかな字体で、控えめに書かれていた。離婚届は、皺1つなかった。
何度も書き直したのか、サッと書いたものか、わからなかった。けれど、どちらでも同じだと思った。これが結末なら、過程は意味がない。
必要な箇所を記入して、すぐに返送した。
宛名は、登美子ではなく、父親にした。
手紙を出した帰り道、いつものパン屋の親父が話しかけてきた。差し出された廃棄予定のフランスパンを地面に叩きつけ、怒鳴った。
「この国は、クソッたれだ。お前のパン屋もクソだ。毎度毎度クソを食わせやがって恥を知れ!」
悔しさと、情けなさと、嵌れば、2度と這い上がれぬであろう、寂しさだった。その渦に足を突っ込まぬよう、必死で悪態をつき、怒鳴った。
何が悪い。
この国が悪い。
戦争が悪い。
俺から大切なものを奪った。
いや違う、自業自得だ。
パリに行くことを望んだのは自分だ。
帰らなかったのも、自分だ。
うるさい、黙れ、返せ。
俺の、俺の…登美子は俺の…。
思ったら、思い出したら、嗚咽が込み上げた。
それを噛み殺し、路上のゴミ箱を蹴り飛ばし、溢れた生ゴミに滑って転んだ。
石畳に仰向けで、見上げた空は、いつかの登美子の着物と同じ色だった。

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戦争が終わると好景気がやってきた。
ようやく運気が回ってきた、ここからだと思った。
そんな時、出会ったのがフェルナンド・バレエだった。

フェルナンド・バレエ

まだ風の冷たい3月のカフェテラスは人もまばらで、カフェの脇に聳える白蓮が、青空に白い花を散らしていた。
1人座るフェルナンドに嗣治はモデルをやらないかと声をかけた。
しかしフェルナンドは胡散臭そうに嗣治を見て言った。
「モデル?これからは無理だよ。帰って寝るんだ」
問い返した嗣治にフェルナンドはカフェオレを一口飲んで答えた。
「わたしらの仕事は夜なんだ。それともアンタがもう一稼ぎさせてくれんのかい?」
フェルナンドは娼婦として働いているようだった。
「それは難しいけど…今度、時間がある時で良い、モデルを頼めるかい?」
フェルナンドはまたカフェオレを一口飲むと、グラスをタンッと置いた。きっと、この音を響かせたくて飲んだのだろう。
「アンタ、言っとくけど、金はない、いつかでいい、時間のある時に、そんなこと言ってる男の袖に引っ掛かるのはナメクジくらいなんだよ。ちっとはまともに誘えないのかい?」
言われて、嗣治はテーブルの上のカフェオレを無言で手で払った。地面にぶつかったグラスが砕け、派手な音がした。フェルナンドの腕を取って、強引に立たせると言った。
「誘い方ってのは、こうやるんだっけね?マドモアゼル」
グラスの割れる音に、慌てて飛び出してきた店員に振り返って言った。
「無粋だぜ、デート中だ。グラス代ならあとにしな」
腕を振り解こうと暴れるフェルナンドの腕をガッチリ押さえ、ワンブロックほど歩いたところで路地に入った。
腕を解いた嗣治にフェルナンドが怒鳴る。
「アンタ、一体どういうつもりだよ!?」
「おかげで目が覚めたろう?」
「ふざけんな。帰る!」
立ち去ろうとするフェルナンドの腕を嗣治は掴んだ。
フェルナンドは振り返り、嗣治に顔を寄せると笑って言った。
「チンピラの真似事はそのくらいにしときな、ジャポネ。わたしが1人でこの商売してると思ってるのかい?明日の朝、セーヌに浮いていたくないだろ?」
嗣治もフェルナンドの額に自分の額をつけて凄んだ。
「やってもらおうか。一番大切な人は既に失った。もう何も怖くないんだよ」
自分がどこに行こうとしているのか、誰といたいのか、わからなかった。ただ、チラチラと、脳裏に鮮やかな朝顔が浮かんでは消えた。
フェルナンドはじっと嗣治を見ていたが、胸を突いて、離れた。
「明日なら、時間を作れる。モデルをして欲しいなら同じ時間にあのカフェに来な」
路地を出る時、フェルナンドは振り返った。
「それと、グラス代は払っといてやる。だからもう、2度とわたしの前で"とっくの昔に割れたグラス"の話なんてするんじゃないよ」

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その後、嗣治と意気投合したフェルナンドは、嗣治の作品の優秀な広報となって奔走した。フェルナンドの画廊などへの地道な売り込みもあり、嗣治の作品は次第に売れるようになってきた。
対戦後の好景気に合わせ、パトロンがパリに集まっていたのも追い風になった。
そして1917年、31歳で嗣治はフェルナンドと2度目の結婚をした。
シッカロールを使った独特な乳白色の画風もこの頃、確立された。

「寝室に横たわるキキ」

幻想的な艶かしさを湛えた嗣治の作品はすぐに人気となり、個展を開けば黒山の人だかりができた。
しかし、嗣治の画家としての成功と反比例し、フェルナンドとの仲は冷えていった。お互い、オープンマリッジに合意していたが、他に気持ちが移れば一緒にいる意味はなくなる。背中を向け合って寝る夜が増えた。
ある晩、モデルの女性と飲んで、深夜部屋に戻った嗣治がベッドに滑り込むと、寝たと思っていたフェルナンドが話しかけてきた。
「良い夜だったの?」
「ん、なんてことないさ」
「そう。ねぇ、初めて会った時のこと、覚えてる?」
「あぁ。ショートカットのミステリアスな女性になんて声を掛けようか、実は後ろの席で1時間考えてた」
「その結果が、グラスを叩き落とすこと?」
フェルナンドが笑ったのが、背中越しに伝わる。
笑いを収めると、フェルナンドが静かな声で言った。
「ねぇ、わたし達も、良い時間を過ごしたわよね?」
「あぁ。君には感謝してる」
「やめて。三流映画の別れのシーンみたいなこと言わないで」
「じゃ、何て言えば良い?」
「黙ってキスして」
フェルナンドは、くるっと振り向いた。
久しぶりに引き寄せたその身体は、小さく、温かだった。

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フェルナンドと別れ、その後、リュシー・バドゥとの短い結婚生活を経て、1931年、45歳になった嗣治は21歳の新しい愛人、歌手のマドレーヌ・ルクーと共に南アメリカへ渡った。

マドレーヌ・ルクーと藤田嗣治

そして、ブエノスアイレスでの個展を成功させ、1933年に20年振りに日本へ帰国した。
ヨーロッパで画家として成功した嗣治の帰国は新聞でも報じられた。一緒に日本へ来たマドレーヌもシャンソン歌手として日本でデビューしたが、やがてホームシックになり、1935年に1人、フランスへ帰ってしまった。

そんなある日、嗣治は支援者の1人である薩摩治八郎に連れられ、日本橋の料亭へやって来た。
座敷へ通されると治八郎は徳利を嗣治のお猪口へ傾けた。
「まぁ一杯」
嗣治はそれを飲み干すと、酌を返した。
「いや、こう蒸す晩は冷酒に限るね。おっと、藤田君はワインの方が慣れていたかな?」
「いえ。酒ならなんでも」
座敷は障子が開け放たれていて、廊下に面した窓から外が見えた。日本庭園風の庭の松の先に、三日月が引っ掛かっていた。先付けを運んできた仲居が、その月を、遮った。
「鶏ささ身くずたたきと、じゅん菜でございます。まずは何もつけずにお召し上がりください。お好みで…」
器を2人の前に置きながら、やや俯いて話すその表情は緊張して見えた。客の1人が嗣治だとわかっているのかもしれない。
「ところで、僕の月を盗んだのは君かね?」
仲居は一瞬キョトンとした顔で嗣治を見たが、窓の方を振り仰ぎ、虚空を少し撫でるような仕草をした。
「これは失礼しました。今宵は綺麗な三日月です。お客様によく見えるよう、少し磨いてお返しします。ごゆっくりお寛ぎ下さい」
頭を下げて、スッと踵を返して部屋を出て行くその姿を、嗣治は言葉もなく見送った。
「おい」
治八郎に声をかけられ、我に返った。
「惚れたな」
「まさか」
苦笑すると嗣治は手酌で酒を呷った。
しかし、憚りに立った時、別の部屋から出てきたさっきの仲居に声を掛けた。振り向いた仲居は嗣治を認めると、小さく会釈した。
「お料理に何かございましたか?」
「いや、月より君が見たくなってね。ちょっと出てきたんだ」
仲居は一歩身を引くと、少し困った表情を見せた。
「君はいつもこの店に?」
「はい…」
「また会いに来ても?」
仲居は顔を上げると言った。
「藤田嗣治様ですよね?」
「誰かな、それは。だけど、しがない画家なのは間違いない」
「そうですか。人違いでしたら申し訳ありませんが、お相手の方を大切になさってください。きっと、知らない国で不安だと思いますから」
そう言って頭を下げられては、嗣治も返す言葉がなかった。心付けを渡すのが精一杯だった。

1週間後、今度は1人で料亭に向かったが、対応したのは別の仲居だった。流石に、仲居を変えさせるわけにもいかない。縁がなかったか。それなら引き際が大切だ。嗣治は相手をしてくれた仲居に多めの心付けを渡すと、席を立った。
しかし、出口へ向かう廊下を歩いていると、向こうから、先日の仲居が歩いてくるのが見えた。
仲居は嗣治を見ると立ち止まって頭を下げた。
「お越し下さり、ありがとうございます。ご挨拶出来ずすみません。今夜は別の部屋で宴席がありまして…」
「いや、良いんだ。こうして少しでも君に会えた。仲居の仕事も大変だろう?身体に気をつけて。君の笑顔を楽しみにしてる客は僕以外にもいるだろうからね」
そう言って、通り過ぎようとした嗣治を仲居は呼び止めた。
「あの」
振り返った嗣治に仲居は拳を差し出した。
「あの日、心付けを頂いた時、財布から落とされました」
仲居が手のひらを開くと、小さな種が載っていた。
朝顔の種だった。
嗣治は、声にならない声をあげた。
「大切なものかと思いまして、お返し致します」
嗣治を見つめる仲居の姿に、懐かしい着物姿が重なった。
嗣治はそっと種を摘むと、仲居に言った。
「名前だけでも、教えてくれませんか?」
「君代と申します」

君代(24歳頃、嗣治と出会った)

「一度、ちゃんと話がしたい。少しで良い、時間を作ってくれませんか?」
「それならば、わたしもお名前を聞かせてください。"しがない画家"様では、お呼びしにくいです」
そう言って、君代は少しだけ笑顔を見せた。
「画家の、藤田嗣治です」

髪をおろし、白のブラウスに小花があしらわれたブルーのロングスカートで君代は喫茶店に現れた。その姿は、店で見るよりずっと若く見えた。先に来ていた嗣治は立ち上がって手を挙げた。今まで何度も女と待ち合わせをしてきたが、そんなことをしたのは初めてだった。年甲斐もなく、心が浮立っていた。
「お待たせしました」
「いや、僕が早く来すぎたんです。スカート姿も素敵です」
嗣治の言葉に、君代はスカートを摘んで少しはにかんだ。
「ありがとうございます。母の着物を仕立て直したんです」
「今日は何でも頼んでください。僕は貴女みたいな人にご馳走するために日頃、絵を描いてるんですから」
「そんなこと言って。そそのかさないでください。わたし、これでも一応、今、ダイエット中なんです」 
君代はお腹をさすると笑った。
「痩せる肉などないでしょう?」
「そうでもないんですよ?だから今日、長いスカートにしたんです。足が隠れるから」
それから少し、たわいもない話をし、君代が頼んだコーヒーが届く頃、嗣治が切り出した。
「実は今、一緒に日本に来た女性がフランスへ帰ってしまっているんです」
君代はカップからそっと一口、コーヒーを啜ると、上目遣いで嗣治を見た。
「それで、寂しくて、わたしですか?」
猫のようにくっきりとした、それでいて切長の目に見つめられ、嗣治は束の間、自分がどこにいるのか忘れた。
「そういうことじゃないんです。恥ずかしいことですが、僕は何度も結婚に失敗してきました」
君代は何も言わずに、頬杖をついて嗣治を見ていた。
何をどう話そうか、嗣治は窓の外を眺めた。
自転車に2人乗りした若いカップルが通り過ぎていく。
ハンドルを握る青年は前屈みで、何か大きな声で後ろの女性に話している。荷台に腰掛けた女性は片手を青年の腰に回し、もう片方の手で小さな花束を持って笑っている。
もし、自分があの青年くらいの歳ならば。
人生が、やり直せるなら。
画家としてはそれなりに成功を収めた。けれど結局今日まで、大切な人と出会えずにきた。いや、出会えた大切な人を大切に出来ずにきた。だから、大切にもしてもらえなかった。相手の不実を恨んだこともあったが、今思えば全て自分の未熟さ故だった。誰かを大切にするとは、生半可なことではない。人生を賭けるべきことなのだと、ようやく最近わかりかけてきた。若き日の、イヤリングのような恋は揺れて散った。今は、自分を見てくれるただ1人、その人の視線に誠実な自分でありたい。
繰り返した後悔と、さよならの後の虚しさの底で、1人、いつも、種を蒔いてきた。今度こそ、人に優しく出来るよう、誠実であれるよう、素直になれるよう、そう願って。芽はまだ出ないけど、いつか、その種の花を共に見て、泣ける誰かと出会いたい。
「何故、わたしなんですか?嗣治さんの周りには、綺麗な方は沢山いるでしょう?」
「わからないです」
そう言って、嗣治は子供のように俯いて頭を振った。
「わからないですか。それは困りましたね」
それからしばらく、どちらも黙ったまま、窓の外を眺めていた。
「わたしの田舎は田んぼばかりのところで、遮るものがなくて風が凄いんです。飛ばされないようにいつも前のめりで歩いてました。その代わり、お米は美味しくて、お盆になると母がおはぎを作ってくれるんです。毎年、それを楽しみに田舎に帰ってて、今年は作り方を教えてもらうつもりです」
そこまで言って君代は言葉を切ると、小さく息継ぎをして付け足した。
「そういうことを、そんな小さなことを楽しみに生きてる女なんです、わたしは」
嗣治は黙って窓の外を眺めていた。さっき自転車が行き過ぎてからは通る者もなく、初夏の午後の陽に照らされ、向かいの家の塀から顔を覗かせたひまわりが俯いていた。
「絵も、パリも、関係ないのです。貴女といられるなら」
君代はコーヒーを飲むと言った。
「いい気なことを言わないでください。マドレーヌさんのことはどうされるつもりです?」
「彼女とは別れます。だけど、どこにいるかもわからないんです。手紙の書きようもない」
君代はがま口から10銭銅貨を2枚取り出すと、テーブルへ置いた。
「いつかそうやって、わたしのことも捨てるおつもりですか?」
「待ってください。それは邪推です」
「そうですか。ではわたしを、信じさせてください」
君代は立ち上がり、嗣治に頭を下げると、店の出口へ向かった。

それから嗣治は、君代が仕事から帰るのを、店の裏口で待つようになった。
しかし夜遅く、君代が現れても声を掛ける訳でもない。
むしろ君代の姿を認めると、足早に立ち去った。
自分でも、何をしているのか何をしたいのか、わからなかった。何度も人を好きになっては破局を迎え、今度もそうではないかと君代に問われれば、反論する術も証明もなかった。ならばもう、ただそっと夜目に見る朧な君代の姿を糧に孤独に描いていくしかないと思った。それが自分と恋情とのいい距離感なのかもという諦念も生まれていた。
「いつまでそんなことをなさるおつもりです?」
ある晩、立ち去ろうとしたところ君代に声を掛けられた。
嗣治は振り向いた。
「わかりません」
君代はため息をつくとそのまま俯いた。
「では、もしわたしが明日、現れなかったらどうするつもりです?」
「貴女の幻影と生きていきます」
裏口の脇の柳が夜風に揺れていた。その下に佇む君代はどこかこの世の者でないようだった。自分は本当に今、君代と話しているのだろうか。
「本気で言っているのですか?」
問われてすぐに言葉が出なかった。ただ一言、そうだと答えればいいとわかっているに、それでは足りない気がして、言葉を探して余計、言葉に詰まった。この誠を真に伝えるには今ここで、腹を切って死ぬしかない気がした。その発想が、いかにも前時代的で思わず苦笑した。
君代は顔を上げると近づいてきた。
闇の中でも白粉の香る距離まで近づくと、小声で再度尋ねた。
「その無言を、信じてもいいのですか?」
嗣治はその声に、ようやくどうにか、頷いた。

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しばらくして、嗣治と君代は四ツ谷に家を借り、共に暮らし始めた。嗣治が50歳、君代が25歳の時だった。

君代と嗣治

そんなある日、1人の来客があった。嗣治は仕事で留守にしており、君代が応対した。
「貴女が君代さんですか?」
客間で向き合うと、赤髪の客人は流暢な日本語で問うた。
客人は嗣治と共に日本に来て、フランスへ帰ったはずのマドレーヌだった。
「はい」
君代はマドレーヌの目を見てしっかり答えた。
いつかこういう日が来ることは覚悟していた。
共に暮らすということは、あの人に心許した時から、共犯のつもりでいた。
マドレーヌもしばらく君代を見ていたが、言った。
「どういうつもりですか?こういうのを日本語で何て言うんでしたか、ありましたよね」
君代は落ち着いて答えた。
「藤田とは、あなたがフランスへ戻られている時に出会いました」
マドレーヌはフンッと笑うと言った。
「貴女もお金目当てでしょう?使われて、捨てられるだけです。あの人は、わたしじゃなきゃダメなんです。あの人はもうほとんど、フランス人ですから」
「そんなことはないと思います」
「貴女、こんな家にツグジ(藤田はフランスでツグジとよばれていた)を閉じ込めて、どうするつもり?貴女といたらツグジは平凡でつまらないジャポネと同じになってしまう」
「訂正してください」
君代は正座した膝の上に置いた拳をキュッと握り込んだ。
わたしの不実を責めるならいい。けれど、日本人を馬鹿にされる謂れはないと思った。
「何故?だってそうでしょ?小さい家、小さい庭、カフェもモルヒネもない。貴女、何を楽しみに生きてるの?貴女、ツグジに何を与えられるの?」
君代は少し考えて言った。
「おはぎですね。母から習って、最近ようやく美味しいのが作れるようになったんです。藤田も喜んで食べてくれます」
「ne sois pas idiot rends ce que tu m'as volé
(眠たいこと言ってんじゃないよ、この、泥棒猫が)」
マドレーヌは君代に顔を近づけ、フランス語で凄むと立ち上がった。
やるならやってやろう。君代も立ち上がった。マドレーヌはテーブルを回り込んできた。
至近距離で立ったまま睨み合った。背の高いマドレーヌを、君代は見上げる形になった。体格もマドレーヌの方が良い。
「小さくて細くてまるでお人形ね。ショーケースで大人しくしときなさい」
マドレーヌは君代の顎を人差し指でツッと撫でた。その指に噛み付いてやりたい衝動を、必死で堪えた。
わたしが礼節を失えば、嗣治に恥をかかす、そう思った。引き戸を荒々しく開けて、マドレーヌが出て行くと、君代はその場に座り込んだ。
睨み合いはしたが、マドレーヌの気持ちも痛いほどわかった。一方で、嗣治に惹かれていく気持ちを止められなかった。一番罪深いのは、自分な気がした。「貴女が嗣治を画家としてダメにする」、その言葉が胸に深く刺さっていた。

その数日後、マドレーヌは嗣治の実家の浴槽で亡くなった。モルヒネの大量摂取の果て、という報道もあった。
異国の地で、愛する人を奪われ、薬に溺れて死ぬのはどんなにか寂しかったろう、悔しかったろう、そう思ったら、涙が止まらなかった。
マドレーヌが訪ねて来た時、何故睨み合ったまま、別れてしまったのか。一つ、選ぶ言葉を変えていたら、笑い合って向き合えていたかもしれないのに。
「全部、僕がいけないんだ」
嗣治はそう言った。
「お願いです。これからは、わたしだけを見てください。マドレーヌさんのために」
嗣治が通夜から戻った夜、君代はそう懇願した。
その後、2人は正式に結婚し、生涯連れ添うことになる。

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やがて、第二次大戦が始まり、嗣治は陸軍美術協会理事長に就任した。
自らも「哈爾哈(ハルハ)河畔之戦闘」や「アッツ島玉砕」などの作品を書き、兵士や国民を鼓舞した。

「アッツ島玉砕」
「闘争」
(戦争画の一方で、独自の表現スタイルも守った)

長らく日本を離れていたからこそ、日本の役に立ちたかった。その思いで必死に大作の戦争画を描いた。
しかし、戦後、そうした嗣治の振る舞いは「戦争協力者」として批判された。GHQからも尋問された。軍は庇ってくれなかった。むしろ、画家代表の戦犯として嗣治をGHQに差し出した。人身御供のようなものだった。日本のために描いたのに、それがこの仕打ちか。
怒りと失望で、声が出なかった。
焦がれていた。いつだって。日本を離れた時から。ずっと日本に戻らなかったからといって、忘れたわけではない。むしろ離れていたからこそ、ずっと日本を遠く見ていた。初恋の人のように。なのに、それは自分のただの思い込み、片想いに過ぎなかった。日本の方では自分を利用し、いざとなれば切り捨てるトカゲの尻尾としか見ていなかった。怒りと失望の次に来たのは、寂しさだった。ずっと抱かれたいと願っていた母に手で払い除けられたような心許なさだった。この仕打ちに対し、嗣治はしばらく誰にも何も言わなかった。
ただ、GHQの取り調べがひと段落ついた1949年、君代に告げた。
「パリに戻ろうと思う。日本へはもう帰らない。僕と一緒に、祖国(くに)を捨てて欲しい」
君代はそれほど驚かなかった。
ただ、静かな目で問い返した。
「パリに行って、どうされます?」
「描くさ。それしかない。死ぬまで描くだけだ」
「わたしがもし断ったらどうされますか?」
嗣治は一瞬、答えに詰まったが、すぐに言った。
「1人でも行く。でも、できたら一緒に来て欲しい。君と一緒だと、何て言うか、日々が…楽しい」
楽しいと言ってから、自分でも驚いた。そんな言葉が自分から出てくると思わなかった。もっと、君代は自分の中で特別なものだと思っていた。神棚に飾りたくなるような。それが、いざ素直な気持ちを言葉にしたら、楽しい、だったとは。
「楽しい?」
「あぁ、何だか、楽しいんだ。ウキウキする。朝起きて、君がいる。それだけで僕は世界中の男より少し、得をしている」
そう言って、嗣治は笑った。流石に舌が滑り過ぎた気もしたが、全部本当の気持ちでもあった。
「わたし、以前、マドレーヌさんに言われたことがあるんです。わたしといるとあなたが平凡になってしまうって。それがずっと、気になっていました」
嗣治は少し上向いて答えた。
「端から、僕は平凡さ。平凡な僕が、君という特別に出会えた。だからこれは、僕のわがままなんだ。一緒に来て欲しい」
「わかりました。わたしでよければ、お供させてください」
君代はゆっくり頭を下げた。

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フランスへ渡った2人は1955年にフランス国籍を取り、同時に、日本国籍を抹消した。
君代は嗣治に尋ねた。
「日本が、憎いですか?」
嗣治はしばし、遠くを見る目をして答えた。
「僕はいつだって日本に焦がれてる。僕を先に捨てたのは、日本だ」

その後、夫婦でカトリックの洗礼も受け、ランスに聖母礼拝堂を建設した。
嗣治はそのデザインから内部の壁、四面を飾るフラスコ画を一人で描き上げた。

ランスの礼拝堂。今も嗣治の絵が残る

同時に、自分が亡くなった後、君代が困らぬよう、売却しやすい小品を描き溜めた。それは「君代コレクション」として、今も大切に保管されている。

晩年、癌に侵され、ベッドで寝ていることの多くなった嗣治に、君代は問いかけた。
「何か悔いはありませんか?」
嗣治は答えた。
「あるよ。でもないんだ」
「どういうことです?」
「君と出会えただけで、僕の人生は幸せだった。悔いといえば、もっと君を抱きしめれば良かったこと。僕は…」
何故だろう。
誰かに踏みにじられた、あるいは自ら踏みつけた花をどうにかしたくて、そのことに、随分長い時間を使ってしまった。傷ついた自分を抱きしめてくれる柔らかな手を欲していた。けれど、大切な人なればこそ、もっと抱きしめるべきだった。誰かを抱きしめている時だけ、人は誰かに抱きしめられ得るのだから。
「僕は…もっと君を幸せに…」
「わたしは、幸せでした。あなたに、たくさん、おはぎも食べてもらえました」
「伝えたいことがあるんだ」
嗣治に手招きされ、君代は耳を寄せた。
「恥ずかしい話、僕は君のことが好きなんだ」
君代は赤面し、滲んだ涙を拭うと嗣治を抱きしめた(終)

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