連載「若し人のグルファ」武村賢親3

 小糸の営むシーシャ屋は新大久保の雑居ビルディングの地下にひっそりと店を構えている。「ガラスとクルミ」なんて洒落た名前をかかげているが、その実態は違法摘発されたガールズバーを改装しただけの、湿気と外国人ばかりが集まってくる煙の王国だ。

 店内に踏み入ると、数種類のフレーバーが混ざり合ったスパイシーであまったるい煙に嗅覚がやられ、大都会東京から異国の薄暗い地下バーへとはじき出されたかのような錯覚に陥る。本革で張られたソファや、濃い赤と茶色を基調とした内部の配色は、一見すると高級そうだ。しかし良く目を凝らして見ると、傷や擦れが目立つ壁紙だったり、クレートップに乗せる炭を落としたのだろう焦げ目が木の節のようになったペルシャ風の絨毯だったり、そこかしこに間に合わせや誤魔化しのための品が並び、雰囲気を演出する上での詰めのあまさが見てとれる。

 最近のシーシャ屋はSNS映えするといって小さなブームを呼んでいるというのに、小糸の店は相変わらず、女子大生やOLよりも小太りのビジネスマンやたっぷりの髭を蓄えた異邦人の姿ばかりが目立つ。

「いらっしゃいませ」

 入り口に最も近いソファ席に腰を下ろすと、見覚えのない女性店員が近づいてきた。褐色の肌で、背が高い。小さなメモ帳とボールペンを胸の前で構えて、俺の注文を待っている。

「小糸を呼んでほしい」

 俺がそう言うと、ほんの一瞬、ボールペンを動かしかけて、店員は首をかしげた。

 新顔だろうか。肌の色や髪の艶は異国のそれで、顔だけは日本人に近いつくりをしている。

 いかにも小糸の趣味に合いそうな容姿をしていた。

 俺がもう一度同じ注文を繰り返すと、彼女は小さく二回うなずいて踵を返し、店の奥へと戻っていった。

 この店にしても、立ち働いている店員にしても、煙の国の女王はいくつかの文化を無理やり混ぜ込んだようなものが好きらしい。

「小糸がお会いになるそうです。どうぞ、こちらへ」

 戻ってきた新顔の店員に促され、席を立つ。どことなくフランス語の訛りを感じさせるが、流暢な日本語だった。一七〇後半くらいあるだろうか。前を歩く店員の首筋辺りに視線の高さが合う。

 炭を焼く台と簡単な食事をつくる調理スペースを抜けて事務所を兼ねたバックヤードへ通される。そこは小さな部屋になっていて、従業員用のロッカーと背の低い木製の飾り戸棚、スチール製のデスクとパイプ椅子が二脚だけおいてある、なんとも窮屈な空間だった。

 小糸はふたつあるパイプ椅子の片方に脚を組んで座っており、俺と視線が合うや否や、にぃっと唇の端を吊りあげた。

「いらっしゃい。待っていたわ」

 キーの高いハスキーボイスが鼓膜をくすぐる。

 もはや太ももが完全にさらされているクラッシュデニムにマスタード色のノースリーブカットソーを着て、すっと伸びた細い手首をたくさんのブレスレットで飾っている。

 背の高い店員が出ていくのを待って、小糸は向かいの椅子に座るよう言った。

「なにか飲む? あいにくと今日は安物のスコッチしか在庫がないの」

 小糸はその、相変わらず日焼けとは縁のなさそうな白い腕を伸ばして、壁際の床に並べられた空き瓶の中からすこしだけ茶色い液体の残ったドーナツ状のガラス瓶を持ち上げた。

「遠慮しておく。俺がその手の蒸留酒を飲めなくなったのは誰のせいだと思ってるんだ」

「楽しかったじゃない。一晩中語りあかしちゃって」

 じっと俺を見つめてゆらがない垂れ気味の三白眼や、いちいち唇を湿らせに出てくる先の尖った舌のピアス。そしてその舌と同じ色をした爪のマニキュアに至るまで、小糸を構成する要素には必ず、すべての欲望を投げ込んでドロドロになるまで煮詰めたような妖しい雰囲気が備わっている。

「そのうちまた、ふたりで飲みましょう。あの部屋は引き払っちゃってもうないけど、新しく引っ越した部屋は広いのよ。きっと声の大きさなんか気にせずに楽しめるわ」

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