連載「若し人のグルファ」武村賢親35

 日曜日の「ガラスとクルミ」は、俺の予想に反して若い男女やガラベーヤ姿で写真を撮る女性グループで賑わっていた。

 平日とあまりに違う光景に降りる階段を間違えたのかと焦ったが、鼻に触れる煙の匂いは間違いなく小糸が自分で調合したというフレーバーで、あいつの身体に染みついた挑発的な誘惑の香りそのままだった。

 忙しそうに立ちまわる店員に断りを入れて、店の奥へと進む。今日もマティファは休みをもらっているのか、客間にも調理場にもいなかった。

 バックヤードに入ると客間の喧騒は嘘のように遠くなり、代わりにシーシャの空気弁が煙を吐き出す音が聞こえてきた。

 事務所の床に直接中型のシーシャをおいて、小糸はマブサムを咥えていた。吸い込んだ煙は、吐き出すというよりは自然と出ていくのに任せるといった感じだ。じっと動かず、デスクに片ひじをついて換気扇の羽を見つめている。

 壁をノックすると、小糸は虚ろな瞳のままこちらに視線を寄越した。
あぁ、いらっしゃい、と呟いて、マブサムを無造作に放る。ホースが向かいの椅子の座面にかかり、だらりと垂れ下がった。

 今日は、そういう日なのか。

 数回に一度の割合で、小糸の機嫌が悪い日に当たる。小糸は取り繕うようにすこしずつ調子を戻していって、最後にはいつも通りのペースに戻るのだが、こうなった小糸に関わって無事に帰った試しがない。

 日を改めようかと言った俺に、小糸は首を横に振っていつものように唇を吊り上げて見せた。俺が一歩近づくごとに、その瞳にはいたずらな輝きが蘇ってきて、すぐ目の前に立ったときには、すっかりいつもの様子に戻っているように見えた。まとう空気上のこととはいえ、こうも見事に変身されてはどこか気味悪くすら思える。

 小糸は立ち上がって、ここで作業してちょうだいと、自らが座っていた椅子を示した。薄手のストールポンチョの裾をひらひらさせて、もう一方の椅子に移動する。

「今日はずいぶんと客層が若いんだな」

 店のパソコンを立ち上げながら、座らず、椅子の背もたれに重心を預けて足をぶらぶらさせている小糸に視線を送る。

「言ったでしょう。見つけてもらえないならこちらから発信するしかないって。気づいていないかもしれないけど、昨日のうちに壁紙や絨毯も新しくしたのよ」

 そういえば、客にばかり目がいってしまい気に留めなかったが、どこか店内がなめらかになったというか、煩わしい毛羽立ちのような視覚的感触が、今日に限っては感じなかったなと思い返す。シーシャの貸出以外にも考えている施策はあるらしい。

 小糸はマブサムを取り上げて、仕事の前になにか飲む? と壁際に並んだガラス瓶を指さした。俺が車できているんだと告げると、気が利かないのね、とつまらなそうに言って、吸い込んだ煙をふぅーっと吹きかけてくる。

 普通の紙巻き煙草よりはるかに煙の量が多い。思わず咳き込み、手で顔の前を払う。小糸は面白がってか、二、三度同じように繰り返した。

「ふふふっ。それにしても、ずいぶんと早かったじゃない」

「知り合いに手伝ってもらったんだ。俺ひとりだったらあと二ヶ月はかかっただろうな」

「そう。お友達は優秀なのね」

 画面上に、アップロードした新しいウェブサイトを表示させる。
現行のサイトページに埋め込む形で貸出予約管理の機能を追加した新サイトは、桑原の提案通り、予約画面に進む選択をするとべつのブラウザが即座に開いき、そこでレンタルするシーシャの大きさや色、付属のするフレーバーなどを選ぶことができるようになっている。

 小糸はよどみのない動きで俺の膝の上に腰を下ろし、そのまま新しい「ガラスとクルミ」のウェブサイトを確認しはじめた。機嫌が悪いときに抵抗するとなにをされるかわからない。太ももに温かな重量感を感じながら、大人しく女王の気が済むまで待つことにする。

 しばらくの間、小糸はなんどもカーソルを動かして画面を上下にスクロールしていたが、最後には長く息を吐いて、これでやらせてもらうわと、ひと言告げて笑みを浮かべた。

「そうか。よかった」

 小さくガッツポーズをして、遠く横浜で中華料理でも楽しんでいるだろう桑原に心の中で合掌する。

 よかったな桑原、これでお前は車検勧誘の営業ノルマをクリアできるぞ。

 小糸が膝の上から退くのを待つが、シーシャから伸びるホースを指でいじることはしても、一向に腰を持ち上げようとしない。それどころか俺の顔を振り向きざまに見下ろして、まじまじと見つめてくる。

「なんだよ。早く退け」

「あなた昨日、マティファとデートしたんですってね」

 悪いことをしたわけでもないのに、心臓が跳ねた。この距離では鼓動の速さを気取られるかもしれないが、せめて表情にだけは出すまいと、眉間に意識を集中する。

「さっそく仲よくしてくれているようで嬉しいわ」

 小糸は身体の密着度を高めるように寄りかかってきて、俺の髪を梳くようにこめかみを撫でた。古傷の上を指がなぞると、背中に寒いものが走る。胸に感じる体温は熱いくらいなのに、手の先は驚くほど冷えていた。

「いい子でしょう、あの子」

 優しい口調に反して、その瞳には射抜くような鋭さが宿っている。

「デートじゃない。雨に降られて困っていたから、お前のマンションまで送っただけだ」

「ふふっ。そう。楽しかった?」

 どうやら昨日の一件は、すべて筒抜けであるらしかった。

 身体を離して、小糸が立ち上がる。自然と大きく息を吐き出したら、その隙をつくかのように小糸の人差し指が俺の唇に触れた。まだ気を抜いちゃダメ、という言葉とともに指はゆっくり離れていって、操る主の唇で止まる。

 こいつといい、昨日のマティファといい、どうしてこの姉妹はこうも俺の隙を突くのが上手いのだろう。

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