連載「若し人のグルファ」武村賢親34

 今朝はいっそう忙しない朝だった。

 桑原と横浜観光の約束をしていた丑尾は前日に荷造りというものをまったくせず、早朝の日課をいつも通り終えてから支度にかかったのだ。お陰で、早くに目が覚めて、遠出の際の必需品探しを手伝わされる破目になった。

「たぶん夜には帰るけど、晩飯食ってから帰ってくるわ。十時過ぎるようなら先に寝てくれ」

「それはいいけど、お前ちょっと気をつけろよ。あんまり浮かれ調子だと下手打つぜ」

 玉輝のラジオを聞いてからというもの、どこか丑尾の様子が浮足立っているように思えてならない。

「わかってるって。そんなに迷惑かけねぇよ。自分のことは自分で話すって」

 最寄り駅まで出て桑原に拾ってもらう手筈だそうで、九時前に玄関の扉を開いた丑尾は意気揚々と大手を振って出かけていった。

 少々心配の方が勝るが、桑原もいるし、なにかあったらフォローしてくれるだろう。

 リビングに戻り、たった半日でもとの状態に戻されてしまった部屋を見まわす。適当に積み上げられた服、テーブルの上の木片、高さの揃っていない本棚の本、この調子ではたとえベランダの廃材を片づけたとしてもすぐにまた新しいのをもらってきて、同じ状態に戻るだけかもしれない。

 ベランダの隅のおがくずに水をかけて、風で巻き上がらないようにしてから洗濯物を干していく。同居当時は意識して気にしないふりをしていたが、最近ではもう丑尾の下着を手にしてもなにも思わなくなった。

 同居しはじめのころは、先程の玄関で言ったように、自分のことは自分で、という約束で丑尾はうちに転がり込んだのだが、半年と経たないうちにボロが出はじめて、自炊はするも栄養が偏り、洗濯はするも干す手間が惜しく、掃除はするもベランダはあの状態といった感じで、けっきょくあいつが大工修行に専念できるよう俺がなにかと手をまわしていたら、いまの状態に落ち着いてしまった。

 悪い癖だなと、朝食の準備をしながら思う。

 作業着のポケットに空いた穴も、けっきょく俺が繕ってやった。丑尾は気づいていないだろうが、紺色の作業着に黄色の糸を使って縫い合わせたのでけっこう目立つ。職場で突っ込まれていないのか、いまのところ反応はない。

 もし気づいたら、丑尾はどんな反応をするのか。仕事から帰ってくるなり、おい恭介なんだよこれ! と憤って見せる丑尾の仏頂面が目に浮かぶ。
食パンをトースターにかけて、その間に風呂の掃除をする。

 帰ってきたら絶対に煙くさいに決まっているから、帰宅早々風呂場に直行して、まずはシャワーを浴びてしまおう。そのあと一息ついている間に浴槽に湯を溜めて、眠る前にもう一度浸かるのだ。丑尾のいない休日は珍しいから、ちょっとくらい贅沢に過ごしても良いだろう。

 バターを塗ったトーストと、イチゴジャムを混ぜたヨーグルトという簡単な朝食を終えて、パソコンを開く。小糸に納品するデータの最終確認を午前中のうちに終わらせてしまって、午後には「ガラスとクルミ」に出向くつもりだった。

 分割統治法とやらで桑原に設定してもらったセクションごとにデバッグを実行する。ウィンドウに映し出された英数字の羅列がどんどん下方へと流れていくのを見守りながら、これは一発OKが出なくても桑原のところに車検を頼まなければ、と思い直す。俺ひとりだったらおそらく、一月どころか二月あってもこれだけの作業量は熟せなかっただろう。昔つくったコードをコピペしてなんて言っていたが、そのソースコードを書くのに桑原はどれだけの日数を要したのか。

 デバッグが終点まで到達し、最後の列に〝SYSTEM ALL GREEN″という一文が表示された。桑原の奴が遊び心で書き込んだのだろう。昔見たアニメの文言をそのまま持ってきた無駄コードだったが、こんなものを仕込む余裕すらあったのかと頭が下がる思いだ。

 データを保存し、バックアップも取る。

 さぁ正念場だと意気込んで、愛車の鍵に手を伸ばした。

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